亨③

 7-1

 煙草を灰皿において、一度部屋を出て、エレベーター前にある自動販売機でペプシコーラを二本買って部屋に戻った。そんなに長い時間が過ぎたとは思えなかったのだけれど、灰皿に置いてあった煙草は最後まで燃えていた。


「お待たせ」


 さっき怜から貰った水はもう空になっていて、灰皿の隣に置いてある。この水も俺が飲んだんだよな? 怜は何も言わずに、コーラを受け取った。そのときに少しだけ微笑んだような気がした。


 怜と会った時と比べると、言い方が雑になっているのは、俺が怜の存在に慣れたからだろうか。誰かに対して『慣れる』なんてのは久しぶりの感覚だ。中学の途中からは、両親に対してだってそんなことは思ったこともなく、家にいたって心安らぐような瞬間なんてほとんどなかった気がする。弟の存在もそうだ。あいつにも、俺は慣れたことなんてないんだ。


 俺はどこにいたって、常に何かに対して怯えていたと言うか……。そんなものは間違いなく被害妄想でしかないのだけれど、人間ってのは難しいもので、一度『こうだ』、と決めつけてしまったことを『実は違った』と頭ではわかっていても、いざそれを本当に実感するとなると時間がかかる。馴染む、とでも言えば良いのかな。


 でも思い出してみれば、そんなことが自分の人生であっただろうか? 思い込んだことは変わらなかった気がするが。


「ありがとう」


「まさかコーラも苦手ってことないよね?」


 怜は笑ったけれど、良いとも悪いとも言わなかった。彼女は少し疲れているのかもしれない。それは俺も同じかな。彼女の微笑み、その笑みも少し近づいているような気がした。でも、そんなことは気の所為であってほしかった。だってそんなことを最後に思いたくなんてない。


「あんまり好きではないけれど、大丈夫、飲めるよ」


 俺はまた煙草に火をつけてしまった。こういうことも最後に近づいていると思うと、なんだか大事にしなければいけない気がしてくる。しかし俺は本当に死ぬ気なんてあるのかな? まあそのことは後で考えるとしよう。まだ夜だ、死ぬにしても明日のことは明日考えよう。


「実は前、中学校の時におんなじようなことがあった。もっとも俺は、中学校ってあんまり行ってなかったわけだけれど、思い出したように時々は行っていた。そして信じられない話かもしれないけれど、割と成績は良かったんだ。だから学校に行く意味というか……行って授業を聞くことにあまり意味を見出せていなかった。例えば、友達と会うことを理由にしても良かったと思う。でも俺は、いつからから、友達が誰もいなくなってしまった。小学校の時は結構、仲良くやっていたのだけれど、中学に入って知り合いが誰もいないクラスになってしまったんだ。時々、そういうことってのはある。特に中学校になってクラスが多くなったりするとね」


 一度話を止めて、吸っている途中の灰を落とす。煙草の灰はラジエターの役割らしいから無駄に落とさないほうが美味く煙草を吸うためには必要なんだ。とは言っても、灰がぶら下がっていたら落としたくなるのが人情だろうよ。


 こんなこと、学校では教えてくれないけれど、教えてもらっても活用のしようがない。やっぱり煙草を消して、残っている箱も潰してゴミ箱に捨てた。感触から、箱は空だってわかった。


 一連の流れを見ていたはずの怜は無反応で、コーラのペットボトルを眺めている。そこに彼女にだけ見える海でもあるかのように、遠くを見つめるような目で。目を細めてみてみたけれど、俺にはどう見てもそれはコーラのペットボトルにしか見えなかった。


「でもね、俺には小学校から特に仲良くしている女の子がいた。彼女は頭が良過ぎて私立の中学校に行ってしまったんだ。だからそれまでに比べると会える回数はずっと減ってしまった。当時、俺はそれを悲しいことだと考えた。別に付き合っていたわけじゃない、正直なことを言うと好きなのかどうかも分からなかった。でも、彼女と会えなくなってしまったことはとても残念だと思っていた。あれは確か中学二年の時の冬休みだったと思う。何年前だろうか、あの時もとにかく寒かったことを覚えている。その時、その女の子はいたく落ち込んでいた。どうやら女の子の友人が、勉強がうまくいかずに成績が落ちていることについて悩んでいた。もちろん俺はその友人の子のことは知らない。彼女とどのくらい仲がいいのかも、彼女フィルターを通してしてか分からない。だから俺が言えることってのは少なかったんだ。あれは……どこだったかな。彼女の部屋だったか、俺の部屋だったか。どっちかは忘れた。そこで彼女は机に座って時間割を眺めながらそのことについて話をした。俺は少し離れたところに座って、彼女の話に相槌を打ちながらその話の着地点を考えていた」


「ね、コーラってこんなに美味しかったっけ」


「ああ、うまいよ。絶対にペプシのほうが美味いんだ。長年飲んでいる俺が言うんだ、間違いない」


「そうだね」


 さっき煙草を捨ててしまったことをとても後悔した。いつも行動を起こした直後にその前の行動を後悔してしまうんだ。でも、もともとなかったものだと考えると、それに、少なくとも中学校の時は煙草なんてなかったわけだから、その時から今のルートだったと考えれば、ないことを苦にする必要もなくなるはずだ。そりゃ無理な考えかもしれないけれど、そうとでも考えないと現状は辛すぎる。


「ね、続き」

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