便所飯をした話

 便所飯という言葉がある。人目を避けて個室便所で食事をする行為を指す俗語だそうだ。


 最初に私がこの便所飯というものを知った時、そんなことをする人がいるなんて信じられなかった。


 なぜ人は便所飯をするのか。ネットの情報では「1人で食事をしている様子を他人に見られないようにするため」というのが主な理由なのだという。


 みんなが友人と食べている中でひとりぼっちな姿を見られたくない、というのはまあ分かる。でも、だからといってトイレなんかで食事するというのもどうなんだろうか。


 便所で飯なんか食ってて、もしそれが他人にバレた場合、引かれたりいじめられるかもしれない。それなら普通に1人で堂々と飯を食った方がいいのではないだろうか。


 今回は、そんなことを思っていた私がなぜ便所飯を決行するに至ったのかを話そうと思う。





 ある寒い冬のこと。私は当時大学生だった。


 昼休み、私は昼食を食べるため食堂へと向かった。しかし、そこは人でいっぱいだった。昼休みに食堂が混むのは当然だが、その日は特に酷かった。座れそうな場所が全くない。


 仕方がないので、私は別の食堂へ向かった。当時通っていた大学のキャンバスには食堂が2つあったのだ。しかし、そちらも満員。私は食堂で昼食をとることを諦めた。並んで待っていたら昼休みが終わってしまう。


 それから私は大学の生協でおにぎり2つとお茶を買い大学内をうろうろと歩きはじめた。


 キャンバスには至る所にベンチが置いてあり、そこに座って飯を食べてもいいのだが、季節は冬。寒くてとても外で飯を食う気にはならない。


 外がダメだとすると建物の中ということになるが、中も昼食が取れそうな場所はなかった。勝手に空いている教室で飯を食うわけにもいかないし、どうしたものかと途方に暮れた。


 気がつくと、私は大学のA号館と呼ばれている建物まで来ていた。A号館はこのキャンバスの中でも1番新しい建物で、1階に数百人が入れる大講義室があり、地下1階には小さな講義室と広いトイレがあった。


(広いトイレ……か)


 その時「便所飯」という言葉がにわかに脳内に浮かんできた。


(いやいや、何を考えてるんだ。便所飯なんて……)


 便所飯をするなんて意味がわからないと考えていた私だったので、もちろん抵抗がある。しかし、飯を食う場所を探し求めていた私は疲れており、このままでは昼休みも終わる。


(これは便所飯じゃない。人目を避けようなんて思っていないから。場所を借りるだけ)


 別に誰かに咎められたわけでもないのに、なぜか私は頭の中で言い訳をしていた。


 そして、A号館の地下トイレに入る。やはり広かった。A号館で講義があったときに使ったことがあったので知っていたが、思っていた以上に広い、そして綺麗だ。トイレなので臭いがするかと思ったが、新築特有の木材のいい香りがしており、全く嫌な臭いではなかった。


(うん、これならいけそうだ)


 個室トイレの扉が10以上ズラッと並んでいたが、私は入ってすぐにある一番左側のトイレに駆け込んだ。


 個室便所に入って、便座に腰掛けて一息ついた。ズボンを履いたまま便座に座るのはなんだか違和感があったが、今の私はオシッコやウンコをするわけでもないのだから、これでいい。




 私は便所に飯を食いにきているのだ。





 一息ついてから周りの様子を観察する。まず、ここは暖かい。さっきまで寒い外でトボトボと歩いていたから余計にそう感じる。温度は合格だ。


 さらにここは静かだ。トイレが静かなのは当たり前だがこれなら落ち着いて食事ができる。


 私はビニール袋からおにぎりを取り出し食べはじめる。シャケが具の普通のおにぎり。なるべく音を立てないように気をつけたが、そのおにぎりはコンビニでよく売っている海苔がパリっとしてるやつだったので、咀嚼の際かなり音を立ててしまった。


(しまった、誰かに気づかれたかな?)


 そんなこと考えたが、誰も何もいってこない。そもそも、個室トイレの前で便所飯の気配を感じたとして、それをいじったり注意しようと思う人などいるだろうか。中学高校の時ならともかくここは大学だ。大学生なんて表面上は真面目でも、裏では下宿先で大麻を栽培しているなような奴だっているのだ。ただでさえヤベェ奴である可能性があるのに、便所飯をしている奴なんてさらにヤベェ奴である可能性が高い。普通の人間ならできれば関わりたくないはずである。よって私が便所飯をしていることについて注意するものなど誰もいないのだ。それでいい。


 色々考えている間に、私はおにぎり二つを平らげ、ペットボトルのお茶で一服した。まだ次の講義まで時間がある。ここでしばらく過ごして時間を潰すことにしよう。私は携帯電話を取り出してネットサーフィンを楽しんだ。


 ここは良い場所だ。雨風しのげて暖かく、静かで誰も干渉してこない。おまけにトイレまで付いているのだから便利なものだ。侮っていたが便所飯、なかなか良い。


 次の講義の時間が近づき、私は個室便所を満ち足りた気持ちで出た。出てから、私はもう次の便所飯について考えている。


「今度A号館で講義がある時、その前にでも……」


 反便所飯主義だった私は、もう便所飯を自分の生活の一部に組み込む気で満々だ。何事もチャレンジしてみるもんだ。例えそれが便所飯でも。




 


 初便所飯から数日後、また便所飯をする機会があった。


 相変わらず外は寒く、その日は雨もパラパラ降っていて、このままだと雨はさらに強くなりそうだ。食堂は満席で、座る場所はどこにもない。


(うーん、こんな日は便所飯だ。便所で飯を食うに限る)


 私はまたおにぎりとお茶を買ってA号館は向かった。


 A号館の地下トイレは相変わらず静かだった。それでいい。便所飯をするトイレはそうでなくちゃ。


 私は前と同じように1番左側のにある個室トイレに入ろうとした。しかし、そこであることに気がつく。


(あれ、誰かが入っている)


 私が入ろうとした個室トイレには先客がいた。まあ、そんなこともあるだろうと気を取り直してその一つ隣のトイレに入ろうとした。しかしそこにも誰かが入っている。


 私は一旦周りを見回して、そして驚いた。


 なんと個室トイレの左端から五番目まで使用中となっていたのだ。


 偶然だろうか。偶然だとしてもなぜ連続した5室が使用中なんだろうか。地下トイレの個室トイレは10以上あるのに。わざわざ隣に入らなくても一つ間を空けて入ろうとか考える人はいなかったのか。


 まあ、自分にとってはそんなことはどうでもいいことだ。私は快適に便所飯ができればそれでいい。私は使用中の個室から離れた左から9番ぐらいのトイレに入った。


 入って便座に座り、まずは携帯電話をいじる。しかし、そこであることに気がつく。携帯電話の電波が圏外になっている。これではネットサーフィンができず、便所飯に支障をきたす。


 おかしい、この前は問題なく電波が届いていたはずだ。なぜ今日は圏外なのだろう。私は色々と思考を張り巡らせる。


 前回私の携帯電話は圏外ではなかった。前回と今の何が違うのか。違うことも言えばトイレの場所が違う。前回は入り口近くの1番左端のトイレで今は入口から遠い9番目のトイレだ。


(まてよ? そういえば今日前に入っていた個室トイレが使用中だった。しかもそこから連続して5つのトイレが使用中になっていた。左端から連続して……まさか!)


 私は個室トイレから飛び出す。ある仮説を確かめるためだ。私は携帯電話の画面を見ながら、地下トイレを歩いた。


(まず、さっきまでいた9番目のトイレの前。ここではまだ圏外のままだ)


 私は少しずつ左側に向かって歩く。そして左から5番目のトイレの前で足を止めた。携帯の画面にアンテナが立ちはじめた。


 やはりそうだ。このトイレは地下にあるから電波が届きにくい。ただ、入口の近くなら電波が届く。つまり個室トイレなら左に行けば行くほど電波が届きやすいのである。


 それならば左側から連続して5つのトイレが使用中であった謎も解ける。彼らは意図的になるべく左側のトイレに入ったのだ。携帯電話使用しやすい環境を確保するために。


 だとすれば、だ。ここに入っている5人は全員便所飯をしているということになる。その証拠に、私が個室トイレからでて10分ほど待ってみたが誰一人個室から出てこない。ただのウンコならこんなはずはない。


 さらに言えばこの5人はかなりの強者だ。おそらくこのキャンバスで最も綺麗で静かなA号館の地下トイレを便所飯の場所に選び、さらに携帯の電波が届く範囲までも知っているとは、おそらく便所飯をするのが一度や二度の素人ではない。


 間違いない。こいつら全員プロの便飯士(ベンメシ)だ。


 便飯士、それは便所飯の知識と技術を有した便所飯のスペシャリストのことである。今私が考えた言葉だ。


 私は甘かった。私はたまたまキャンバスをふらふらしていて偶然このA号館にたどり着き、ただなんとなく入り口近くの個室トイレに入っただけ。


 1番綺麗なA号館の地下トイレ、さらにその一等地である1番左端の個室トイレを確保できたのは偶然に過ぎなかったである。単なるビギナーズラック。便所飯とはそんなに甘いものではない。


 便所飯とは己の全てを賭けて自身の居場所奪い合うバトルロイヤル。食堂から追われた者たちの、いわば最後の敗者復活戦。敗れたものは飯も食えず野晒しとなる。そんなギリギリの戦いの中で生き残っている、それが便飯士なのだ。


 私は自身の甘さを痛感しつつも、なんとか次の手を探した。無難な選択だが、私は左から6番目のトイレに入ることを選択。おそらく5番目のトイレまでが電波の届くギリギリなのだろうが、左に近い分さっき入っていたところよりはマシだろうという考えからだった。


 個室に入った私は携帯電話の画面を恐る恐る見た。一応電波は入っている、だが不安定であり快適とは程遠い。これではまともにネットサーフィンはできない。


 携帯電話が使えないとなると何をして時間を潰そうか。私はとりあえずおにぎりを食べながら作戦を考えた。


 電波が入らないなら、それに依存することのない娯楽を用意するべきだ。本や携帯ゲーム機などがあれば時間が潰せる。ただ今はそんなもの用意できていない、あくまでも次の機会の話だ。


 昼食は食べ終わった。まだ時間はたっぷりあるが何もすることはない。かと言って外には出たくない。寒いのは嫌だ。


 そんな時、私は腹部に違和感を感じはじめた。


(う、腹が痛い……)


 まさかの腹痛。何か悪いものでも食べたのだろうか。比較的に綺麗とはいえバイ菌でいっぱいのトイレで飯を食ったのだから、それが原因だろうか。いや、原因はどうでもいい。


 幸い、ここはトイレだ。急な腹痛とはいえここなら問題ない。私はズボンを下ろそうとして……手を止めた。


 ここでウンコをする。おそらくは下痢気味のやつを。それはなんの問題もないはずだ。トイレでウンコをすることのどこが悪いというのだ、どこも悪くない。


 しかし理は通っていると言っても道義的にどうなのか、という話である。このトイレには私の他に5人の人がいる。しかも彼らは食事の最中かもしれないのである。


 食事中にシッコだのウンコだの言うのは普通禁止。食欲が失せるしそんなのは常識だ。

だがその理屈なら、もし食事中に近くでウンコやシッコをする奴がいたとしたら、そいつはとんでもない非常識な人間ということにならないだろうか。


「いや、でも、しかし、うーん……」


 私は悩んだ。社会一般のルールではトイレで便をすることはなんの問題もない。それは例え周りに便所飯をしている人がいたとしてもだ。そもそも便所で食事をしていること自体が普通ならマナー違反なのだ。黙認されているだけで公式に承認されているわけではない。なら私がここで今ウンコをしたせいで、便所飯をしてる彼らが不利益を被ったとしても、それは仕方ない筈だ。文句など言われる筋合いはない。便所飯をする人間に配慮などする必要などない、ない筈なのだけど……


「……出よう」


 散々悩んだ末、私はトイレを出ることに決めた。あれこれ気を使うくらいなら外に出よう。それに、どうせここにいたところで携帯でネットもろくに出来ないのだから。





 A号館を出た私は、トイレを探してまたキャンバス内をさまよい始めた。ここから1番近いトイレは何処だっただろうか、と痛む腹をおさえながら考えるが、腹痛とこのままだと漏らしてしまうかもしれないという焦燥感から思考がうまくまとまらない。


 滑稽な話だ。さっきトイレを出た私は、トイレを探してまたさまよっている。もう肛門は限界だというのに、本当に滑稽だ。


 食堂が満員で弾き出された私は、今度はトイレから弾き出され外をさまよっている。今この瞬間、間違いなく私はこの大学内で最も立場の低い人間だった。トイレから追放された人間なんてこの世で私くらいのもんだ。結局私の居場所はもう何処にもないのだ。


 外は雨が降っていた。雨でびしょ濡れになりながら、私は必死にトイレを目指す。そんな中、私は心の中で密かに願った。






 この大学には食堂が足りない。頼むからキャンバス内に第三の食堂を作ってくれ。それが出来ないなら地下トイレでフリーWi-Fiを使えるようにしろ。私から大学側に求める最初で最後のお願いだ。

 


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