四畳半王妃 ~マリー・アントワネット 転生王妃のやり直し~

96助

プロローグ

一七九三年、十月一六日


コンコルド広場へと向かう馬車の上で、マリーは耳に届く罵声の嵐に朦朧としていた意識を浮上させる。

どうやらここ数日の疲労が祟り、意識が遠のいてしまっていたらしい。

ガタガタと揺れる馬車の上で、酷く懐かしい夢を見ていたようだ。

自分がオーストリアからこの国へとやって来たばかりの頃。まだこの世界の不条理など何一つ知らない幼い少女で、自分に向けられた民衆からの温かな眼差しに無邪気に手を振り返していた頃の夢だ。

誰からも無条件に愛されていたあの頃は今となっては酷く遠い過去のことだ。あの時は、与えられる幸せがいつまでも永遠に続くのだと信じていた。

閉じていた瞼を開けば、馬車とは到底呼べない罪人を処刑場まで運ぶためだけに作られた荷車の上から、数えきれない程の憎しみを宿らせた瞳と目が合った。

憎悪、嘲笑、侮蔑。

向けられたその目は自分に対する溢れる程の憎しみで歪んでいた。


「オーストリアの売女!」

「お前のせいで、俺の娘は飢えて死んだんだ!」

「さっさと死んでしまえ!」


幌一つない馬車では彼らの罵声を遮ることは出来ず、耳を刺すような罵声が鼓膜を震わせ続ける。もう何度聞いたか分からない侮蔑と罵りの言葉に、心は血を流すことを止めてしまっていた。

群衆に囲まれ、馬車は葬列のように進み続ける。


(……なんて皮肉なんでしょうね)


街道に溢れた熱に浮かされる民衆も、馬車に乗る自身の姿も二十年前のあの日と同じ光景だというのに。

美しい装飾を施した馬車に乗り、幸せな花嫁としてこの国に嫁いできた日は誰もが私に向かって手を振り微笑みかけてくれた。

だが、今マリーを取り囲む民の中にあの人同じ穏やかな眼差しを向ける人間は一人として存在しない。

ふと、背中に冷たい秋風が吹きつける。


(……いけない、髪が)


乱れてしまう、そう思い急いで髪に手を伸ばそうとするがマリーの手が動くことは無かった。

両の手は罪人と同じように縛り上げられ、身じろぎ一つすることすら許されない。だが、直ぐにその必要もないことを思い出した。


(切られてしまったもの、必要なかったわね)


誰もが美しいと褒め讃えた髪も、度重なる心労の果てに今は老婆のような白髪に変わり果ててしまった。その上、落ちてくる刃が首へと真っすぐに届くよう、朝方に短く切り落とされてしまったのだ。

自慢だった髪が風に揺れる事ももう二度とない。

縛られた手では零れ落ちそうになる涙すら、袖で拭う事すら許されない。


(フランス王妃の最後が、こんな惨めな姿だなんて)


この世界の一体誰が想像したことだろう。

かつて誰もが羨望の眼差しを向けた、美しい王太子妃であり、王妃であった頃の姿は今や影も形もない。数えきれない程あったドレスも宝石も全て失い、今身に着けているものは服とは呼べないような代物だ。

唯一あの頃の面影を残すのは、脚を彩る絹の靴だけだ。

足元へと視線を向けた瞬間、ガタンと鈍い揺れと共に馬車が止まる。

一段と強くなる罵声の声に視線を上げれば、少し離れた場所に冷たく佇む終わりの場所が見えた。


ギロチン、断頭台。

夫であるルイ十六世の命を奪い、次は私の命を奪う場所。

私はもうすぐあの冷たい刃に首と胴体を切断され、生涯を終えるのだ。


急かすように馬車から下ろされ、マリーは静かに断頭台へ向けて一歩を踏み出した。足を踏み出すごとに、まるで熱に浮かされるように強くなる歓声にマリーは思わず目を細める。

もはや運命は変えられない、そう覚悟をしてこの日を迎えたはずだった。

だが、自分の死に様を見るためだけにこの場に集った群衆を前に、マリーの喉から掠れた呼吸が漏れる。


(どうして、何故なの?)


眼に映るのは今自分が纏っている服以上に、襤褸を纏った人々の群れだ。

ぼろぼろの布地を幾重にも重ねて縫い合わせて作られた、服とは呼べないようなそれは酷く色褪せ薄汚い。


(……何故、王妃出る私が)


同じ人間とは到底思えないような彼らに、罪の理由もなく断罪されなければいけないのか。


(私が一体何をしたというの)


一体どこで私は間違えてしまったというのだろう。

瞼を閉じれば思い出すのは楽しかった日々ばかりだ。

まだ何も知らなかった頃、無邪気に与えられる美しいドレスに身を包み自由奔放に微笑んでいた自分の姿が脳裏に浮かぶ。

あの頃友人を名乗っていた者達は、誰もが自分の元を去ってしまった。


(……もし、昔の私に戻れたら)


一歩足を前にだすたびに、沸き上がるような群衆の声にマリーは唇を噛みしめる。


(もし誰も私の事を知らないどこか別の場所で、もう一度人生をやり直すことが出来るとしたら)


この無慈悲な運命から逃れることが出来るのではないか。

そんなことはあり得ないのだと分かっている。

私の運命はあと数歩先にある断頭台で終えるのだと分かっていても、愚かにも祈らずにはいられなかった。


(ああ、神様)


マリーは震える身体で、目前に佇む断頭台を仰ぎ見る。

そして誰にも聞こえない程小さな声で囁いた。


「この哀れな王妃の最後の願いをどうぞ叶えてください」



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