亨④

 9

「なぁ、お前さん、酒は飲めるのか」


「まあ」


「たばこは……好きみたいだな」


「はあ」


「海は好きか」


「好きです」


「船は」


「船? そうだなぁ、電車や車より好きかもしれない。だって一番自由じゃないですか」


 爺さんはまた煙草をくれる。この煙草重すぎるが、フィルターが甘いからか吸うのを止められない。


「俺はもうあと死ぬだけだと思って生きていた。でも海で、昨日海でおめぇさんたちを見て気が変わった。おめえさん、どうだ、漁師にならんか? なるんなら、俺の持ち物ぜんぶやる。ぜんぶ、棺桶にははいらんからなぁ。どうしようか困っていたところなんだぁ」


「いいですよ」


 爺さんの話を聞いているうちに、いや、実は昨日海を見ていたら、自分が死ぬのが馬鹿らしくなったんだ。どうして死ぬのか、理由が全く見つけられなくなった。


 理由のない生がないのと同じように、理由のない死は存在しないんだ。俺の返事に爺さんの顔が明るくなる。別人かと思うくらいに。


「やってくれるか!」


「ええ、実は、俺は死ぬためにここまできたんです。でも死ぬ気はもう、全くなくなりました。海の人間になりたいです」


「どうして死ぬ気だったんだ」


 俺は今までの経緯を説明した。爺さんだけではなく、怜も興味深く聞いていた。こんなこと、自分で問う以外に誰かに話をしたのなんて初めてだった。


 こんな話でも、聞いてくれる人がいるのは、嬉しいもんだ。


「ふうん、まあ、色々あったんだなぁ。でもそれが、人生、だからなぁ」


「まあ、そうですね」


「体は丈夫か」


「運動してないんで体力はないと思いますけれど、風邪引いたことはここ十年ないです」


 爺さんは笑った。


「でも、身体は鍛えた方がいいぞぅ。じゃあさっそく、今から行こうかぁ」


「どこにですか?」


「船だよ、船に。お前さん、名前は」


「高橋亨です」


「いい名前だ、漁師向きだな。嘘だと思うかもしれんが、そういうのは本当にあるんだよ。亨、今すぐお前の親御さんに電話しろ」


「どうしてですか? 正直なところ、俺はもう両親に関わりたくないんですけれど。家を出るときに金を盗んで来ちゃいましたし」


「はははぁ、子供は親の金を盗むもんだ。家出するときは特になあ! でもそれはそれとして、お前さん、そりゃあ、あんた、今からここで働くんだから、心配するなって言っておけ。長く話す必要はない、一言で良いんだぁ」


 納得できたとは言えないけれど、仕方なく電話をかけた。電話に出た母親はとても驚いた感じだったけれど、俺がまだ生きていることに少しほっとしているような感じだった。


 今、千葉にいること、これから漁師になること、そして金を抜いたことを謝ったが、俺が言ったどのことに何も言ってこなかった。時々連絡を入れるということで電話は終わった。


 俺が電話をしているあいだ、爺さんと怜は何か話をしていた。内容は電話に集中していたから分からない。でも爺さんも怜も嬉しそうに見えた。


「じゃあね、亨。私は家に帰る。……そうだ、連絡先交換しよ?」


 断る理由はなかった。俺のスマートフォンが初めて役にたった瞬間だった。


 そして爺さんの家の前で三人で写真を撮った。


 家を出る。爺さんは鍵をかけて、俺と爺さんは港へ向かった。怜は振り返りもせず駅の方へ行ってしまった。


「お前さんたち、恋人じゃあ、なかったんかぁ」


「昨日、千葉駅で会ったばかりです。恋人同士に見えますか」


「いんや、全く。だから違うだろうだろうなぁと思ったけれんどな。でも、二人ともよく似合っていた」


 俺はそれを聞いて吹き出した。そうか、全く見えなかったか。少し安心した。だって俺は怜とは長い付き合いをしていきたいと思ったから。


「お爺さん、俺のことどうして信頼してくれるんですか? 俺は全く知らない人ですよ、お爺さんにとって」


 爺さんは目を細めて海を見て、そして俺に視線を移動させた。


「俺はもう先が長くない。だから、ここで会ったのも何かの縁だ。サーファーの連中に声をかけても良かったんだがぁ、連中はサーフィンがあるからなぁ。でもお前さんには何もないだろう?」


「確かに何もないです」


「いろんな経験が人生だなぁ。漁師は辛いぞぉ、わかってっか?」


「覚悟の上です。俺は死ぬつもりだと思っていた男ですよ、それこそ死ぬ気で頑張りますよ」


 爺さんはカカカッと笑って、俺の背中を平手で叩いた。


 いてぇ。そして俺を追い抜いて港に足を向ける。


 追いかける背中、俺もそんな背中を持ってみたいと、心の底から思った。

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