第12話

 落下。それがどのようにして私にもたらされたのか、その記憶は鮮明ですが誰かに説明できる類のものではありません。

 結論。私は


 午後からの雨によって外周ランニングから校舎内ランニングに切り替わったあの日。走り始めて五分もすると、私は足音でも雨音でもない、かといって誰かの話し声でもない空気の震動に憑りつかれていました。それが耳、というより頭にずっと鈍く、じんわりと響き続けて私から離れようとしなかったのです。

 そこに痛みはありませんでした。そこに不快感もありませんでした。

 川端康成の『山の音』、あれは年老いた主人公があたかも死の宣告のような山の音を夜毎聞くようになる話ではなかったでしょうか。しかし、その舞台は敗戦の傷跡の色濃い時代で、今とはずいぶんと違います。主人公がその息子の若い妻へと恋慕の情を抱く筋書きであったとも覚えています。してみると、現代に生きる女子高校生が放課後に学校で走りながら思い起こす小説にしては風変わりと言うしかありません。


 音。不穏の予兆。

 それは他にもポーの『告げ口心臓』や『アッシャー家の崩壊』を私に思わせました。そうしたゴシックホラーがいっそう私の足を早めていきます。何かから逃れようと。音の正体から。

 

 気がつけば、私は一人でした。よくよく耳をすませば、遠くの廊下を駆ける別の部員たちの足音や、他の部活動に勤しんでいる生徒たちの声だって聞こえたはずです。

 私の一番近くで響いているその音が最も不確かで、ノイズ混じりでした。足を止めてしばらく休憩するべきだと頭ではわかっていても、足が止まりません。ある種のランナーズハイ、でもそこにあったのは昂ぶりではなく恐れ。


 音楽だ――――気持ちの悪い汗を掻きながら、足を動かし続けて幾分か経ち、私は答えを得ました。

 私の頭にねばっこく纏わりついて離れない音たちがゆっくりと時間をかけて並ぼうとしている、それはつまり一つの曲、音楽を成そうとしているのだと。

 思えば、ピアノをやめて以来、より正確にはあの唐突に過去から私を追ってきた失恋を味わってからというもの、音楽にまるで関心がない日々を過ごしていました。

 友達に勧められた流行歌を聞いたり、否応なしに耳に残るBGMだったりとは別に、自分からこれを聴きたい、あれがいいといった能動的に聴く行為から遠ざかっていたのです。音楽の授業で歌わされることはあっても、たとえばお風呂に浸かりながら歌うなんてことはなく。


 一歩、また一歩と進むたび、混沌としていた音たちが整然としていくのがわかりました。最初こそ恐怖を抱いていた私でしたが、天啓めいた曲が形作られていくと、しだいに恐れをなくして、むしろ幸福感に包まれていったのです。今なら空も飛べるんじゃないかって、そんな気持ち。

 

 音が止むのと、私が階段の最上段からタンっと跳躍したのは同時だったと記憶しています。もしも音のことがなければ怪我をすることはなかったでしょう。着地の際に気をつければ、怪我をしない程度の高さでしたから。

 でも、そのときに音を喪ったことは宙に浮いた私にばさりと生えたはずの見えない翼がいきなりもぎ取られたことと同義で、急にバランスを失った私は着地に失敗しました。

 全身、特に下敷きとなった左腕に加わる耐えがたい衝撃。

 

 散り散りになった音たちの行方を私は知りません。




 退院後、善良で世話焼きの友達は、片腕だと何かと不便な私の学校生活を支えてくれ、感謝するとともに申し訳なさもありました。

 そんな中で、吉屋さんに話しかけようと何度か思っては、話しかけるタイミングが掴めずにいる私でした。

 彼女に声をかけたくなった動機は、怪我をしたことで時間を潰すのにスマホで小説を読むようになったことが大きいです。中学生の私は文庫本を片手読みするタイプではありませんでしたが、スマホであれば片手で持ちながらページをめくる操作が楽々とできます。気になった言葉、意味が分からない単語があればすぐに調べだってできます。そんなわけで私は自然とウェブ上の小説掲載サイトを渡り歩くようになっていました。

 登校時やちょっとした隙間時間、それに顧問にはしばらくは安静にするようにと言い渡されていたので、放課後になると心置きなく家へと帰り、その電車の中で読書をしていました。

 

 慌ただしい新生活の中で、自分が二カ月近くもの間、読書をしないでいられたのが不思議なぐらい活字を追うのに集中していました。中学生の頃にはバスケ部にも本が好きな子がいて、好むジャンルが違ってもよくあれを読んだ、これは読んだと話してもいました。そういうぴったりとは重ならなくても、ちょっとした共有を嬉しく感じていたのです。

 翻って、今現在通っている高校で、私の友達の中には残念ながら本好きがいませんでした。こうした事情があり、私は席で静かに本を読んでいる吉屋さんと交流したいとうずうずしていたのです。


 彼女が放課後に図書室にいることが多いのを突き止めた経緯はうろ覚えなのですが、誰かからそんな話を聞いたからだと思います。入学直後にみんなで先生に連れられて回った校舎、そこで目にした図書室はひどくこじんまりとした最低限の設備といった雰囲気でした。そこには、前の家にあった書斎に踏み入れた時に私を包み込んだあの知的好奇心を刺激する空気というのがありませんでした。

 冷静になってみれば、個人的な過去を美しいものにしているだけで、その図書室だって生きているはずです。そこを管理する人がいてくれるのなら。


 梅雨入り直後の晴れ間、その放課後に私は意を決して図書室へと一人で向かいました。どんなふうに声をかけるか。これまでそれで悩んだことはあまりなかったのですが、記憶にある吉屋咲希という女子生徒を頭で描き出せば出すほどに、彼女との交友には些細な誤りもあってはならないと思いました。

 

 教室でちらりちらりと窺ったことしかない、その端正な顔立ち。その目つきには文学少女というよりも、剣道や弓道、他の武道に通ずる人間のような凛々しい輝きが秘められていました。一方でその口許にはあどけなさがあり、笑ったらきっと可愛いだろうなって。怒ったらどんな顔をするのだろう、親しい人と話すときはどんな声、どんな口調なのだろう……小説の登場人物にでも会いに行く心地で、私は図書室を訪れたのです。


 そーっと。音を立てずに図書室の出入口のドアを少しだけスライドさせました。

 そして垣間見たのは、貸し出しカウンターの内側、無防備に眠たげな横顔を晒している女の子。何かいけないものを見てしまったときみたいに、私の心臓が跳ねました。機織りをしている鶴を覗いてしまったような。思わず私は音を殺してドアを閉じました。


 右、左、右と。私はその廊下に他に誰もいないのを確かめます。そして深呼吸。ドアの向こう側にあった光景を、今しがた目にしたそれを遠い日のように思い起こせば、あの少女の横顔には惹かれるものがあったと絵描きにでもなったつもりで私はもうひとつ深く息を吐きだしていました。

 それから不安がよぎりました。あの音みたいに、彼女もまた私の心が生み出した幻なのではないかと、そんなどうしようもなく阿呆な疑念が。

 そうして私は確かめるべく、思い切ってドアをガラガラと開いたのです。




 怪我について嘘をついている最中は、罪悪感ではなくうわずった気持ちがありました。でも、一人になってみると、なぜあんな出鱈目な話を物語ってしまったのだろうと悔やむばかり。バスケ部の誰かによる犯行なのだと伝えたことで吉屋さんを騙し、部員たちを裏切り、私自身の人間性を貶める結果となりました。

 部員たち全員が必ずしも、入部して間もない私が先の大会で活躍した件に好意的でないのは事実です。それほど部員数が多くないとはいえ、新三年生からレギュラーを奪い取ったのですから。ですが、それだけで私を害そうとするほどに短絡的発想の持ち主、倫理観を欠いた人はあの中にはいないと思われます。それに、バスケットボールそのものに真剣さが足りない部員が複数人いるというのが我が校の女子バスケ部なのです。


 吉屋さんの気を惹きたかったから……いいえ、あの時は最後に「なんてね」と言って冗談であるのを明かすつもりで話し始めたのです。それなのに私は彼女が私の作った「事件」に真摯に耳を傾け、親身になってくれるものですから。

 詭弁です。わかっています。いくらそのときの彼女に絆されたからと言って、むしろ彼女の優しさをそこで感じたのであれば、謝罪と共に嘘であるのを告白すべきでした。

 私が連日、放課後の図書室を訪れたのは、彼女と仲良くなりたかったのもありますが、つまるところ、私の嘘を広められる前に片づけてしまうためという目的もありました。

 でも、吉屋さんと話せば話すほど、たとえ彼女がそれほど読書家でないのを察しがついてなお、その愛らしい人柄を好きになっていったのです。

 これは驚愕でした。驚天動地です。

 なぜなら、私には多くの友達がいて、彼女たちとは良好な関係を保っている自負があるというのに、吉屋さんに感じる「好き」は別物だったからです。とはいえ、私がすぐにそれを恋と認めたかといえば違います。それはありません。そんなことないって思いすらしていました。たった二週間足らずなのに、と。

 

 あんな形で終わったあの初恋。その相手は確かに同性だったけれど、また自分が同性の、しかも同い年の女の子を好きになるだなんて、それは

 さして根拠はなく、ただ、きっとそうだと決めつけて。吉屋さんの髪や頬に触れた時、私の手を彼女がどんなふうに思ったかを気になったり、もっと学校以外でも、たとえばメッセージでも親密なやりとりを望んでいたり、そうした彼女に対する近づきたい気持ちがあっても、それでもそれを恋だとするのは軽率な気がして。


 そして迎えた日曜日、彼女とオープンしたばかりのブックカフェに行く約束をしていたその朝。新しい部屋に置かれた使用頻度が限りなく低い、小さなドレッサーを前にして。鏡に映った自分とにらめっこ。


 ――――私は吉屋さんとどうなりたいんだろう。


 友達に勧められて買った、透明なリップグロスを薄く塗った唇。仄かな光に彼女は気づいてくれるだろうか、私はそれを彼女の唇に重ねたいんだろうか……そんなことを思っていると鏡の中の私が微かに赤らむのがわかりました。

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