無煩悩⑥

 練習を開始してから約2ヶ月間。男は毎日新聞を音読し続けた。

 一日中思考をし続ける毎日から一変。次は一日中声を出し続ける毎日を送るようになっていた。

 声を発し、しかも滞りなく言葉を話すことができるようになるまで男のリハビリは続き、約2ヶ月が経った今、かなり上達した男はもう一度あの場所に向けて旅立つ決心をつけた。

 男はその日、新聞の朗読を最後まで済ませてから約2ヶ月ぶりに玄関の扉を開けた。

 髪の毛と髭は昨日切ったばかりなので、雑ではあるものの、約2ヶ月前よりはまだマシである。

 前回のように道路の前で左右を目視して通行人を待つ。

 やがて、右方向から女性が一人歩いてきているのが確認できた。

 それを見るなり、男はその女性の方へ歩み寄り、今度こそしっかりと話しかける。

 しかし、男が話しかけた瞬間に、その女性は不審者でしかないその男から逃げるように駆け足で過ぎ去っていってしまった。

 これを受けた男はすぐさま踵を返して家に戻る。

 が、玄関口の前で男は立ち止まり、再び道路の奥を監視し始める。

 次に来たのも女性だった。

 だが、男はなぜさっき逃げられてしまったのかなど考えてはいないので、今度も何の躊躇いもなく話しかけに行ってしまい、また逃げられてしまう。そして、もう一度所定の位置につく。

 その後もやって来る通行人が悉く女性で、男は何度も話を聞く前に逃げられた。

 それでも男はめげることなく何度も挑戦し、ちょうど10回目の挑戦で初めて男性の通行人が通りかかり、男が話しかけると、その男性はちゃんと受け答えをしてくれた。

 親切なその男性は体から謎の異臭を放つその男が理解するまで丁寧に説明してくれた。

 男はそんな紳士的な男性に礼の一つも言うことなく男性と別れ、男性から教わった通りの道順で目的地へと向かった。

 依然として残暑の厳しいその日に男は全身から滴る汗を長袖拭いながら歩みを進めていく。

 歩き続けること数十分。ようやく目的地が目の前まで迫る。

 そこは多くの草木の生い茂る公園の中で最も大きな木の下にあるベンチである。

 男はずっとここを目指してきたのである。

 ここがあの手紙を書いた人が待っている場所である。

 そのはずである。

 手紙にはそう書いてあったのだから、そのはずである。

 だが。

 その場所には誰もいなかった。

 そのベンチに座っている人もいなければ、その周りで佇む人さえ一人もいなかった。

 どういうことなのだろうか。

 男はそう思った。

 手紙には確かにここで待つと書いてあった。なのになぜ誰も待っていないのだろうか。それが男には分からなかった。

 ここにきて場所を間違うことは万に一つとしてあり得ない。あれほど目に焼き付けてきたのだから、間違うはずがない。

 想定外の事態に男は放心状態になり、そのまま静かにそのベンチに腰掛けた。

 ベンチに座っている間、男は何も考えることはなかった。

 夕暮れ時に差し掛かった頃、上空を厚い雲が覆い尽くし、雨が降りしきる。

 雨は翌日の朝まで降り続き、男もベンチに座ったまま一夜雨に打たれ続けた。

 思考を全くしていなかった男だが、眠りにも一切つくことはなかった。

 変わらぬ気温、変わらぬ暗がり、変わらぬ景色がその場から時というものを奪い去った。

 されど、雨はどこであろうともいつかは止むものである。

 天空が青く染まり上がったとき、男はしきりにそこから立ち上がる。

 そして、ここに来た方向とは反対方向に向かって歩み始めた。

                                

~無煩悩~ 完

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