3章 告白

打ち鳴らす心臓

 それぞれがクラスを離れたり、くっついたりしながらついに最終学年の六年生になって、僕と彩音、良太と翼さんの四人は再び同じクラスになることができた。僕と彩音だけはずっと三年生のころから同じクラスでいたから、勝手に運命だと感じていたけれども、気心の知れた二人がいてこそも楽しさも、もちろんあった。


 僕たちはそろって飼育委員に入ることにした。


 飼育委員の仕事は、そのときに学校で飼っていた二匹のウサギを世話するというものだった。特に女子からの人気は高かったけれども、ただ撫でて可愛がっていれば良いとというものでも無くて、餌を与えて排泄物の処理をするという事から六年生にもなれば応募する人は名前の華やかさに比べると少なかった。


 事実、男子は僕と良太以外には立候補することは無くて、女子でほかに立候補した人たちも、男子のメンバーが僕と良太に決まったらフェードアウトしていった。十二歳にもなれば、空気を読むとか気を使うとかそういう考えが働くのだろう。


 僕たちはクラスでも立場を確立させて、四人でいることを何も言われなくなった。


「可愛いねえ。バニラ、クッキー」


 白いウサギの名前がバニラで、薄茶色がクッキー。安直だけど、覚えやすくていい名前だった。彩音はやはり動物が好きなようで、マンションに住んでいるがゆえに動物を飼えないことを常に愚痴っていたような女の子だ。彼女がもっとも熱心にウサギを撫でていた。純粋に、ウサギを可愛がることをしていた。


「なんだか、あそこだけ家族みたいだね。兄弟への憧れみたいなのもあるのかな」


 翼さんは、冷静にウサギを可愛がる彼女を見ていた。彼女はどちらかというと大人びていて、ウサギもかわいがるけれども一歩引いて俯瞰しているようだった。ウサギを通して、自分を可愛がっているように見えた。そんな彼女が、僕たちのグループにおいてバランサーのような役割を自然と果たしてくれたのだとは思う。


 バニラは彩音に、クッキーは翼さんによく懐いていた気がする。もっとも、それは彼女たちが餌を与える仕事を負担していたからというのもあるだろうが。


 僕と良太は二人とウサギたちの時間を邪魔しないように、ウサギから離れる必要のある排泄物の処理や、食事の入った袋を持ってくるなどの仕事を積極的に行った。 


 それに対して不公平だとか思う気持ちは無くて、僕はもともとが飼育委員になろうとなんて考えていなかったから、ウサギと触れ合うことにも別に興味は無かった。


 なにより、彩音が幸せであってくれるためならと思うことができた。


 ただ、彩音が楽しそうに笑っている姿を見られないことが、飼育小屋を離れるときに残念だと思う事だった。そのころにはまた、僕の心に巣食った信仰心は形を変えることになる。それは、小学校を卒業することが近づいていたことによる影響も大きかっただろう。中学に入れば、またもや人間関係に大きな変化が訪れる。

 

 彩音はずっと仲良しでいられるようにと言っていたけれども、どうしてもそれが簡単に実現するようなことではないとわかっていた。良太はサッカー部に入ると言っていたから、その時点で、四人揃って帰宅することは難しくなる。彩音や翼さんも部活動をすることに興味を持ってもおかしくなかった。


『いつまでも、仲良しでいられますように』


 彩音が大声で流れ星に向かって叫んだ願い。まだ、そのころの僕は耳の中で撥ねて何度も響き渡る。それを支えにここまで頑張ってきた。でも完璧には信じることはできない。だけど、彼女の心、その美しさと純粋さは信じることができた。


 もしも、飼育委員のこのメンバーがばらばらになっても、彩音は強く、そして美しくあってくれると、ばらばらになるのを半ば覚悟したような悲観的な考え方ではあったけれども、神様がずっと見守ってくれているということが大事なのだろうと、より本来の宗教観に近づいていった。彼女が嘘をつくことはないと信じていた。


 それが良かったのかどうか。僕にはわからない。僕たちは六年生になってから一年の間で、かなりの事を経験した。そして、それは悲劇と言っても決してオーバーではないほど、僕の人生に大きな暗い影を落とした出来事だった。


「光誠、お父さん。仕事の都合で転勤しないといけないんだ」


「え?」


 その言葉を聞いた瞬間は、意味がわからなかった。知っている単語だけで並べられた文章、なのに脳が理解を拒んだ。きっと、その時の体調が悪ければ体の中にあるものを戻してしまいそうなほど、頭がくらくらとして吐き気がした。


 その感覚を例えるなら、初めてお酒を飲んだ時のようだった。


 僕は仕事の都合で、小学校の卒業と同時に隣の県に引っ越すことになった。もちろん、僕はその話をされたときに反対はしたはずだ。あまりのことに覚えてはいない。


 普段はあまり家の中で感情を出さない僕が涙を流しながら喚き散らすものだから、父は本気で単身赴任を考えたらしいけど、結局は子供の意見なんてあってないようなものだ。家族は一緒にいた方がいいという考えから、僕の意見は無視された。


「そんな、光誠くん」


 僕はそのことを、真っ先に彩音にだけ告げた。その時、彼女は悲しんでくれたと思う。まるで動画から一枚の画像を切り取ったように、彼女が顔を赤くして泣いてくれたシーンを覚えている。背景は外だったから、おそらく僕はわざわざ彼女を呼び出して伝えたのだろう。どうしても、そのことを告げる最初の相手は彼女が良かった。


 二人だと緊張するとか、そういうことはどうでもよかった。


「ごめん」


 なんとなく、そんな風に謝ったことも覚えている。自分が悪いわけではないし、どうしようもないことだとは分かっていたけれども、彼女を悲しませている原因が自分にあることを思うと、なんだか僕も悲しくて涙が込み上げてきた。それでも、僕はやっぱり彼女の前では強い男でいたくて、頑張って涙をこらえていた。


 両手を目にくっつけて涙をぬぐう彼女の姿は、普段からは想像もできないほどに弱くて、震えている姿がなんだかとても愛おしかった。泣いた女の子は可愛いというような人がいた気がするけれど、僕はその時の言葉の意味を真に理解した。


「ううん、謝らないで。大丈夫だから」


「ごめん」


 彼女が謝らないで、そう言ってもなお僕はごめんと言った。そう言うことしかできなかった。だけど、それは彼女の言う通りに引っ越しの事を謝るために声に出した言葉じゃなかった。次の瞬間に、僕は自分の中に生まれた衝動を抑えきれずに、彼女の涙を抑えるために小さくなった体を思い切り、精一杯の力で抱きしめた。


「⁉」


 腕の中で彼女が大きく撥ねた。それは、今まで涙に震えていたものとは明らかに違っていた。そんな彼女を、僕はゆっくりとそしてしっかりと抱きしめなおした。


 初めて会ったときには、彼女の手足が長いこと、彼女は成長が早かったことで僕と視線はほとんど同じだったはずなのに、抱きしめてみれば僕は彼女の様子を窺うために少し首を傾けなくてはいけない。強く、抱きしめられるようになった。


 ずっと、彼女が大きい存在だった。だからこそ、彼女を抱きしめるなんてことができるとは思っていなかった。ましてや、自分の胸にすがって泣いている彼女の姿は妄想の中にも出てこなかった。この瞬間に、僕はようやく彼女の隣にいてもいいんだと、彼女にふさわしいとまでは言えないけれども、同じ空間にいることを自分に許してあげることができたような気がした。


「大丈夫?」


 僕は彼女を何度も抱きしめた。彼女はどうやら嫌がってもいないようで、体を僕に預けてきてくれた。小さな手が胸に当たって、少しくすぐったい。僕は少しでもこの幸せをかみしめておこうと全身全霊で彼女を感じた。


 彼女の温かさ、におい、息遣い、そのすべてが僕の体中を走り、心臓は破裂しそうだった。きっと、泣いている彼女の顔の前では、心臓がどくんどくんとうるさかっただろう。その音を彼女にも聞いてほしくて、僕はよりきつく手を回す。


「うん、大丈夫。でも、もう少しだけこうしてて」


 そう言われて、僕は泣いている彼女の背中をさすった。シャツ越しに、指先にブラジャーの紐が触れた。それでも、僕はそれを気にせずに彼女が少しでもはやく泣き止めるようにと、その柔らかい背中を撫で続けた。

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