目を覚ますと、時刻は既に四時を過ぎていた。しまった、と正太郎は飛び起きた。時計を見た瞬間から、眠気は一気に吹っ飛んだ。

約束の時刻を絶対に過ぎてしまう。

確実に、七生は遅刻を理由に、また殴ってくるだろう。

――いっそ、お守りは諦めてしまおうか?


「やあ正太郎君、起きたかい」


公太郎が相変わらず人の良い笑みを浮かべて、キッチンから出てくる。

寝ているうちに戻ってきたのだろう。顔から少し疲れが伺えた。

その表情を見ると、ずくりと胸が痛んだ。

正太郎の腹に、ブランケットがかけられていた。彼がかけてくれたものだろう。

だが今の彼に、礼を口にする余裕はなかった。


「友達に会ってきます」

「正太郎くん!?こんな時間に一人で出歩くのは危ないよ!」

「すぐ戻りますから!」


正太郎はそれだけを言い残して、無我夢中で家を飛び出した。

公太郎がもし、あのお守りに悲惨な出来事が起きたとしたら、悲しむに違いない。

それだけは避けたかった。

何があっても君を守ってくれると、お守りを渡す公太郎の笑顔を裏切りたくないと思ったのだ。



時間は二時間ほど遡る。

公太郎はスーツ姿で、正太郎の小学校に出向いていた。指定された四時半に、四年生の教室で、正太郎の担任と対面していた。


「残念です。お別れ会もできず、正太郎君とさよならなんて」


担任はのんびりした口調はそのままに、悲しそうに目を伏せた。

彼女は子供好きの教師で有名だ。

本来なら、転校する生徒には特別にお別れ会というものが開かれる。

送別会を実施しなかったのは、巷で騒がれている殺人鬼の一件があるからだ。

子供を長時間学校に置けば、父兄から苦情がくると学校側は判断した。集団下校も、まだ捕まっていない殺人鬼を警戒してのことだ。


「そうですね、僕としても、きちんとお別れをさせられなくて残念です。正太郎君に、友達はいましたか?」

「ええ、友達はいましたよ。休み時間によく、その子に誘われて鬼ごっこやドッヂボールをして遊んでいました」


子供の話題になると、担任は楽しそうに語る。

本当に子供が好きなのだろうな、と公太郎もふっと微笑んだ。


「だからこそ、本当に残念です。例の、一月に起きた児童殺害事件の被害者の一人は、私の受け持つクラスの児童だったんです」

「そうなんですか……」


涙ぐむ担任に対し、公太郎は驚いたふりをしてみせた。

あるツテで事前に入手した情報だ。被害者についても把握済みである。


「本当に良い子だったのに、どうして殺されなけばならなかったのでしょう。

 あんなに優しくて友達思いのあの子が……。私、いまだにあの子の事が忘れられません」


思い出す内に、感傷的になってしまったのか、担任の両目からは涙がとめどなく溢れ出る。

公太郎はそっとハンカチを差し出した。

担任は鼻声で謝りながら、ハンカチで目元を抑える。


「今日だって間違って宿題を一部多く刷ってしまって……。

 正太郎君もさぞや、ショックだったに違いありません。

 親御さんを失っただけでも辛いでしょうに、たった一人の親友まで……」

「そうだったのですか……彼は何も教えてくれませんでした」

「きっと、心配をかけたくなかったんですよ。何も言わなかったけど、今日学校にいる間じゅう、七生君の席ばかり見ていましたから」


泣きはらした目で、椎名は七生の席だった、空っぽの机と椅子を見やる。

そしてまた、生前の児童の笑顔でも思い出したのか、大きな音を立てて鼻を啜った。



正太郎は息を切らして、くれあい山の麓に辿り着いた。

山といっても、標高百メートルもない。

正太郎の家から、歩いて二十分ほどの場所にある、小さな山だ。


「遅いぞ、大山。十分の遅刻だ」


七生はベンチに座って悠々と待ち構えていた。

肩で息をする正太郎につかつかと歩み寄ると、容赦なく握り拳で右頬を殴った。

う、っと小さく呻いて崩れ落ちる正太郎を蹴り飛ばし、無理矢理立たせる。


「十分遅れたから、あと九発だな。今謝れば五発で許してやる」

「お守りを返して」


痛みに呻きながらも、七生の脅しを遮った。口の中に血の味が広がる。

七生は面白くなさそうに唇を尖らせ、正太郎の足に蹴りを入れる。

またよろけて倒れる正太郎を、冷めた目で見つめた。


「口答えしたから蹴り十発追加な」

「あぐぅッ!?ぐあ、ぎゃうっ、げふっ!?」


直後、躊躇無く脇腹に一撃入る。躊躇いなく、二発、三発、四発……。

きっかり十発入った後、やっと七生は蹴りをやめて、正太郎を無理矢理立たせる。

正太郎には、抵抗する気力は、もう残っていなかった。


「返してほしいんだろ?付いてこい」


七生は首にさげた公太郎のお守りをこれ見よがしにちらつかせ、くれない山へと足を踏み入れる。

背後に幽霊男の気配を感じた。服を掴み、行くなとでも言いたげに強く引っ張る。


「駄目だ」 正太郎は独り言のように言って聞かせた。

「あれを取り返さなきゃ」


くれない山の坂道を、七生と正太郎は黙々と歩く。

背中を見せる七生は、背後から襲われようと返り討ちにできる余裕を見せていた。

草木が生い茂り、丘は春の喜びをあちらこちらに垣間見せていた。

去年の今頃は、父母と連れ立って、くれない山で花見をしたものだ。

曲がりくねった石段を登るうち、立ち入り禁止の立札に辿り着いた。

七生はそれを無視し、蹴飛ばした。

ボロボロの立札はいとも容易く地面から抜け落ちて、斜面を転がり落ちていく。


「こっちだ、正太郎」


七生は涼しい顔をして、整備されていない獣道を進む。突き出た石にどうにか手と足をひっかけて、正太郎は七生に続く。

正太郎は徐々に、疑問を覚え始めていた。七生は何故、こんな道を汗一つ流さず登れるのだろう。小学生の体力で成し遂げられる所業ではないと感じた。

けれど既にその疑問を抱くころには、正太郎は戻れない位置にいた。

急な下り坂は、ちょっと見下ろすだけで眩暈を覚えた。もし誤って落下すれば、木や岩に頭を打ちつけてしまうことは想像に難くない。

やがて開けた場所に出た。正太郎は、目の前に広がる平坦な空き地に溜息を吐いた。

くれあい山には何度も足を運んだが、こんな空間があるとは思いもよらなかった。

教室一つ分の広い空間の中心に、大きな岩が一つ転がっている。七生は歩み寄ると、岩に腰掛けた。


「なあ正太郎。正月の初詣のこと、覚えているか」


七生はそう切り出した。海馬が記憶を探り出す。

母が亡くなって数週間後のこと、正太郎は家にいた。

初詣に出ようと思ったが、父は家にいなかった。悲しみに沈む大山家は、正月を祝う余裕がなかった。

その日、どういうわけか七生は大山家を訪ねてきた。

二年もの間、いじめの時間以外に口を利かなかった彼が、初詣に行こうと誘ってきたのだ。


『ずっと家にいるだろ、お前ひとりで。暗い奴だな。暇だし来いよ』

『いやだ。どうせいじめるんだろ』


正太郎は断った。

自分をいじめる七生が誘いに来るなんて、ろくな事がないと思ったし、父を待つ義務感が勝った。正太郎は珍しく強気な態度で七生を突き放し、固く扉を閉めた。

その事に関して、七生は責め立てることをしなかった。罵ることもしなかった。

一階の窓から確認した時、七生は一度だけ玄関の戸を蹴りつけて、そのまま立ち去って行った。


「あの日さ、俺、お前と別れた後に、死んだんだ」


七生は事も無げにそう言った。

やや間をあけて、正太郎は「え」と間の抜けた声をあげた。


「なんて?」


比喩か何かだろうか、と考える。分からない。七生は能面のように表情がない。

それが異様に不気味で、破裂寸前の風船を見つめる不安感のようなものを思い起こさせた。


「母さんが、「正ちゃんと初詣にいってきなさい」って言ったんだ。

お前の母親は俺の母さんと仲がよかったから、初詣に誘ってやれって言われてさ。

仕方なく行ったんだ。でもお前は来なかった。だから俺は一人で初詣に行った」


正太郎の脳裏に、灰色の空の下、一人で神社に向かう七生の背を思い浮かべる。

あの日、正太郎に突き放される瞬間の七生の顔を、どういうわけか思い出せなかった。


「その帰りに、俺は死んだ。殺されたんだ。

 どう死んだかは覚えていない。気づいたらこの山に埋められていた」


絵本を読み聞かせるように、七生は滔々と語る。


「この、岩の下に」


七生は自身が座っている岩を指さした。

彼の白い肌は、よくよく見れば生気を感じられないほど青白く、目に光がない。

冗談だと思いたかった。彼は恐がらせたいだけに違いないと、正太郎は思った。その思考を読んだかのように、七生は新聞紙を投げ出した。


「お前、親が死んでニュースとか見てなかったんだろうけどさ、俺が死んだ時はかなり大きく報道されたんだぜ。

 名前は出なかったけど、皆すぐ分かっただろうさ。死んだのは俺だって」


彼は自虐的に微笑んだ。正太郎は新聞を拾い上げ、一面を読む。

カラフルな見出しで、件の殺人事件について記されている。小学四年生の男子児童の遺体の一部が発見されたと書かれてある。他の体のパーツはまだ見つかっていないらしい、とも記されている。


「でも、君は学校に来ていたじゃない」

「誰も俺に気づいていなかったさ。視えていたのはお前だけだよ、正太郎」


ますます愉快そうに七生は口角を釣り上げる。底知れぬ恐怖を与える、情の欠片も感じない笑みだ。


「本題に入ろうか、正太郎」もったいぶって、七生は足を組んだ。

「俺を殺したのは、誰だと思う?」


冷たい風が肌を突き刺す。正月の冷風と同じだ。骨の髄まで突き刺さる冷気が周りを包む。


「俺を殺して、頭をちょん切って、こんな所に埋めたのは誰だと思う?」


地が揺れ動く気配がした。

木々が正太郎を冷罵するようにざわめく。夕日は雲に隠れ、空はにわかに陰る。

授業で習った、「逢魔が時」という言葉が、脳裏をよぎった。


「お前の父親さ、正太郎」


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