影、花は微笑む

南木 憂

第1話

 昼は濃く色を帯びた影も、夜になれば闇に紛れて見えなくなる。日が沈み、雲間から覗く月に隠れるように、女は自分の影を消した。


 女、ヴィオレット・アスターは夜になると姿を消す。白い肌を衣服で覆っていることに加え、夜色の長く艶やかな髪は闇に溶けてしまう。暗闇の中で彼女を認識できるのは、伏し目からちらちらと見える菫色の瞳だけであろう。


 ヴィオレットは透き通った空気、満天の星の下、闇に紛れて仕事をしていた。帝都の中心部から僅かに離れた人気の無い広場、その片隅にある茂みで、ヴィオレットは足下に横たわる男を見下ろしている。


「おやすみなさい。またいつか、地獄でお会いしましょう」


 既に事切れた男を残して、その場を立ち去るヴィオレット。彼女は『見えない影ウンズィヒトバー・シャッテン』――王家に徒なす者を屠る暗殺者である。



 *   *



  リュンヒルデ帝国は神秘的な美しさを持つ国であり、中でも帝都クロイツハウプトは、まるで絵画の中から抜け出したかのような美しさを持つ都市であった。整備された石畳の通りの脇は歴史ある建物が立ち並び、風情が感じられる街並みが広がっている。美しいアーチ橋を越えた先にある大聖堂のステンドグラスは、その神秘的な輝きで通りを行き交う人々を魅了した。彼らは、この美しい国に生まれたことを誇りに思っていた。


 人々はリュンヒルデを誇りに思う様に、この国の姫も誇りに思っていた。王女アンネマリー・ロッドは、人形の様に小柄で華奢な体躯に、華やかなブロンドの髪が目を惹く、美しい女性だ。彼女の瞳は若葉色で、常に情熱的な光を放っていた。彼女は国民を導く立場でありながら、国民と同じように笑い、涙を流す。


 今朝のアンネマリーの表情は、空模様に似ていた。今にも泣き出しそうな顔をして、何を悲しんでいるのだろうか? ヴィオレットは懐にハンカチがあることを確認してから、いつものように声を掛ける。


「おはようございます、アンネマリー様」


 この挨拶から、ヴィオレットの表の仕事が始まる。彼女の仕事は、肩書きで言えば宮中伯補佐もしくは王女付きの秘書官だ。ヴィオレットはエルガー・シュヴァルツ宮中伯の部下として、アンネマリーの秘書官を勤めている。


「おはよう、ヴィオレット」

「アンネマリー様、顔色が優れないようですが……またご無理をなさっていませんか? 私の前で気を張る必要はありませんよ」

「大丈夫よ。プリンセスは強くなくちゃ」


 ヴィオレットは、アンネマリーが少し疲れた笑みを浮かべた後に泣き出すことを知っている。二人には、それだけの付き合いの長さがあった。


「アンネマリー様、今朝ハンカチに花の香を纏わせてきたのです。よろしければ嗅いでみませんか? 良い香りですよ」


 優しい花の香りがするハンカチを受け取ったアンネマリーは、その匂いをいっぱいに楽しむように、顔をハンカチに押しつけた。荒くなる息は、彼女が精一杯花の香りを楽しんでいるからである――ヴィオレットは震える肩は見ないようにして、そういうことにしている。彼女がそう望んでいるからだ。


 二人の出会いは十数年前のことだ。当時は、アンネマリーの母である女王イザベラが不慮の事故で命を落としたばかりであった。その頃のアンネマリーは齢九つであり、急な母との別れに心を痛め、塞ぎ込んでしまっていた。そんな彼女を哀れんだ王家の補佐役であるシュタイン・シュヴァルツ宮内卿は、アンネマリーに友人を与えようと考えた。そこで部下の娘であるヴィオレットに白羽の矢が立ったのだ。

 結果から言うと、ヴィオレットを友人役にしたのは大成功だった。ヴィオレットは両親の教育の賜物で、幼い頃から聡明な子で、アンネマリーの興味を惹く話をするのが上手だった。特に植物の知識に長けたヴィオレットは、王城の中庭にアンネマリーを連れ出しては、そこに咲く花々の話をした。ヴィオレットが話し相手となることでアンネマリーは少しずつ明るさを取り戻し、現在の様な王女たる気品と風格、そして慈悲深さを身につけた女性になった。

 アンネマリーはヴィオレットに感謝をしているし、ヴィオレットもまた、アンネマリーを大切に思っている。


 少しして息の整ったアンネマリーを見て、ヴィオレットは部屋の水差しからコップに水を注ぐ。涙の分だけ無くなってしまった水分を補給してもらうためだ。


「ありがとう、ヴィオレット」

「いえ。先に毒味を」


 そう言って水を確かめたヴィオレットは、自分が口を付けた方を指先で拭い差し出す。アンネマリーは「そんなことしなくても良いのに」と毎回言うが、ヴィオレットはそれを毎回聞き流していた。いくら匂いがしなくても、水が色づいていなくても、そのような毒はいくらでもある。ヴィオレットはそのことをよく知っていた。


 ヴィオレットは暗殺に植物毒を良く用いる。植物毒であれば、決して体格で勝ることの無い男が暗殺対象であったとて簡単に屠ってくれる。昨晩暗殺した男も、ヴィオレットが差し出した菓子を何の疑いも無く口にしたから、呆気なく死んでしまったのだ。


「ヴィオレット、貴方は死なないで――」

「……急にどうなさったんです?」

「今朝、お兄様から聞いたの……アーチボルトのご令息が急に息を引き取ったと」

「そうなのですか?」


 ヴィオレットは、なるべく大袈裟にならない様に、自然に驚いてみせる。その理由は、話に出てきたアーチボルトのご令息こそが昨晩殺した男だったからである。

 暗殺の対象者は王家に徒なす者であるから、必然的に王家に近い人間が命を落とすことが多い。また、アンネマリーはヴィオレットに暗殺者としての顔があることを知らない。ヴィオレットが仕事をした翌日、アンネマリーが死んだ人間を思って涙を流すことは良くあることだった。王家を守ることに誇りを持っているヴィオレットではあるが、涙するアンネマリーを見て、心を痛めない訳ではなかった。



 *   *



 太陽が早寝をする冬では、終業時間には辺りは暗くなってしまっている。ヴィオレットは暗闇に紛れるために黒いコートを羽織ると、静かな足取りで王城を後にした。

 夜の帝都は美しい。静寂、澄んだ空気――ヴィオレットは、この時間が好きだ。彼女はいつものように石畳の通りを進み、アーチ型の橋を渡る。そして、目立たないように目的地へ向かう。


 シュヴァルツ邸――宮内卿シュタイン・シュヴァルツの屋敷だ。ヴィオレットはシュヴァルツ家の嫡男であるエルガー・シュヴァルツ宮内卿の部下として、日中は秘書官を勤めている。本日の業務に関しての報告をするために、毎夜シュヴァルツ邸を訪れている。それが表向きの理由だ。


 ヴィオレットはいつもの様に表玄関から屋敷に入る。メイドの案内も無くとも、慣れた足取りでヴィオレットは目的の部屋へと向かった。


「シュヴァルツ様、ヴィオレット・アスターです」


 三回扉をノックしてそう告げると、部屋の奥から「どうぞ」と男の声が返ってくる。ヴィオレットは静かに扉を開けて、部屋の中に入った。

 部屋の壁一面には書籍や資料をまとめた冊子などが整頓されており、そのどこにも埃は見当たらない。王家の機密資料が多くあるこの部屋にメイドは入れないことから、男は神経質な性格であると窺える。実際、部屋の主エルガー・シュヴァルツはそういう男である。彼は質の良い革張りの椅子から立ち上がった。


 エルガー・シュヴァルツは、長身で引き締まった体つきをしている。彼の流した黒髪は緩やかに目にかかり、時折、鋭く相手を射貫く黒い瞳を遮った。気難しく厳格な印象を与える彼だが、実際には優しさに溢れ、身近な人々を心配する性格であると幼少の頃から面識のあるヴィオレットは知っている。しかし、それは誰にも見せず、常に冷静かつ厳しい表情を浮かべている。宮中伯として、自分が抱える責任とその重圧を背負っているのだ。そんな彼の支えとなることが、ヴィオレットが仕事に打ち込む理由である。


「アスター、昨晩はお疲れ様でした。アーチボルトは心臓病で急逝したそうです」

「そうですか。不思議ですね……健康だった若い男性が、夜の公園の草むらで発作を起こして亡くなってしまうだなんて」

「夜な夜な公園で女を好きにしていた男だから不思議ではありませんがね。そのことを明るみに出すために、あの場所で殺したのではないのですか? 貴方のことだから、アーチボルト家の評判を落とすところまで考えたのかと思っていました」

「買い被り過ぎです」

「そううですか。とにかく、今回の件は完璧でした。次はこの男です」


 ヴィオレットは差し出された写真を受け取る。そう、この屋敷に来る本当の理由は、『見えない影』として仕事をするためだ。

 彼女は机の上からハサミを取って男の顔を切り取る。そして首から提げているロケットの中にその写真をはめ込んだ。その様子を見てエルガーが顔を顰めるのは毎度のことだ。

 何も相手の顔を記憶できないからこうしている訳ではない。急な接近で疑われた時に、恋心故にそうしたと言い張るための小道具だ。


「昔はアンネマリー様の写真を持ち歩いていたというのに……」

「大切な写真は手帳の方に挟んでいます」

「知っています」


 その話は以前にも聞いたとエルガーは溜め息を吐いたが、彼にも知らないことがある。それはヴィオレットが大切にしている写真がアンネマリーとのものだけではないということだ。彼女の手帳には、エルガーと写ったものも挟まっている。


 ヴィオレットは、幼少期からエルガーに淡い恋心を抱いてきた。意識し出した頃、彼との関係性は幼馴染みだった。シュヴァルツ卿の嫡男である彼は、ヴィオレットの両親がシュヴァルツ卿に仕えていたこともあって、幼い彼女の遊び相手になってくれた優しい子だ。そうやって過ごした日々の中で、ヴィオレットは彼に安らぎを感じ、恋心を抱くようになっていた。

 そんな優しかった彼も、今では王家を守るために鉄面皮となってしまっている。ヴィオレットの手帳に挟まれたエルガーの写真は、彼から笑顔が消える前のものだ。当時は「シュヴァルツ様」ではなく「エルガーさん」と名前で呼んでいたことを思い出して、ヴィオレットは少しだけ寂しくなってしまう。


「……シュヴァルツ様、私はいつでもお力になります。あなたのためなら、どんなことでもします」


 口をついて出た言葉。エルガーへの想いを胸に秘め、彼女は彼の期待に応える覚悟を固める。


「私では無く王家の為に働くのが、貴方の使命です」


 エルガーは冷たく言った。しかし、その表情には優しさが見え隠れしていた。彼はヴィオレットに対して過保護にならぬよう、言葉を選んでいたのだ。エルガー自身も、彼女への想いを内に秘めていた。




 夜が明ける前に、ヴィオレットはエルガーと別れて自分の屋敷に戻った。彼女は、自分がこれから遂行しなければならない使命に心を落ち着かせ、部屋に戻るなり下調べを始める。彼女は、エルガーの期待に応えるために、今まで以上に力を発揮する覚悟を固めていた。


 一段落ついたころ、ヴィオレットは部屋の窓から帝都の夜空を見上げた。美しく輝く星の陰に、目には見えない星があることを知っている。ヴィオレットは、自分自身が輝く星にはなれなくとも、見えない星として愛する人達の側にいたいと思った。

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