◆9

 アデルはエマの発言に愕然とするしかなかった。誰が誰を殺したと。


 これはエマが姉に罪を着せようとしてるだけ。

 信じてはいけない。そんなはずはない。

 絶対にエマの言葉を信じてはいけない。


 ジーンはエマから目を逸らさなかった。それでも、背中でアデルを案じてくれているように思えた。思いたかっただけだろうか。


 エマはまるで水を得た魚のように語り出す。


「彼女なら、妹の部屋に薬包を置いておくなんて簡単よね? ノーマは彼女の部屋の担当だったのだから、いくらでも話す機会はあったでしょう。異母妹のノーマに遺産を渡したくないとミスター・ミルトンが考えていたように、婚約者の彼女だって渡したくなかったのよ」


 得意げに、歌うように続ける。どうしてそんなに楽しげなのだと問いたいほど、エマは溌溂として見えた。

 これが殺人者だとしたら、少なくとも少しも悔いていない。


「妹の部屋の水差しに細工することもできたでしょうし、ニコチンだってそれらしく勝手に摂取すればいい。ミスター・ミルトンと差し向かいでティータイムをしていた彼女ならいくらでも砒素を入れる隙はあったでしょうね。つまり、彼のためにノーマを殺したというのに、ミスター・ミルトンが自分を殺そうとしていると察した彼女は、彼を返り討ちにした。そういうことでしょう? ねえ、ジーン?」


 アデルは、ジーンが組み立てた推理をエマが利用したことに震えた。しかも、真犯人は姉だと言う。


 ただのメイドが犯人というよりも、デリックの婚約者である姉の方が余程容疑者らしいと誰もが思ってしまった気がした。


 けれど、アデルはマルグリット・ダスティンの妹だ。あの優しい姉の。

 アデルが信じなくてどうするのだ。

 デリックが死んだ時のマルグリットの自責が嘘のはずはない。


「いい加減にして! 姉さんに罪を擦りつけるなんてひどすぎる!」


 叫んだ時、アデルの目から涙が零れた。

 この涙は怒りだ。怒りがアデルの中から噴き出して涙になった。

 それをエマは冷ややかに見た。


「罪を擦りつけられているのは私の方だわ。ジーンはお姉さんの罪を私に着せようとしているのでしょう?」


 姉が殺人者だとしたら、これからのアデルの人生は薄暗い。

 アデルばかりではない。両親も、弟もだ。

 だから、ジーンが事実を捻じ曲げてでもアデルを救おうとしているとエマは言うのか。


「ジーンがそんなことをしてくれるわけないでしょう! 少しも特別扱いしてくれないし、言いたくはないけどそこまで好かれていないもの!」


 本当に言いたくない。言ったら自分にダメージがある。

 当のジーンはというと、嫌そうにため息をついた。


「証拠がないと思って言いたい放題だな。……あんたの選んだスケープゴートは、レイチェルではなくてマルグリット嬢だったわけか。マルグリット嬢には殺意がない。あの繊細な人に殺人は無理だ」


 他の誰でもないジーンがそう言ってくれてアデルがどれだけ慰められたか、当人はわかっていないかもしれない。


 エマの言い分は、アデルがジーンにつきまとっていたせいで、ジーンがアデルのために忖度したかのように聞こえる。

 バクスター警部とケード刑事の目にはエマの言い分にも信憑性を認めるような疑いが見え隠れする。


 負けてはならない。

 アデルは涙を拭いて気を強く持った。エマは笑っている。


「私に二人を殺害する動機なんてないわ。ノーマが死んで仕事量が増えて困っているくらいよ」


 アデルが殺人犯と対峙するのは初めての経験だが、皆がこうして堂々とした態度を取るものなのだろうか。

 エマは本当に潔白で、それを自分自身は知っているからうつむかずにいられるのかもしれない、とそんなふうに考えてしまいそうになる。


 本当に、人間は外見からではわからない闇を抱えている。

 その闇を照らす光は、少なくともこの場ではジーンの言葉だった。


 ジーンはエマが認めないのならばと厳しい口調なる。


「あんたは過去にミルトン邸で働いていた。その間にいくつか職を変えたからといって辿れないほどじゃない。あんたは父と息子と、どちらとも面識があったはずだ」


 その途端にエマの自信に満ちていた表情が強張る。事実だからこそ、とっさに繕いきれなかったのだとアデルでさえ感じ取れた。


「あんたがこのランバート・ホテルに勤め出したのは、エイブラム・ミルトン氏が故郷であるマンチェスターの病院ホスピタルに入院した頃と一致する。デリック・ミルトン氏は父親に会いにマンチェスターを訪れ、そのたびにここを定宿とした」


 ジーンは見てきたようにして語り出す。

 それにしても、ジーンはどのようにしてこれらのことを調べ上げたのだろうか。本当に裏づけるものは何もないのだろうか。


 電話、手紙――ジーンは探偵でも雇っていたのか。

 何かを握っていると思わせるほどの語りっぷりだ。警察が成り行きに任せ、ジーンとエマの対話を遮らないのも思えば不思議である。


 エマは口を挟まずにいた。だから、ジーンが一方的に喋る展開になる。


「エイブラム氏は死ぬ前にもう一人の子供に会いたいと願い、探偵を雇って捜し出した。反抗期の弾みでノーマは家出をしていて、コックニー訛りのひどい下町に埋もれていた。それを知ったエイブラム氏は人を使ってノーマを下町から引っ張り出し、職場を与えた。その職場には以前雇っていた、信頼するメイドがいる。そのメイドは、雇用関係になくなった今も恩を忘れず病院にも顔を出してくれるのだとエイブラム氏は語っていたそうだ。事情を知ったらノーマの面倒をよく見てくれると期待した」


 すでにエマの顔は幽霊に遭遇したみたいに強張っていた。微笑む余裕はなくなったらしい。


「あ、あなた、なんなの? どうして――」


 これはジーンの空想なのか。妙に生々しい。

 けれど、そうでないのだとしたら、ジーンには一体どのような伝手があるのだ。


 少なくともそれは警察ではない。バクスター警部たちまで唖然としているのだから。


「エイブラム氏とデリック氏は、もともと反りが合わなかった。証券会社を営んでいたエイブラム氏は息子に事業を継がせるつもりもなく、デリック氏もまた継ぐつもりはなかった。けれど、デリック氏は投資に失敗し、嫌いな父を金銭面で頼るしかなかった。エイブラム氏はそんな息子を情けなく思い、親子の関係はさらにこじれ始めていた。エイブラム氏がずっと顧みなかったノーマに会いたいと思い始めたのはそうした背景からか。ノーマの存在を知ってからは特に、デリック氏はエイブラム氏を嫌悪していたが、それでも金の無心に病院まで通っていたわけだ」


 アデルはジーンを見つめた。整った顔が無機質に見える。

 感情を殺してしまわないと言えないからだという気がしてしまった。


 パブリックスクールを出ておいて、何故かホテルで給仕をしているジーン。

 この変わった経歴は、彼の人生が平坦ではなかったことの証だろう。


「そのメイドは、デリック氏が異母妹のノーマに遺産を一ポンドたりとも渡したくないと考えていることも知っている。デリック氏の性質をよく知るメイドは、彼の表面上の共犯者になることにした。デリック氏に、共犯者のメイドは異母妹のノーマがこのホテルにいるのだと教える。そして、どうにか遺産がノーマに行かないようにできないか思案する中、デリック氏の婚約者マルグリット・ダスティン嬢と妹がこのホテルに泊まることになった。計画を立てたのは、毒を所有するメイドの方だ。ここで恐ろしいのは――これは最初からデリック氏も含めて殺すための計画だったということ」


 淡々と語るジーンに、エマは目をつり上げて今にも射殺してしまいそうな形相になった。


「何故、ただのメイドがエイブラム氏の二人の子を殺すのか。もちろん遺産が欲しいからだ」

「い、いい加減に――」


 エマの声が裏返り、エマはそんな自分に驚いて口を押さえた。ジーンの澄んだ目が、何もかもを見通すようで空恐ろしくなったのではないかと感じた。


「エイブラム氏は会社を興し、一代でちょっとした財産を成した。夫人は早世し、子供の他に身内はいないも同然。そのメイドは、少し世話を焼くだけで気前よく手当てをもらえるほど気に入られている。信頼を勝ち得たメイドが、天涯孤独である余命いくばくもない老人を慰めたら、老人は遺言書にこう書くだろう。〈エマ・スコットに全財産を譲る〉と」


 金こそが最も殺人の動機となる。

 復讐や正義感で人を殺そうとする方が難しい。


 人の欲が殺意を掻き立て、それを遂行させる勇気を持たせる。

 まるで悪魔のささやきのように。


 ジーンはここまでのことを調べ上げていたから、エマのもっともらしい仮説に惑わされることがなかったのだ。

 逆に言うなら、ジーンがいなかったら姉が殺人犯にされるところだったのかと考えてゾッとする。


「貧しい家で育った恵まれない女は、夢を見るのも許されないのね」


 ボソリ、とエマはそんなことを言ったが、ことは殺人なのだ。そんな綺麗な表現をするべきではない。


 けれどもし、エマが歪む前に心を埋めてくれる人との出会いがあれば、あの二人も死ぬことはなかったのだろうか。

 エマの満たされない空虚を金で埋めるには相当の額が必要だった。


「……では、詳しい話を聞かせてもらおう」


 バクスター警部がドアノブを回し、ケード刑事と巡査がエマの肩に手をかけた。エマは呆けたように大人しく連行されていくが、ジーンの横を通る際には顔をしかめていた。


 ドアが開かれると、そこには姉のマルグリットがポツリと立っていた。

 アデルは驚いたが、姉も驚いていた。


「ね、姉さん?」

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