第9話 爽⇒ひなた RELIEF(リリーフ)
「爽君……」
何度目かの私の声に、ようやく爽君がビクンと体を震わせた。
風を切る。
髪が、靡く。
でも、それ以上に、爽君の荒い呼吸音が気になって仕方ない。爽君ならきっと、私の心拍数まで、測定できるのかもしれないけと、今の私に知るすべは無い。
(爽君――)
私は、彼にしがみつく。
気恥ずかしくて。
全身、沸騰しそうで。
でも、こうでもしなきゃ。爽君を止められない。
バクバクと、爽君の心音が、小刻みに心音を刻む。私にだって、分かる。爽君は無理をしている。とっくに、支援型サンプルの限界を越えているから。
そう思った瞬間だった。
さぁっ。
血の気が引く。
突如、瞼の裏に焼きついた光景。瞳孔に強烈にフラッシュするイメージ。それは、過去の幻影。幻像。フラッシュバックする。
■■■
実験室の真っ白い廊下。
コツンコツンと響く足音。
血走った目の筋力局所強化体が、にんまりと笑んだ。
幼い時の私と爽君が
サンプルのなかには、未調整で感情を抑制できない、
爽君の首を、片手で絞めようとするサンプル。
私は震えて、体が動かせなかった。
口をパクパク、ただ開いて閉じて。
(やめて、やめて! やめて!)
パニックになりすぎて、声にならない。
――水色、妾に代われ。
声が聞こえた。
――
笑う。
――良いのか? 水原爽の【ばいたるさいん】が低下しておるぞ?
唇を噛む。怖い、この子に身を委ねるのは。でも……。
コクリ。
あの時の私は、唾を飲み込んで。そして、覚悟を決めたんだ。
(緋色っ。絶対、あの子は傷つけないで!)
――笑止。水色、少なくともお前よりは、水原爽のことは理解しているぞ?
哄笑。
手をのばす。
炎上。
延焼。
サンプルが摑んでいた、爽君の首を離して。そして、灰に。灰が舞って。そして――。
■■■
「代わるよ? 爽君がきつそう」
「大丈夫。ひなたには体力を温存してもらわないと――」
私は、彼の背中にしがみつく。
実験室のことを思い出せて良かった。
恥ずかしいけれど、爽君に無理をさせるぐらいなら、何でもない。爽君が、自転車を漕ぐスピードを少し、緩めた。
「……私は自分の能力が怖い。怖くて仕方なかった。それを誰かを助ける力にできるかも、って思えたのは爽君のおかげ。だから、私にもできることをさせて」
「ひなた?」
爽君の戸惑った声。息がやっぱり、乱れていて。そう考えたら、実験室にいた時、何度となく爽君を危険に巻き込んだ場面があった。それほど、サンプル調製はデリケートなのだ。
「私は何も分かってない」
爽君の制服をぎゅっと掴んだ。
「誰かに向けて力を使うのはやっぱり怖いって思っちゃう」
「うん」
爽君は前を向いたまま、頷いて――そして、自転車をゆっくり止めた。私は、さらに爽君を背中越し、抱きしめる。暖かい。安堵してしまう。爽君が生きているって――。
「……私、爽君があの人に体当たりを受けた時、頭が真っ白になったの。もう少し間違ってたら、爽君を失うかもしれないって思うと、怖くなった」
爽君の背中に頬を寄せて。
(私はいったい何を……)
でも、止まらない。頬――どころか、体中が熱い。でも、爽君が無事なんだと、感じられて、なお、その温度を求めている私がいる。
「……でも、あの状況、知らない振りなんかできない」
「ひなたなら、そう言うと思ったよ」
爽君がにっこりと笑む。彼が肯定してくれる。安心している自分がいる。でも、それじゃダメだ。爽君に頼りっぱなしじゃ、ダメなんだ。
私は意を決して、彼の名前を呼ぶ。
「爽君」
「うん?」
「私を導いて。私、勇気を出すから」
「ひなた……?」
「怖くても、誰かを傷つけても。例え、誰かを殺す事になっても爽君とゆかりちゃんのことは守る。そこは譲らない。絶対に譲らないから」
「……」
爽君が小さく、息を吸い込む。
それから、私の顔を覗きこむ。
「ひなた、不安にならなくて良いからね?」
その笑顔が優しい。
爽君の指先が、私の髪を撫でた。
「……そ、爽君?」
「今回の件は、俺の見通しが甘かった。それだけ。ひなたに【ブースター】と【ブレーキ】を使用しての検証もできていなかった。ひなたが一番、不安だよね?」
「ちが、
不安だったのは、爽君をまた失うと思ってしまったから。途端に、怖くなってしまった。
「ひなたはあの
爽君の言葉に、私はコクンと頷いて。
いくつも波紋を広げていた、
彼との距離が近い。
彼の言葉は、まるで
混乱した感情が、脈拍が、落ち着いてくるのを感じる。
「ひなたは保育園の子ども達や先生が怖い思いをしていたから、助けたいと思った。そうだよね?」
コクン。頷く。
「――だったら1つは達成した訳じゃない? 今度は
ぎゅっと、爽君の手が私の手を握る。暖かい温度が、じわりじわりと広がって。爽君は囁く。
「だから、相棒。俺も変なプライドは捨てるから。ここからは、頼るからね?」
「うん!」
爽君の言葉の意味を理解して――私は、満面の笑顔を浮かべている気がする。
コクンと、二人でうなずき合って。
私たちは、場所を交替した。
爽君が、私の腰に手を回す。
(え……?)
自分が言ってなんだけれど。これは、かなり恥ずかしい。
さっきより、爽君が近くに感じて。
今さらながら、私は男の子と自転車の二人乗りをしていることを、意識してしまった。
(……これは、非常事態だからで、その……)
いったい、私は誰に言い訳をしているんだろう。心臓がバクバクと早鐘を打って。爽君の【ブレーキ】がなければ、
(余計なことを、考えている場合じゃないから!)
意識を集中する。
「イメージ……」
「え?」
私の呟きに、爽君が戸惑う。
――イメージ。
保育園のプレイルームで、爽君が言ってくれた言葉を、心の中で、なぞる。
――
爽君の言葉って、不思議だ。あれだけ、緊張と恐怖でガチガチだったのに。今は、自分でも驚くくらい平静で。イメージが湧く。
強く、大地を蹴る。
まるで、私自身が馬になったかのように。
この【爽君号】が、ペガサスになって。早く、誰よりも速く。駆けて、奔る、走って、
――とくん。
何かが全身を、駆け巡る。そんな感覚を感じた。
ペダルを漕ぐ。
ぐんっと、【爽君号】が加速した。
「筋力局所強化?!」
爽君が驚きの声を上げる。難しいことは、よく分からない。きっと、爽君が何かしらのサポートをしてくれるはずだから。
だから――。
今の私は、自分ができることを、ただ全力で取り組むだけ。
「ちょっと、ひなた?」
「えっと、爽君。もう少しスピード出すよ?」
「え?――って、オイ、ちょっと!」
「それっ!!」
ぐんっ。さらに加速する。ぐんぐんのびて。車道を走る、車を数台、追い越した。背中の爽君が、ひしっと、私を抱きしめる感触を感じる。
「あ、爽君。あんまり近いのは、さすがに恥ずかしいんだけれど?」
だって、もうちょっと上だと……その、胸に。胸に爽君の手が当たっちゃうから。私のなんて、ただの贅肉でしかないけど。やっぱり、恥ずかしいから。……ね?
「む、無茶言うなぁぁ!」
爽君の大絶叫。でも、その悲鳴に笑いが混じって。クスクス、私も笑みが混ざる。こんな状況なのに、楽しいという感情が湧きがあるのは、どうしてなんだろう。
「ひなた、ちょっと桑島と通信するよ!」
無意識に、私はむすっと唇を結んでしまった。どうしてか、今は面白くない感情に囚われてしまって。私は、そんなモヤモヤした感情を振り払うように、ペダルをこぐ力を強めた。
「桑島、聞こえるか?!」
『はぁい。何?』
ゆかりちゃんの声が聞こえた。
呼吸を整えようと、息継ぎをしようとするブレス音まで響く。どうやら、爽君はグループチャットに接続してくれたらしい。二人っきりの会話じゃないと胸を撫で下ろした――のは、どうしてなんだろう?
首を捻ってしまう。
「そこで待機! あと少しで追いつけるから」
「……水原先輩無理しすぎじゃない? さすがに距離的に、それは無理が――」
「ひなた、止まって!」
爽君の声を聞いた時は、もう遅かった。ゆかりちゃんを、刹那、追い越してしまう。
思わず、急ブレーキ。バランスを崩した爽君は、放物線を描いて、前方の畑へと飛んでいくのが、まるでスローモーションのようだった。
ゆかりちゃんが、目を大きく見開く。
(ごめんね、爽君号!)
そう心の中で謝りながら、私は自転車を乗り捨て、爽君の元へと駆けた。
「二人とも無理しすぎ!」
「爽君、ごめん」
「ひなた。だ、大丈夫だから――」
爽君が、安心させようと引き寄せたのは、ゆかりちゃんだった。
「目、目が回る……」
「ちょっと? 水原せんぱ――こ、コレはコレで良いけど、さ」
「爽君?! そっちは、ゆかりちゃんだから!」
「あぁ、分かってる。ひなた、大丈夫だから――」
そう手をのばしたのは、畑のキュウリで。
「ひなた、なんだかゴツゴツしてる?」
「私はきゅうりじゃない!」
「とりあえず、ひな先輩? 水原先輩を休ませよう?」
そう、ゆかりちゃんに言われて、私は半泣きになりながらも、なんとか冷静さを取り戻したのだった。
爽君を二人で抱えて、木陰に移動して。
時々、通る車のエンジン音が鼓膜を揺らす。
鼻腔をくすぐる爽君の匂いが、ほんの少し甘くて。
唇から漏れる、呼吸が。爽君の無事を、静かに伝えてくれる。
(私のバカ)
やりきれなくて、私は心の中で、思わず呟いたのだった。
■■■
爽君が、回復するまでに。
さらに、10分――。
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