2話 「シン」


◆ある少年の回想



正太郎は、児童養護施設の一角で蹲っていた。

多目的室と名ばかりの、遊具が乱雑に置かれた薄暗い倉庫で、膝を抱えている。

黴臭さが漂い、尻の辺りが濡れているように冷たい。

外から人の気配がするたび、正太郎は亀のように、身を縮こまらせる。

当たり前にあるはずの、人の気配が空恐ろしい。

見つかれば、どこか知らない遠くの地に連れ去られてしまうかのような心細さ。


「(父さん……どこ行ったんだろ)」


施設に入ってどれほど経っただろうか。

父が黙って家を出て暫く。食事もろくにとらず、衰弱状態でいるところを、ある男性が見つけて保護された。

そうしてこの施設に入り、一向に迎えに来ない父を、正太郎は縋る思いで待ち続けていた。

家から引き離され、知らない場所でひとり寝泊りする布団から、知らない匂いがすることが心細くて堪らない。


「あ、いたぞ、正太郎だ」

「探したわよ、正太郎くん」

「一緒にあそぼうよ」


多目的室に、複数の子どもが押し入ってくる。

皆、顔だけは知っている。

正太郎と共同寝室を同じくする子もいる。名前を覚える気はない。

皆、親に傷つけられたり、捨てられたり、故あって引き離された少年少女ばかり。

大抵この施設に預けられた子供達は、大人が大嫌いだ。だから子供だけで団結している。

その空気が、正太郎は苦手だった。

父親を大好きな自分の気持ちを、団結力によって否定されることが癪だった。

爪先を丸める正太郎の前に、年長者の女の子が一歩、踏み出した。

切り揃えられた黒髪が美しい少女だ。

彼女の名前はなんだったか。髪と同じくらい真っ黒な、黒曜石みたいな目が印象的だった。


「先生が探しているわ、戻りましょう、正太郎くん」


女の子が手を差し出す。

正太郎はその白魚のような手をじとりと睨みつけ、無下にも弾いた。

彼女の態度から、上から物を見るかのような威圧感を感じて、不愉快極まった。


「頼んでない。僕に構わないでよ」


自身に集まる、非難の視線と声から逃れるように、正太郎は多目的室から飛び出した。

多目的室は小さなグラウンドに直結している。

何人かの男児たちが球技に夢中になっていたが、正太郎は目もくれなかった。

正太郎が預けられた児童養護施設は、田園と小高い丘に囲まれた静かな場所にある。

大山家から車で二時間弱の場所にあり、まだ開発が進んでいないのどかな土地だ。

グラウンドの西口から出ると、道路を挟んですぐの田園の向こうに、見知った住宅街がのぞめる。

田畑を挟んで隔絶された世界が、正太郎にとっては苦痛でしかなかった。


「(きらい、きらい、きらいだ、何もかもが)」


ぬかるんだ土の臭いや、澄み渡る冬の山の寒さが、住み慣れた町の記憶を塗り潰してしまう。

そんな妄想にも似た空恐ろしさに心を蝕まれていくようで、逃げ出してしまいたかった。

町に続く広い道路を、脇目もふらず駆けていた。

どれだけ走っても屋根の群れは近づくことなく、むしろ正太郎から遠ざかっていくかのように思われた。

かじかむ寒さに目が霞み、歯を鳴らしながらアスファルトを蹴る。

すれ違う、見知らぬ子供達の奇異の視線を背中に受けて、疲れ果てるまで走る。


「正太郎くん、敷地の外に出ちゃ駄目よ。危ないからね」

「お父さんに会いたい気持ちも分かるわ。でも居ない人を探したところで、会えっこないよ」

「それより皆と仲良くしましょう?一人じゃ寂しいでしょ。皆正太郎君と仲良くしたいって言ってたわよ」


施設に迎えられて以来、毎日同じ行為を繰り返した。足が引きつって動かなくなるまで、道路を脇目もふらず走る。

探しにきた大人たちに連れ戻されて、もう二度としてはならないと叱られても、やはり次の日には同じことをしでかした。

友達になろう、一緒に遊ぼう、そんな優しい声をかけられても、全て突き返した。

新たな優しさを知ってしまえば、父はもう戻ってこない、そんな確信が正太郎にはあった。


大人の目を盗んでは、今日こそはと町に向かって走り続けた。

無駄な事、と見えない誰かが囁いても、知らぬふりをした。

言って聞かせるだけでは埒が明かない、そう判断した周囲は、正太郎に外出禁止令を出した。子供らの目も厳しく光っていた。


しばらく、正太郎は諦めたかのような素振りを見せた。

大人たちはようやく大人しくなったと安堵したその矢先に、正太郎を引き取りたいと願い出る者が出た。


「叔父さんがね、正太郎くんを引き取りたいって言ってたわよ。良かったわね」

「とても優しい人よ。きっと正太郎くんのこと、大切にしてくれるわ」


先生は心から喜んで、小さい頭をかいぐり撫でた。

翌日、正太郎は陽も登らぬうちから寝床を抜け出した。半分寝惚けた警備員を尻目に、門をよじ登って、朝靄の中を駆け抜けていた。


とても痛快な朝だった。足取りも軽く、どこまでも走れる気がした。

人影はどこにもなく、鳥の囀りもない。薄雲が白い空にのっぺりと広がる朝だった。

田んぼも道路も、霧にすっぽり覆い隠されて、遠く正太郎が住んでいた町が顔を出している。

この瞬間、自分と町の間に隔たる田園が見えない今ならば、あの町に追いつける、我が家に帰れると、そんな希望が首をもたげた。


足裏がアスファルトを蹴ると、足元に漂う冷気がわびしげに正太郎へ別れを告げた。

爽快感を振り払ったのは、こちら側へと歩いてくる一つの影だった。近づいてくる人影を見るや、晴れやかな気持ちはみるみる空気が抜けるように萎んだ。

正太郎は速度を緩め、俯きがちにすれ違おうとした。

顔を見られたくなかった。だが自信もあった。

霞の中を歩いてるうちは、相手に顔を見られまいと高をくくっていた。


「どこへ行くんだい」


その声は、霧の中で、鈴が鳴るように凜、と響く。背丈は大人であるのに、幼さを含んだ、不思議な声だった。

正太郎はぎくりとして、その場で歩みを止めた。

霧靄がより一層濃く感じられ、東の空が雨の匂いを連れてくる。


「どこへ行くというのだ」


もう一度、人影は問いかける。ちりんと、甲高い鈴にも似た音がした。

どこかで味わった冷たさが頬を、喉を、うなじを伝い、骨をなぞるように沁みていく。

嘘を口にすると、連れ去られて、二度と戻れなくなる。直感めいたものが正太郎に囁く。


「父さんを、探しにいくんです」


泣きそうな声をあげて正太郎は吐露した。

肺から無理矢理言葉を引き出される、そんな力を声の主は持っていた。

早くその場を離れてしまいたいのに、手も足も、身動きひとつ取れない。霧が枷のように重く、生き物のように絡みつく、そんな違和感があった。


「も、もう行きますね」


どうにかすれ違おうと、重たい足をひきずって立ち去ろうとした。一分一秒でも無駄にはできない。

今この瞬間にも、父は家に帰ってきているかもしれない、その焦りが正太郎の足を突き動かした。

だが、人影はそれを阻んだ。霧からぬっと突き出た白い手が、少年の右腕を掴む。

触れた皮膚を、灼けるような熱が襲い、骨は凍りつく冷たさを覚え、正太郎は絶叫した。


「行き先は、そっちじゃない」


人影は静かに、確信をもった声で告げる。

正太郎は細い手を振りほどこうと躍起になったが、まるで鉄の枷のようにびくともしない。


「離して、僕、帰らなきゃいけないんだ。

父さんを待つんだ。あの家にきっと帰ってくるんだ、だからお願い」


正太郎は座り込んで、泣いて懇願した。しかし相手の腕はしっかりと手首を捉えて離さない。さりとて正太郎をいずこへと連れていくでもない。

霧が僅かに腫れた時、人影と目が合った。

真っ黒に塗り潰された目が正太郎を見据えていた。白目もない、ぼっかり空いた空洞の奥で、青い炎が燃え盛る。

正太郎の目の中でも、青い揺らめきが身を躍らせる。その直後に感じた強烈な熱に、正太郎は再び叫んだ。

熱い。目玉がそっくり火になってしまったかのように、脳から足先まで熱が駆け抜ける。

黒い目玉が、青い炎の瞳が、泣き喚く正太郎を見下ろしていた。



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