大山家から小学校までは、徒歩で十五分ほどだ。

まっすぐ五分ほど歩き続けると、陸橋があり、渡ってすぐ右手の小路に入る。

小路のすぐそばにはマンションが立ち並び、狭苦しい印象を与える。小路を出て、ゆるやかな坂道をのぼりつづけたところに小学校がある。


「(……行きたくないなあ)」


正太郎は俯いたまま、誰とも目を合わさずに歩き続ける。

小路で誰かとぶつかりそうになれば幽霊のようにするりと脇をすり抜けて、足早に先を急ぐ。

もうすぐ春休みということもあり、通学路は一足早い春の陽気で満ちていた。

休みは何をしようとか、どこへ行こうだとか、誰もが和気藹々としている。

誰も正太郎のことを気にも留めない。


もうこの通いなれた通学路を歩くこともないと考えるが、実感はわかない。

明日もまた次の日も、同じようにこの細い通学路を一人で歩く姿を思い描く。

もし友達の一人でもいれば、寂しさだとか別れの辛さを味わえるのかもしれない。

或いは、独りぼっちだからこそ味わわずに済んだのやも分からない。


「あれ、大山じゃないの」


後方から、人を小馬鹿にしたような声色が聞こえ、正太郎は身震いする。

同じクラスメイトの七生真矢ななおしんやだとすぐに気づいた。

心臓が急速に冷え、掌にランドセルの持ち手が痛い程食い込む。脹脛がひきつる。足を速めるが、七生が追いつく方が早かった。


「おい、無視してんじゃねえよ、チビ山

「ひっ」

「なにその顔。久しぶりの再会なのに、そんなツラする?生意気~」


七生は背が低く、正太郎と目線がほぼ変わらない。

顔だちも年相応で、あどけない顔つきをして、同い年の女の子たちに受けがいい。

だから大人たちは、七生が正太郎をいじめていることを一切知らない。

嬉々として背中を蹴飛ばしたり、上履きを窓から捨てたり、正太郎の筆箱から鉛筆を取り上げてへし折っているなんて、七生の無邪気な顔から、誰が察する事ができるだろう。


「聞いたぞ、お前。父ちゃんがいなくなったんだって。テンガイコドク、っていうの?」


その一言で、正太郎の顔はあからさまに歪む。

誰にも教えていないのに、何故知っているのか。七生の得体の知れなさに拍車がかかり、一瞬錯乱しそうになる。


「センセイが言ってたぜ。

オーヤマくんはミウチにフコーがあったので、ミナさんヤサしくしてあげてくださいってさ。お前、学校休んでたから知らなかったろうけど」


七生は担任の椎名によく似た声色と喋り方を真似た。

余計な気を遣った椎名に怒りを感じるよりも、七生に自身の事情を知られたことが空恐ろしく思われた。

内臓を無遠慮に掴まれて、いつでも潰せるのだと脅されているような、恐怖を覚えた。


「一人じゃない」正太郎は震える声で反論する。

「おじさんがいる。それに、父さんは生きてる」

「へえ、じゃあ捨てられたわけだ。カアワイソオウ」


にたにたと笑う七生の笑顔と言葉には、悪意が滲んでいた。まな板の上の魚をどう捌いてやろうかと、子ども特有の嗜虐心を露わにしている。

幸い、まだ通学路だ。七生は賢い。公衆の面前で小突くことはあっても、あからさまに暴力をふるったりはしない。

正太郎は思いきって、七生の胸をどついた。七生がよろけた隙に、脇をすり抜けて逃げ出す算段だった。


「待てよ」

「うっ!?」


直後、正太郎の鳩尾に重い一突きがねじ込まれた。

腸が捻じれるような不快感がどっと押し寄せ、額に玉のような汗が幾つも浮かんだ。膝から崩れ落ちた時、ようやく痛みが波のように押し寄せる。


「かはっ、ぐ、ぁ……(お、おなか、が……!?)」

「ひどいじゃないか、どつくなんて。俺たち、友達だろ?」


七生はひどく嬉しそうに言った。

道行く同級生たちの、好奇の視線が突き刺さる。

正太郎は慄いた。七生は以前よりも、暴力的な男になっていた。

地面に蹲る正太郎に視線を合わせるように、七生はしゃがんだ。せる正太郎の胸倉を掴み、無理に立ち上がらせる。

その時、服の下に隠れていた、公太郎から貰ったお守り露わとなる。


「なんだ、これ?きったないでやんの」


七生は疑問の声をあげ、お守りを手に取った。

お守りに気を取られた一瞬を狙って、正太郎は七生の手に勢いよく爪を立てた。七生は悲鳴をあげ、手を離す。

お守りの紐が引きちぎれるのも構わず、正太郎は踵を返し走った。

七生が待て、と声を張り上げる。下腹部がキリキリと痛んだ。

彼と同じ教室なのだから、どの道あとでいやでも顔を合わせると分かっていた。それでもなお、その場から離れずにはいられなかった。

正太郎は七生の中に、怪物を見た。



「では皆さん、プリントを配りますね」


椎名が眠たげな声で、春休みの宿題を配りにかかる。毎度のことだが、目の下のくまが酷い。

いやに静かだ。普段ならお調子者の男子たちがうげっ、だとかいやだだとか騒ぐのに、皆一様に黙々と受け取るだけだ。

七生のせいだろうか。正太郎は、二つ列を挟んだ七生を見る。正太郎と七生は、共に一番後ろの席だ。

七生がいじめっ子であることは、クラスの中では周知の事実だった。彼は目立たないように思われて、見えざる手でクラスを掌握していた。彼に逆らう者はいない。

彼が命じずとも、彼の機嫌を伺うようにクラスメートは行動した。標的になった者に味方はいない。示し合わせたかのように、正太郎だけプリントが回ってこないこともあった。

今回も正太郎にだけ宿題が回ってこなかった。もっとも、正太郎はこの小学校から去るのだから当たり前だ。椎名の手元に余った宿題は一人分だけだった。


「みなさん、あと二日で春休みです。その前に、注意事項があります」

 

新たに配られたプリントには、不審者への注意喚起や事故対策などが、イラスト付きで記載されている。

二つ折りのプリントの右半分には、おそろしげな男のイラストと身体的特徴がびっしりと書き込まれている。


「ここ最近、町内で不審な男の人が何度も見つかっています。注意してください」


クラスがにわかに騒がしくなる。茶化すというよりは、何かに怯えているようだ。

テレビを見ていない正太郎からすれば初耳のことだ。

じっくりとプリントに目を走らせる。

子供向けと大人向けに分けて、プリントがそれぞれ配布されている。

幸い正太郎は、難しい漢字の意味をある程度知っていた。封をされた封筒をこっそりぴりぴりと開き、中身を見る。どうせ誰も見る事はないのだから。


「(……連続殺人事件?)」


一月から二月にかけて、四名の児童と、老女が一人殺害された。殺された小学生達の情報は載っていないが、いずれも男児が被害にあったと記述されている。犯人は捕まっていない。

動機も分からず、子供や老人が標的となっているため、防犯対策をしっかりしてください、という旨が記載されている。

正太郎は七生を盗み見た。驚くほど、まるで興味がないという表情を浮かべている。彼は、手元にある何かを弄る事に集中して、話すら聞いていないようだった。

彼らしいといえば、彼らしい。この小さい箱庭で支配者となった七生は、怖いものなしという態度であった。


「それから、大山くんとは今日で皆さん、お別れです。

 本当は大山くんのお別れ会をしたいところですが、急なことだったので……。

 新しい学校でも、元気にしてくださいね。」


正太郎は指名されるままに立ち上がり、言葉に迷って、黙って一礼した。

拍手だとか、野次だとかは飛んでこなかった。居たたまれなくなり、すぐに座る。

七生は初めて表情を変え、食い入るような目で正太郎を見ていた。


「おまえ、にげんの?」


音も無く、彼がそう呟くさまが見えた。

ふと、七生は、いじめる相手がいなくなったらどうするのだろう、と考える。

殺人鬼と同じように、次のいじめる相手を探すのだろうか。

だとしたら、その標的となった相手は可哀想だな、と思った。

そしてもし、と考える。僕じゃなく、最初から別の誰かがいじめられていたとしたら、僕は七生からその子を助けてやれただろうか。

不毛なたらればに答えを見出す直前、先生が「これで今日の帰りの会は終わりです」と告げた。

 

集団下校のアナウンスの後、担任はグラウンドに集まるよう指示し、教室を出た。各々はランドセルを掴み、教室を後にする。


「おい、大山」


席を立った正太郎に、七生が声をかけた。

朝のやり取りを思い出し、報復をされるのではと胃が縮む。七生は先程から手の中で弄っていたものを目の前にぶら下げた。


「これ、なーんだ?」


唇を三日月の形に歪める七生の手には、公太郎から貰ったお守りがぶら下がっている。正太郎はハッとして胸元に手をやった。

引きちぎれた後、七生はずっと公太郎のお守りを持っていたのだ。


「これ、返してほしいか?」


七生は返事を聞くよりも、正太郎の反応を楽しんでいるようだった。

目の前でお手玉のようにお守りを弄ぶ。悔しければ奪い返してみろ、と言いたげだった。


「それは僕のだ。君が持っていていいものじゃない」

「生意気な口を覚えたみたいだな。目上のヒトには敬語を使えって教えたの、もう忘れたわけ?」

「お前は別に偉くない。返せよ」


精一杯の低い声で答える。今にも膝が笑い出しそうだ。教室に残っているのは、正太郎と七生だけとなっていた。

七生は一歩踏み出すと、正太郎の肩を掴み引き寄せた。


「なら今日の四時、くれあい山に一人で来い。一人で、だ」


そう告げるや正太郎を軽く突き飛ばし、踵を返して出ていく。七生の背をぼうっと目で追う。

不意に、肩をそっと叩く者がいた。振り返ると、例の半透明の男が小さな肩に透けた手を添えて、ゆっくりと頭を横に振る。

正太郎はそれをはねのけた。

幽霊に説教が出来るかはさておき、声も出せないくせに口出ししてほしくはなかった。


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