第25話 目標

 お父さんは一瞬驚いたようだけど今度は盛大にため息をついて、そして。


っ!」

「あ痛っ!」


 わたしたちの下げていた頭を順に木べらの柄で小突いた。堪らず顔を上げると、今度はその手に小さな片手鍋を取り出していた。


「……見学だけなら、特別に許す」


 ドキン! と胸が高鳴る。


「ただし天美さんは今すぐ家の人に遅くなるって連絡すること。電話そこの使っていいから」


「あ、は、はいっ!」


 なんだろう。友達のお父さんとして言われたことのはずなのに、先生に言われたみたいな感覚。いや、もっと胸がドキドキするような、ピッタリの言葉……。憧れの人。尊敬する人。……うん。目標。かも。


 一瞬も見逃したくなくて飛ぶように急いで家に連絡をした。「晩ごはんはー?」とのん気に訊ねられて「わかんない!」と言い捨てて一方的に切っちゃった。ごめん!


 そうしてお父さんに見せてもらったのはまさに『プロの仕事』だった。動きのひとつひとつに無駄が一切ない!


 ザッハグラズール。分量も作り方もしっかりメモしたけどやっぱりすごく難しそうだった。まずちゃんとした道具や設備がないとうまくできなさそう。それからやっぱり技術。コーティングの美しさはもはや職人技だった。


 それでもこんな間近で作業を見られて、すっごく感動したし、本当に幸せな時間だった。


 砂糖を細かく結晶化した『グラズール』。シャリ、とも、パキ、とも言い表し難い、独特の食感。そして鼻に抜ける濃厚なチョコレートの香り。お砂糖の甘さ。ジャムのフルーティーな酸味。


 ホール状のケーキを切り分けるのも、普通に切るとひび割れするからコツがいるんだって。ザッハトルテって、とっても技術がいるんだ。すごいや。


 わたしも、いつか──。


「んおいしいいいいーーーいっ」

「…………うん。うまいね」


 翔斗くんと顔を見合わせて、噴き出すようにふたりで笑った。


 なんでだろ。もう笑っちゃうくらいにおいしいザッハトルテでした。


「あらー? なかなか上がって来ないと思ったら。なに? いい香り」


 突然華やかな声が聞こえて驚いた。入口からひょっこり顔を出すのは翔斗くんのお母さん。「あ、杏子ちゃんいらっしゃい」とついでみたいに言って微笑んだ。


「えー、ザッハトルテ? 珍しーい」と言いつつ「こっちも先生役なんて珍しい!」とお父さんをくすくす笑った。わわわ。


「べつに。ただの気まぐれ」


 お父さんは素っ気なく言うと、ふい、とそっぽを向いて片付けに行ってしまった。それを「照れてる照れてる」とまたくすくす笑う。ふおお、す、すごい……。


「すごいね。杏子ちゃん。シェフに認めてもらったんだ」


 肩に柔らかく触れられて「へ」と気の抜けた声を出してしまった。


 シェフとはつまり。翔斗くんのお父さん。


「翔斗はまだ認めてもらってないもんね」

 言ってイタズラに微笑む。


「あの……『認める』って?」


 訊ねてみるとお母さんは「ああ、シェフは」と可愛らしい小声で教えてくれた。


「自分が認めた相手にしかこういうことは絶対にしないから」


 こういうこと。つまり、見せたり教えたりすること。


 旦那さんのこと『シェフ』って呼ぶんだな、と今更思う。お店だもんね。そして、『シェフ』か……。としみじみ考えて、あ。と思いつく。


「あの……。わたしも『シェフ』って呼んでもいいですか?」


 言ったら思ったよりドキドキしている自分に気がついた。


 〈友達のお父さん〉じゃない。憧れで、目標の……『師匠』にしたいって思ったから。


 真剣に見つめると、片付けをしていたお父さん──シェフは、作業台を拭くその手を一瞬とめて、「は」と、笑った……?


「いいよ。好きに呼んでよ」


 そうしてまっすぐわたしの方に向き直って、こう続けた。


「そこまで本気なら、覚悟があんなら、待ってるよ。この業界で」


 痺れた。恋愛とはちがうもの。だけど、それに、その時、確実にわたしは落ちた。


「ありがとうございますっ!」


 いつもの様にたんまりお土産をいただいて、何度もお礼を言いながらわたしは〈シャンティ・ポム〉を後にした。



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