第50話 天使覚醒し、堕ちる


「あぁ、やはり伯爵は剣を嗜んでおられるだけあって、上手く躱されてしまいましたね」


 にこやかに拍手さえして見せるセラヒムは、背後で呆然としているミリオンの視線に合わせて身を屈めると、ゆっくりと噛んで含めるように言葉を発してゆく。


「ね、ミリオン。もう一度、お願いするよ。私のために魔法を使って見せてくれないかな? あの日、君が見せてくれた素晴らしい光の魔法フラッシュが忘れられないんだ。……それに、このまま君が彼らを見殺しにすれば、哀れな父娘は間違いなく死んでしまうね。あぁ、ついでに一度に家族を喪う夫人も命を絶ってしまうかもしれない。実に不幸な事故が、君の意思ひとつで起こってしまう。それはあまりに不憫だと、私は思うのだけれど――――だからねぇ、ミリオン。私のために魔法を使っておくれ?」


(この人は――どうしてこんな事ができるのだろう。何も考えていなくて、何も感じないわけでもないだろうに。 自分の利益のために何の躊躇いもなく、甘い顔を向けていた相手の命を奪えるなんて、ヒトの所業なの? これは……)


 突発的に巻き起こった血みどろの光景に、思考が追い付かず、事態が把握しきれないミリオンは呆然とセラヒムを見詰める。怖さよりも、得体の知れなさに背筋が凍りそうだった。


(助けて! ううん、助けなきゃ! こんな理不尽なことで刈り取られて良い命なんて有るはずない!)


 何とか自分の気持ちと向き合い、助けたい一心で、ミリオンは震える手をビアンカに差し出そう――としたところで、血走った激しい視線に射竦められた。


「あんたなんかにっ!! 与えられてたまるもんですかっっ!!! わた……しが、天・使っ、なんだか、ら! セラヒム様っを、好き・な、気もっちは、誰にも負け……ない!!」


 切れ切れに声を発するビアンカは、命を脅かされてもなおセラヒムへの想いに揺らぎがない。真っ直ぐすぎる清廉――それは天使の本質だ。


 血を吐いても尚、邪魔なミリオンに向ける憎しみは真っ直ぐで揺るがない。セラヒムを慕う気持ちが、彼女を支え、身体が限界を迎えようとする今も弱音を吐くことはない。ある意味、潔ささえ感じるビアンカが、ふいに白い光に包まれた。


(背中に……白い、翼!)


 光の幻影かと思うほど、薄い翼の姿が一瞬現れた。


 ――が、それまでだった。ミリオンが目を見張る中、直ぐに何もなかったかのように、背に現れた美しい光は消えて、ビアンカは黒い靄に包まれ始める。


(今のは、ビアンカが天使になったってことなの……?)


 ミリオン以外、その場に居合わせた者達は気付いていなかったが、彼女が見た光景は間違いなくビアンカが天使の力に目覚めた瞬間だった。


 天使に覚醒したビアンカの魔法は格段に強くなっているはずだった。それこそ、今刺された傷を一瞬にして治してしまえるほどには。


 ミリオンと云う邪魔者に対しての、真っ直ぐ過ぎる対抗心と嗜虐心。そこから引き出された天使への『覚醒』は、同時に人を愛する神の意図に著しく反するものだった。故に『覚醒』と同時に『堕ちる』異変をも引き起こしていた。それが、未だビアンカが治りきらない怪我に苦しむ現状を作り出しているのだが、この場にいる人間は誰一人ビアンカの覚醒にすら気付いてはいない。


「その娘が私たちを救おうとするはず無いじゃないですか! 虐げた人間を恨んでいないはず無いでしょう!? それなのに、何故この子ビアンカや夫に、こんなひどい真似を!!」


 そして、夫人はミリオンを虐げていた自覚が大いにあるため、彼女が危害を加えるか見殺しにするものと決めてかかっているようだ。ビアンカに治癒を施そうとしたことにも気付いていないようで、頑なにミリオンが近付くのを拒もうとしていた。


「あぁもぉ、オレリアン夫人? あなたがそんなことでは私の計画の妨げになってしまうでしょう。伯爵の様にちゃんと弁えてくださらないと」


 光の灯らない弧を描いた瞳で、セラヒムが1歩1歩、ビアンカを抱えたままの夫人に歩み寄る。


 彼の意図は全く読めないが、ミリオンに彼女らを救う魔法を使わせるため、抵抗をする力をも奪おうとすることは明確だった。その推測が誤りでないことを示すように、プロトコルス家の兵士が静かに彼の動きに合わせて伯爵や、ビアンカの元へと移動して行く。



 それでも尚ビアンカは、憎々し気な視線をミリオンに向けることを止めようとはしない。


(どうしたら良いの!? 助けたいのに――――!)






「やれ」






 セラヒムの無機質な声が響くと同時に、応接間ドローイングルームの窓が次々に割れて行った。

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