秋雨

 冷たい秋雨の降る黄昏時、街外れの商店の軒下で征一は寒さに震えながら雨足が落ち着くのを待っていた。もう少し街から離れれば家に帰りつくことができるのだが、ここから先は雨をしのげるような軒や張り出した屋根がない。汽車の線路を越えれば周りには畑くらいしかない。


 傘を持たなかった出掛けの自分を恨み、諦めたような、期待するような面持ちで、重く垂れ込めた雨雲を睨みつけた。


 買い取ってもらえなかったにせよ、自分の魂を削って書いた作品が、鞄の中には入っているのだ。あまり濡らしたくない。その上、この間風邪を引いて熱を出したばかりの病み上がりの身には寒さがかなり身にこたえる。  


 一部の短編が二束三文ではあるが金になったので、早く帰って同居人を喜ばせたいのだが、簡単には帰れそうになかった。



 三文文士、というのがいちばん今の征一には相応しい。物書きになってすぐ、処女作はそれなりに良かったので文壇でも少しちやほやされたのだが、それ以降は話の傾向の趣味が悪いなどとされ、だんだん売れなくなってきてしまった。


 中には征一の書く話がみんな好きだという変わった文学青年もいるのだが、それは少数派で、世間的に見れば彼は一発屋の部類なのだ。しかし彼は小説以外は、詩歌も評論もあまりよくできないので、小説を書いていることしかできなかった。


 日がな一日机に向かい、書き溜めた話を定期的に新聞社に売り込み、ほんの少しの金を稼ぐ。机にこそ一日向かってはいるが、筆を進められるのは四時間ほどで、あとはぼーっと外を眺めている。


 同居人である朔之助がそんな征一を見かねて金銭的な部分は支えてくれているので、そこまで躍起になって稼がなくともよくはなっていた。俗にいうヒモであるが、自分では稼ぎがあるのでそんな言われ方をされる謂れはないと思っている。


 もっとも、働きたくなくて稼ぎがないのと、一生懸命に働いて稼ぎがないのとではまったく違う。



 それにしても今日の新聞社の編集者の言い方は酷かった。征一の一生懸命書いた五十枚の中編を、ゴミと一蹴しそのまま突っ返したのだ。


「先生はまだお若いから、どこにでも勤められるでしょう、なにも小説を書き続けることはないのでは……」


思い出せばすぐにでも怒りが湧いてくる。どんなに酷評されようと、征一にはもう小説しかないのだ。それを取り上げようなど、これまでの人生を残らず否定されるようなものだ。ほんとうにもうこれしか残っていないのだから。


 帰った自分の顔を見て、朔之助が心配したりするのだろうと思うと、心がずんと重くなるのを感じた。



 ふと、雨に烟る向こうの街角から、傘も差さずに少女が覚束ない足取りで歩いて来るのが見えた。


 どうやら近くの女学校の学生らしい、海老茶色の袴がすっかり濡れて、どす黒く染まって見える。目線は虚空を彷徨い、青ざめた顔をして幽霊のようにふらふらと歩いていく。なぜこのような時間に女学生がふらついているのか? 


 女学生というと中流階級の家庭の子女、夕方から夜にかけてひとり歩きができるなど到底思えない、それに、危険だ。


 声を掛けようとしてふと気付いた。おそらく彼女が通っているであろう女学校は線路の向こう側。つまり征一が向かう方角にある。しかし彼女は街から歩いてくる。ということは恐らく家からどこぞへ向かおうとしている。単なる帰宅途中の女学生ではない。


「もし、お嬢さん、そんなに濡れては風邪を引きますよ」


 放っておいては、線路に飛び込んで自殺をするのではないかなどと思えて、後のことなど全く考えずに声を掛けてしまった。少女は征一の声など全く聞こえていないようで、変わらずにその覚束ない足取りでふらふらと歩いていく。


「お嬢さん、……」


 雨には濡れたくなかったが、声をかけた以上は放っておけない。鞄を抱え込んで小走りに追いかける。


「……放っておいてください」


 女学生は大きな声を出していきなり立ち止まった。征一は突然立ち止まれず、少女にぶつかってしまった。何が起こったのかわからない。


「放っておいて!」


 そのまま少女は、くるりと踵を返して街の方へと走り去って行った。


「なんだろうかね、今日日の女学生は……」


 ぶつかった衝撃で少し痛い腕を擦りながら、地面に落ちたものを拾い上げた。彼女の落とし物に違いはなかった。それは本と折れた簪であった。本は丁寧に百貨店の包装紙で包まれ、懐に入っていた証にほんのり温かった。表紙を開くと、それは―――


    ✴    ✴    ✴


「それで持って帰って来ちまったのか」


「まあそんなところさ、誰だって自分で書いた本が濡れるのは面白かない」


 "前田壱加"と名前が書かれた本と、折れた簪。青いとんぼ玉が所在なさげに光っている。


 浦部征一『パラノイア』―――征一の処女作――――に違いなかった。子女向けに書いたものではないが、幻想的な雰囲気が好まれ、愛読する学生は多いと聞く。


 同居人の朔之助には、原稿のことよりも、濡れ鼠と成り果てたびしょ濡れの出で立ちを心配され、身ぐるみ剥がされ、風呂に押し込まれた。原稿料の話をできたのは夕餉を済ませてからだった。同時に、あの女学生の話もした。


「僕がぶつかった衝撃で簪が折れたのであれば、弁償しなくちゃいけないだろう? 」


「征一がそこまで人に強くぶつかるほど鈍くさいとは思えねえがな。しかも、お前が持って帰ってきちまったのは、『パラノイア』が一緒だったからで、他の作家の本ならまず放っといただろうよ」


「失礼な。お朔、僕だって本を読む人間さ、本が濡れるのを快くは思わない。誰の本だろうと一緒に拾ったろう」


 朔之助は何か面白くないのか、いつになく征一に不機嫌な態度をとった。


「どうだか。……しかしその簪どうするつもりなんだよ。まさか新しいのを買って、前田家に届けるとか言うのか?」


「いや、僕だってそこまで考えていない。だからどうしようかってお前に聞いてんじゃないか」


 前田家といえばこの辺りに住む元公家の華族。平民風情が買えるような簪をつけているとは思えない。弁償しなければならないのだとしても、想像すると胃の辺りが冷えるような心地がした。


「俺は古本の鑑定しかしてないからよくわからねえが、これはそう高いもんじゃねえぞ」


 朔之助はそう呟いたが、軸が安いものでもとんぼ玉が高ければ高い。


「ならありがたいんだが……」


 迂闊に拾いこんだ大きな悩みの種に、征一は大きなため息を洩らした。

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