閑話 ボストン・テリア2
「あっはっはっはー、それで、逃げてきたんだ? 猛将と恐れられた将軍が形無しだな」
「…………頼まれたから連れてきただけだ」
「いやいや、逃げてきてるでしょ!」
トリンを城の中の医務室へと連れてくれば、なぜか寝台の上で正座をしていた。
目の前にはシェットランドシープドックは宮廷医だ。白衣を着て、体を揺すって大笑いしている。彼とは将軍になる前から世話になっている。軍医もいるが、大きな戦争がなければ城詰めしていることが多いからだ。小柄だが、比較的大柄が多い軍人相手にもまったく容赦のない医者である。
経緯を簡潔に医者に話したところ、先ほどの大笑いにつながったというわけだ。
医者には自分がトリンの匂いに参っていることがしっかり伝わっているに違いない。なんなら全面降伏である。少しも抵抗する気持ちが湧いてこない。
言われたままに従うしかないのだ。一国の将軍が、気持ちで完全に折れている。そのことがおかしくて仕方がないのだろう。
トリンに伝わっていないことだけが救いだ。
ばれてしまえば、気持ち的に死である。
「貴方が医者だというのなら、話が早いわ。彼は皮膚病よ。早速治療しなければ悪化する一方だわ。適切なシャンプーとカットを提案します」
「ええと、お嬢さんは今の状況は理解できているのかな」
医者はまくしたてたトリンにくりくりとした愛嬌のある瞳を向けた。
警戒心を向けられているのは仕方がない。これほど蠱惑的な匂いのするトリンだ。将軍など簡単に転がせるほどの、匂いを持つ女性である。
だがトリンは医者に向けて、安心するようにほほ笑んだ。そうして敵意がないことを示して、ただ穏やかに言葉をかけた。
「怖がることはないの。貴方が心地よく過ごせるようにお手伝いをさせてね」
言わんこっちゃない。
ミイラとりがミイラになったようなものだ。
彼女の匂いがすでに傾国レベルなのだ。ツガイ持ちだろうが一介の医者に太刀打ちできるわけがない。
医者は未了されたのだろう。とろんと瞳を細めてトリンにそっとその毛を撫ぜさせていた。
「なるほど、これは恐ろしいものだ」
横で思わず唸ってしまう。
医者ばかり狡い。自分も構って欲しい。むしろ、自分を撫でるべきだ。こうして彼女の希望通りに医者に会わせているのだから。
「あー、お嬢さん、ちょっと待ってくれ、少し説明させてほしい」
ボストンテリアの唸り声を聞いて、医者ははっと我に返った。
それから少し首を横に振って、目を何度か瞬かせると苦笑する。トリンにわかりやすく状況を説明していくが、彼女はやはりよく理解できないらしい。
だが、彼女はただ職業柄複数を相手にするだけで、ツガイがいるわけではないようだ。しかも彼女にまとわりついている匂いにもまったく気が付いていない。
この世界のトリンも鼻は利かないが、これほど鈍感なのも珍しいかもしれない。
だが元の世界に戻れないという現実に対してはショックを受けているようだった。それはこれまでやってきた救聖女と同様である。泣き喚かないだけ分別はあるようだが、ただ堪えているだけのような匂いもする。
「私は家族や友人や職場を一度に失くして、そのうえ、誇りである仕事もクズ扱いで奪われるってわけ。脇目も振らずに打ち込んできた人生捧げた天職と!」
怒りややるせなさを腹の底から吐き出すようにトリンが告げる。医者からツガイを作るように言われても受け入れる気はないようだ。彼女からは一度も誰かが恋しいという匂いがしない。彼女自身も番いたいという感情はわかないときっぱりと答えている。だからといって愛人が何人もいるクズの辺境伯のもとへ送られる理由にはならないだろう。とくに本人の職業のせいで誤解されているのなら、なおさらだ。
医者は素晴らしい愛人候補などと言って褒めているけれど、自覚してほしいのはそこではなく、彼女の魅惑的な匂いだ。誰でも手のひらで転がせるほどに、特別な匂いを持つ彼女自身をどうやって守っていくのか。
危険だと伝えてもトリンはちっともピンとこないらしい。
むしろ臭いのかと気にしている。
「臭いだなんてとんでもない。とても魅力的で離れがたい匂いなんだからさ」
「は?」
「ツガイ持ちでもくらっとくるほどだ。頭の芯が痺れる感覚っていうの? 君の言うことをなんでもきいて下僕になりたいってくらいには惑わされる蠱惑的な匂いだね。そのうえ、感情を込めればますます強力になるようだ。さすがは救聖女様だ」
「救聖女……なにそれ」
「国を救ってくれる異世界からの召喚者の呼び名だね。誰からも愛される匂いというのも納得だ。さっきから将軍なんてすっかりまいって、この状態なんだからさ」
「へ?」
医者がにやにやとした笑いで見てくるけれど、素直に頷けるはずもない。すっかり参っているし、なんなら今すぐに下僕になりたい。そんな疚しい感情を彼女に向けるのは気が引けて、ただ視線を逸らすことしかできない。
本当に彼女がトリンでよかったと天に感謝するほどだ。
「この国で一番の堅物の将軍がこのざまだよ」
「と言われても私にはただ上手に待てのできる賢いことしか思えないのだけれど」
甘い声で褒められた。
それだけで尻尾がぶんぶん揺れる。耳もせわしなくぴこぴこと動いてしまう。
医者は苦笑しつつ、そんな自分の様子を彼女に伝えている。
「将軍、呆れられてるだけだからそんな大きく喜ばない……はあ、お嬢さんには将軍の匂いはわからないんだから仕方ないけど、さっきからひどく浮ついているよ」
「えーと?」
「三十のこの年まで異性なんて寄せ付けもせず、ツガイなんて興味ないなんて剣の道一筋。家柄も地位もあり、性格も真面目だよ。まあ融通きかないけど、西の辺境伯よりはずっとお勧めかな。でもとことん恋に縁遠い朴念仁が短い時間でこんな様子なんだから、危険性は理解できると思うんだけど」
「…………こんな様子って言われても私には少しもわからないだけれど、たくさんの匂いをつけていればクズなのよね? クズだとわかっていても近づいてくるものなの」
「貴女は何一つ悪くない」
職業のせいで誤解されているだけだ。
淫乱などと決めつけ彼女の話を少しも聞かずに辺境伯の元へと送るという進言を受け入れた王太子には腹立たしさしかない。
「堅物をここまで恋に溺れさせるほど蠱惑的な匂いだよ。そのうえ、だからこそ自分も遊んでもらえるかもっていう低俗なやつらも残念ながら一定数はいるわけなんだよ。そいつらは良識の欠片もないから。自制も理性もないけだものに襲われる危険性はとても高いんだよね」
医者に説明に、彼女はようやく自身の危険を理解できたようだった。
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