エス

 休み時間、青木梓は前田壱加と共にいた。手紙の返事が遅れたわけも、簪の件もすっかり聞いた。半紙に包まれた折れた簪を見せてもらったとき、梓も壱加も涙ぐんだ。


「お姉さま、あまりお気を落とさないで。これは安物ですから、何度でも買い直せますわ」


 梓は自分の髪からお揃いで買った簪をスッと抜いて、折れた簪と半紙に並べて乗せた。朱いとんぼ玉と青いとんぼ玉とが少し切なく見えた。


「それにほら、まだリボンがありますわ。私がいちばんはじめに贈った紅いリボン、ずっと髪に結んでいらっしゃるでしょ?」


 髪を結び直しながら梓はリボンを愛おしげに撫でた。“エス”の関係を結ぶ際に、紅いリボンを差し出し、それを相手が受け取って、髪に結んでくれたら成立、というやり方がある。梓はそのやり方で壱加と関係を結んだ。同級生に聞いて、素敵だと思ったのだ。


 壱加はたしかに毎日紅いリボンを髪に結んでいた。梓からの大切な贈り物だ。それはそれは大切にしている。


「ええそうね、梓さんがくれたものはこれだけじゃないわ。お手紙だって、大事な贈り物でしてよ」


「私たちの関係はモノで繋がっているわけじゃありませんわ」


 中には可愛らしい新入生や、美しい先輩を振り向かせるために、モノを贈り続ける愚かな学生もいるが、そうやって手に入れる関係の何がよいのか梓にはわからない。



 壱加と初めて出会ったとき、運命だと思った。その日は初夏の爽やかな陽気だった。学校のお庭の薔薇に水をやっていたとき、薔薇の咲き具合を確認しようとして、指にうっかり棘が刺さってしまった。


『痛いッ……』


と声を出してしまったとき、偶然近くで読書をしていた壱加が梓に駆け寄った。少し色の明るい髪の毛に、色白の肌。薄紅の頬に散る雀斑が愛らしく、睫毛は長く、瞳は黒々と潤んでいた。そんな美しい先輩が、私の手を握り、指を洗ってくださっている。


『大丈夫? 虫に刺されたのではなくって? 』


声までもが凛とした美しい声だった。一瞬で恋に落ちてしまったのだ。


 壱加は、何も言えず赤くなってただ首を横に振る梓の頭を撫でて、またお庭のベンチに腰掛けて本に目を落した。


 本の表紙は紙で包まれて、背表紙に“前田壱加”と書かれていた。あの方がこのあたりの華族のお姫様なのだと知ると、さらにのぼせるように顔のあたりが熱くなった。気候のせいだと思いたかったけれど、風は涼しく薫っていた。


 それから、何度か自然に近づいていって、紅いリボンを渡したのだった。受け取ってくれたときは天にも昇るような心持ちがした。



 壱加の方はというと、また梓との出会いを大事にしていた。エスという関係にはあまり興味がなく、お手紙を何度か頂いてきたがすべて丁重に断ってきた。


 そんな中、薔薇の棘に指を刺すなんていう、お伽噺のお姫様のような可愛らしい出会い方をした梓は、何かが違った。涼やかな目元に高く通った鼻筋。混血児のようなエキゾチックな印象の彼女は、壱加の記憶に強烈に残った。大人びていながら、仕草は幼く可愛らしい。すぐに赤くなるところが可愛くて仕方がなかった。


 リボンを渡されたとき、その意味は知っていたので、震える指で受け取ったものだった。


 いまでは毎日手紙のやり取りをするくらい、お互いにお互いを好いていた。同級生にまで揶揄される始末だが壱加は別に気にしない。梓以上の“妹”はいないと思っている。


 たしかに、自分たちはモノで繋がっているわけじゃなかった。簪が折られたことは酷く悲しいことだが、簪の一本で関係が切れるようなことは決してない。


「梓さん……」


 スッと梓の前髪を撫で、そのまま頬を撫でたとき、壱加の脳裏に征一の顔がふとよぎった。何故彼が……? 征一は作家として憧れているわけであって、梓へ向ける感情とは違うものが向いているはずだ。どうしていま…? 


「……お姉さま? 如何なさったの」


「なんでもなくってよ、ただ……」


 征一とのことは梓には話していない。なんとなく疚しい気持ちがしたからだ。

 梓は壱加の手に自分の手を重ねてうっとりとしている。可愛い梓……。卒業まではきっとこのままでいたい。


「簪のことは本当にお気になさらないで、またお手紙をくださったなら梓はそれで満足です」


「ええ、ありがとう、また明日お手紙を渡すわ」


 そのまま梓の肩を抱き寄せて、髪の毛にくちづけを落した。



 その日、家に帰りついて風琴のお稽古をしているときも、征一と梓のことで頭がいっぱいだった。


 今朝の壱加は『度々寄ってもいいか』と聞いた。征一は快諾してくれた。ならば少し通ってみるのもいいのかもしれない。読書は大好きだし、著作と第一印象だけで人を決めつけるのはよくない、きっと。何度か会話して初めてわかることもきっとあるはずだ。


「お嬢様、今日は間違いが多いですね」


 風琴の先生の眉根に皺が寄った。


「そこと、ここ、ミスタッチでしたよ」


 全く気が付かなかった。余程考え事に熱中していたのだろうか。


「では、もう一度」


 結局十回も同じ曲をやらされたのだった。

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