7-2.二次創作小論/夢小説の歴史化に向けて/二次創作史という矛盾


 ③二次創作小論


 二次創作がもたらす読むこと/書くことの混乱について、もう少し考えてみましょう。



 まずは原作を読まずに二次創作を読む慣行を取り上げます。その存在を知ったときは面食らいましたが、よくよく考えると他分野でも似たようなことが起こっています。



 例えば、批評/レビュー。

 T. S. エリオットでも蓮見重彦でも東浩紀でもamazonのカスタマーレビューでも何でも良いですが、批評家/レビュアーが書くテキストを「論じられている作品を読むまでは絶対に読まない」と決めている人はそう多くないと思います。というかレビューは作品紹介・作家紹介が目的なので、原作未読が前提です。

 批評に関しては、作品を知らない状態で提示される「作品の読み」に独特の面白さが宿るのではないでしょうか。批評はレビューをしばしば兼ねるため、こういった消費は予め想定されています。

 強調しておきたいのは、優れた二次創作は原作に対する批評としての側面を持つことです。



 例えば、ゲームプレイ動画。

 今やプレイしたことがないゲームのプレイ動画を見るのは普通のことです。ゼロ年代以降の「二次創作」的な営為の中では一番広まったものではないでしょうか。

 二次創作小説との関係で言うと、ニコニコ動画におけるRTA動画の流行に触発されて、2019年に「RTA小説」というジャンルが開拓されました。文脈が無駄に高度なので詳細は省きます。



 例えば、ファスト映画。

 レビューの中でも概要の把握に特化し、原作を食いつぶそうとする方向性です。

 この傾向は二次創作の中でも観察できます。いわゆる「原作沿い」(オリ主・オリキャラが出てきても原作の展開から大きく外れない)の作品群です。

 書き手はおそらく意識していないのですが、読み手からするとファスト映画的に消費できてしまいます。また、「原作沿い」の二次創作は「原作未読」系二次創作の前提になっています。原作沿い二次を読んで原作(のよく二次創作される部分)を把握するからです。


 原作沿い二次は書き手側からすると、原作を大きく改変する産みの苦しみ(と楽しみ)から解放され、一定の書きやすさが保証されます。


 読み手側からはなぜ好まれたのでしょうか? 原作物語への愛着、ではありません。二次創作の「二次」性は別に重視されていません。

 むしろ、同じ物語が微改変されながら何度も語り直されることに独特のグルーヴ感があるからだと考えられます。なろうのテンプレもこういった安全ベースと反復の快楽です。音楽ジャンルのファンクやヒップホップとの類似性も指摘できます。

 通常の物語消費が後退していることに注意しましょう。消費の中心は物語外、例えばキャラ萌えや作者-読者共同体におけるコミュニケーションにあります。物語も消費されていますが、その方法はデータベース/参照系的です。


 ファスト映画を持ち出したのは、Web二次創作小説のグレーゾーン性・無料性に言及したかったからです。

 同人誌即売会等で頒布される二次創作も法的な問題が絡みますが、Web二次創作小説はインターネットの匿名性が加わって独特の磁場が形成されているように見えます。



 原作を読まずに二次創作を読むことは案外普遍的な現象であることが分かりました。しかし、原作未読系二次創作はどうでしょうか? 

 ネタとしての「ミリしら」は昨今普及していますが、原作未読をネタにしていない二次創作的な現象は他に例があるでしょうか? 


 同じ穴の狢感はありますが、90年代に「(エロ)同人は金になる」ことが判明してから発生した「同人ゴロ」を挙げておきます。

 想定しているのはキャラの外見だけ見て描かれる成人向け二次創作漫画です。参照系以前のデータベース消費ですね。


 テキスト媒体で無理に例を探すと、ポストモダン作家のボルヘスとか。

 いえ、「原作を読んでいるかどうか分からず、そもそも引用されている書物が実在するのかも分からない」という形でボルヘスは「原作」をかなり問題にしているので見当違いです。架空ゲーム転生ものの先駆者とは言えそうです。


 あるいは、バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』のように、「知ったかぶり」の所作としては普遍性があるかもしれません。



 転生オリ主に関連して、二次創作がもたらすリアリティの混乱についても書く予定でした。「転生オリ主が世界を創作物だと認識している(「原作」を知っている)が故の活躍と、裏返しの孤独」のようなミームをとっかかりに。

 ただ、ちゃんと扱おうとすると「ゲーム的リアリズム」(東浩紀)や「マンガ・アニメ的リアリズム」(大塚英志)から説明する必要があるため、この点については別稿に譲ることにします。




 ④夢小説の歴史化に向けて


 第六話では具体的な夢小説作品を一つも紹介しませんでした。これは各サイトの規約に従った結果です。

 いや、正直に言うと「そもそも作品を探せない」「何が重要な作品か分からない」問題の方がずっと影響していました。

 当時の個人サイトはInternet Archiveにすら残ってないことが多く、個人サイトをまとめていた検索サイトはアーカイブ上では動きません。


 夢小説を今本格的に語ろうとすれば、当事者たちの証言によるしかありません。

 そして2010年代中頃から散発的な語りや研究が見られますが、未だ体系的な論には程遠いのが現状です。

 第六話の「史観」も断片的資料や証言をかき集めて再構成したものになります。04年以後の夢小説の動向も気になってはいるのですが、ケータイサイトの時代に突入し資料が本当に無いので今回は諦めました。



 筆者はこのエッセイを書く前、夢小説についてほとんど何も知りませんでした。

 そのため第六話の内容には不足や誤りが含まれるかもしれません(何かあればご指摘ください)。

 もっと深刻には、「抑圧してきた側」が「されてきた側」の声を勝手に代弁するような暴力性が現れているかもしれません。歴史化の暴力です。

 転生オリ主を主としてトリップ夢主を従とするような書き方(転生オリ主中心主義)も、資料の少なさが影響しているとはいえ、微妙なところがあります。


 夢小説を扱うことはデリケートな問題になります。

 狭義の夢小説は「女性向けソフトポルノ」であるため、不当に抑圧され抑圧が内面化されてきたことを踏まえつつ、ポピュラー/アングラカルチャーとして研究するのが妥当そうです。

 抑圧を考慮しても現代的な水準のフェミニズム・ジェンダー論だと全てを擁護するのは無理です(BL同様に)。ここが難しいところです。

 なお、転生オリ主周辺は「ザ・男性向けソフトポルノ」なのでもっと救えません。今回のエッセイは一貫してポピュラー/アングラカルチャーとして扱っています(※1)。

 

 今なら歴史化しない(潜伏を優先する)よりも、歴史化する(表に出す部分をコントロールする)方が抵抗の手立てとして有効だと思うので、夢小説当事者の方々にはぜひ通史を編んでいただきたいと思います。




 ⑤二次創作史という矛盾


 と言いつつ注意したいのは、このエッセイでやっているような「二次創作の歴史」という試み自体に矛盾が内在していることです。


 「歴史」というとどうしても単線的な発展を想定してしまいがちですが、同時代の様々な文化の影響を受けている(原作となる漫画・アニメ・ゲーム・ラノベ、同人誌即売会、社会情勢、etc)ことから分かるように単線的ではありません。

 また、何度も忘却と再発明が繰り返される(例えばオリ主概念)ので発展的とも言えません。文脈は蓄積されると同時に忘却され、放棄されています。

 筆者は今回調査を始めるまで2000年前後の『エヴァ』『Kanon』二次のことを知らず、知ったときには「もう全部あったんだ」と驚きました。でも、別に知らなくても2010年前後の転生オリ主二次は楽しめたわけです。


 二次創作が引用によって過去と現在を並列に扱い(歴史の空間化)、参照系により原作と二次創作の上下関係を曖昧にするならば、「二次創作史」も自ずと空間化せざるを得ないのでしょう。Webという媒体もきわめて空間的です。

 要するに、嫌になるくらいポストモダン的状況なのです。


 転生オリ主とトリップ夢主も、影響関係ではなく相似関係で見るべきでしょうか。海外の創作シーンで転生が出現していたのを知ると、収斂進化の疑いがより強くなります。



 「二次創作史」に対する処方箋の一つは、扱う対象を限定することです。

 例えば、『エヴァ』二次について扱った論文『二次創作(を/から)視る』は、周囲の二次創作が少なかった1996-2003年を主題とすることで、『エヴァ』二次への限定をある程度正当化しています。

 『東方』二次について扱った論文『二次創作と同人誌即売会をめぐる語り』は、さらに個人の経験に着目することで、時間スケールを自然に導入しています。


 また別の方法として、統計的・定量的なアプローチが考えられます。個人サイトの時代(-2008年)だとデータの消失やデータをとる場所の設定が問題となりますが、Web小説集約以後ではきわめて有効な手段です。

 例えば、『web小説における「転生」普及過程』はこの方向で大きな成果を上げています。



 しかしこのエッセイでは、上記の手段のいずれも選びませんでした。


 転生オリ主という汎二次創作的な運動を捉えるためには、時間も空間も広くとり、各作品の定性的な分析や当事者の証言に基づく「歴史語り」が良いだろう、という判断です。

 転生オリ主はもっと広く、なろうに輸入されたことを踏まえれば汎作品的であり、「原作世界」と「現実世界」を越境することで主人公/作者/読者の「現実」の虚構性を示す点では、汎リアリティ的とさえ言えます。


 また、当初は教科書的なものを目指していましたが、最終的には自分の興味関心に基づく分析をたびたび挟みました。

 裏テーマとして、つねにどこか二次創作的なオタクサブカルチャー全般、あらゆる創作の基礎にある引用・パロディ行為、果ては作品を読むこと/書くことの現代的意味まで、何かしら引き出すことを狙っています。転生オリ主の射程はそこまであると信じて。


 これらの妥当性については、読者の方々の判断に委ねたいと思います。





―――――――――――――――


 ※1:このエッセイでは表層部分をなぞるにとどまりましたが、二次創作のポルノ性を切り捨てることなく欲望の多様な表出として分析することは重要な仕事です。実際に「オタクの欲望」を主題とした研究はよく行われています。例えば:


斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000年)

堀あきこ『欲望のコード』(臨川書店、2009年)

東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』(新曜社、2015年)


 しかしゼロ年代以降、「オタク」という自意識は希釈拡散し続けました。今の若者にとって(一部の)アニメを観ることはオープンにしてよい趣味です。アメリカではラッパーとアニメキャラを同じ画面に収めるコラ画像が流行し、グラミー賞ラッパーのタイラー・ザ・クリエイターはTwitterで「otaku」とつぶやきました(『HipHopとオタクをめぐる覚え書き-其の1:黒人文化とアニメ編-』参照)。

 先行研究における分析が現在も有効なのか、あるいは出版以前に限定しても妥当だったのかは、今後議論されるべきでしょう。


 話は前後しますが、ゼロ年代批評において二次創作論は「オタク」論の出汁として使われがちでした。

 それに異を唱え、「オタク」論に拘泥せずとも二次創作テキストについて十分研究する余地があることを示したのが、七万文字もある浩瀚な卒業論文『二次創作(を/から)視る』(2007年)です。このエッセイもその方針に従っています。



[参考文献]


二次創作(を/から)視る

http://nss.atlas.vc/other/thesis.htm


二次創作と同人誌即売会をめぐる語り : 東方project を軸としたそれぞれの体験

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/71626/NG_37_123.pdf


web小説における「転生」普及過程

https://ncode.syosetu.com/n4531hu/


HipHopとオタクをめぐる覚え書き-其の1:黒人文化とアニメ編-

https://note.com/fugakura/n/n0fa48f96f64a


ピエール・バイヤール(著)、大浦康介屋(訳)『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008年)



 パロディ・引用に関して、二次創作論だと何故か見かけない「間テクスト性」「リライト」といった概念から考えることもできます。ポストモダン文学や中世文学の研究書も参考になるでしょう。


リンダ・ハッチオン(著)、辻麻子(訳)『パロディの理論』(未来社、1993年)


ジェラール・ジュネット(著)、和泉涼一(訳)『パランプセスト―第二次の文学』(水平社、1995年)


西川直子『クリステヴァ(現代思想の冒険者たち 30)』(講談社、1999年)


篠田勝英、海老根龍介、辻川慶子(編)『引用の文学史――フランス中世から二十世紀文学におけるリライトの歴史』(水声社、2019年)


旧約聖書の編集史と間テクスト性について(K.シュミート『旧約聖書文学史入門』)

https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2023/05/20/025500



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