The 7th day◇The Shrove Tuesday

◆1

 休んでいるように見えて、姉はあまり眠れていなかったのかもしれない。

 朝になってアデルはゆっくりとベッドから抜け出そうとした。その途端に姉は目を開けた。


「ごめんなさい、起こしてしまったみたい」


 アデルが謝ると、姉は上体を起こしてゆっくりとかぶりを振った。


「いいのよ。私も着替えてしまうわね」


 未だに指先の震えが止まらない姉を手伝いながら身支度を整える。アデルが姉の髪を結ってあげた。こんなことは何年ぶりだろう。


 早起きしたから、余裕でモーニングサービスに間に合った。多分、頼まなければ――もしくは頼んでも、ジーンは来てくれない気がする。

 そう思っていたのに、扉をノックしながら訪いを告げたのはジーンの流暢な英語だった。


「おはようございます。朝食をお持ち致しました」


 アデルは返事をするよりも先に扉を開けに走った。


「ジーン!」


 バンッと勢い有り余って扉を開くと、いつものフットマンスタイルのジーンは冷静にカートを若干後ろに引いた。そして自分も一緒に引いた。


 ジーンの顔を見るとアデルも安心して、張り詰めていたものがゆるんでしまう。姉の手前、自分ばかりが泣けないと堪えていた涙が浮いてしまう。

 今回はジーンも厳しいことは言わなかった。労わるような目を向けてくれる。


「事情は聞いた。大変だったな」


 ジーンがそう言ってくれるだけで、ほっと心が軽くなる。

 アデルはジーンを中へと誘った。姉はジーンを見て少し緊張したようだ。

 客なのに従業員に畏まるのは変かもしれないけれど、姉はいつも腰が低い。男性が相手だと特に畏まっている気がする。


「このたびはお悔やみ申し上げます」


 そっと、ジーンがアデルに対するよりもずっと丁寧な口調で言った。姉はそれを受けてうつむいた。


「どうしてこんなことになってしまったのでしょうね。私と婚約しなければ、デリックはここには来なかったでしょうし、本当に彼に申し訳なくて……」


 ヒクッ、と姉が喉を引き攣らせる。アデルは姉の言葉を聞いて、ただただ愕然とした。


「どこが姉さんのせいなの? 姉さんのせいじゃないわ。それなら、私がマンチェスターへ行くって言い出したのがそもそもの始まりでしょ? そんなふうに考えちゃ駄目よ」


 姉はすぐに自分を責める。こんな時でもそれは変わらない。

 婚約者の死を自分のせいだと責め続けるなんて、そんなのは考えるだけで苦しい。


「……私がもっと美人だったら、デリックに堂々と接することができていたのかもしれないわ」

「姉さん?」

「ほら、私、色黒で目の間隔も離れすぎだから。肌が白くなるって言われたら、なんでも試さずにいられなかったわ。どれも効き目はなかったけれど」


 ずっと姉が抱えていた劣等感が、傷口から血を流すようにして噴き出す。言わないだけで、本当はいつもそんなことを考えていたのだろう。


 君は魅力的だと言ってくれる男性がいない限り、姉は自信を持てないままなのかと思うとなんとも心苦しい。ただ、容姿に恵まれたアデルが何を言っても姉の心には響かないだろう。

 アデルは無言で暗い目をした姉の肩を抱いた。


 ジーンは何かを言うでもなくカートを定位置につけると、二人を席へと誘った。テーブルをさっさと整え始める。


 その手つきに見惚れている時間は余計なことを考えずに済んだかもしれない。それでも、アデルはジーンに助けてほしかった。そんなことを要求するのはお門違いだとしても。

 ジーンなら何かできそうな気がしてしまうのだ。


「ジーン、この短い間に二人も亡くなったの。これって無関係かしら。それとも……」


 アデルが目ですがると、ジーンは眉間に皺を寄せて嘆息した。けれどそれは、迷惑だとかそういうことではなかったように感じた。

 ジーン自身もまた、職場でこんな事件が立て続けに起こってしまい、思うことも多いのだ。


「無関係ではないのかもしれない」


 ポツリ、とそれだけを言った。

 これにはアデルばかりでなく、姉も目を瞬かせている。


「でも、メイドの彼女とデリックとの接点は……?」

「わからないから、見えないから、ないとは言い切れないものです。接点なんてものは他人にはわからないことの方が多いでしょう」


 淡々と話しているようでいて、ジーンは姉を気遣ってくれている。アデルになら、もっとバッサリと容赦のない物言いをするのだから。


「ノーマとデリックの接点じゃなくて、二人と接点があるのは〈犯人〉よね?」


 殺害された二人に面識は必要ない。犯人が邪魔だと思えたから殺した。二人と関わりのある者が犯人なのだ。

 そこでアデルはハッとした。


「そういえば、デリックはノーマの死について調べていたわ。ノーマの恋人のジョエルにも話を聞いていたの。デリックは探偵小説が好きで、物語の探偵みたいに事件の謎を解きたいって考えていたみたい。もしかして、真相に迫ったから犯人に殺されたんじゃ……」


 これでデリックが殺された理由がうっすらと浮かび上がった。

 一体、デリックは何を知ったのだろう。事件に首を突っ込んだばっかりに――。


 ジーンは落ち着いた仕草で姉妹にフレッシュオレンジジュースを差し出した。


「……僕が一番気になるのは、ミルトン氏がここへ来た経緯だ」


 姉の手前丁寧に喋っていたが、面倒になったのか、ジーンの素が出始める。その方がアデルもほっとしてしまうのだから不思議だ。


「どうして? うちの両親は来られなかったし、姉さんの具合も悪かったのよ。婚約者のデリックが来てもおかしくないと思うわ」


 この時、ジーンは姉の方に向き直った。


「体調はいかがですか?」

「え、ええ、随分楽になりました。今はそれほどでもなくて……」


 婚約者を亡くしたくせに平気なのかと、姉は責め立てられているような気分になったのだろうか。しょんぼりとしてしまった。しかし、ジーンが言いたいのはそういうことではない。

 ジーンはそれからアデルの方に視線を戻した。


「あんたの飲み水にタバスコが入れられていたことがあったな?」

「嫌な悪戯よね」

「あの時は単純に、最初に狙われていたのはノーマじゃなくてあんただったって思わせたい誰かが騒ぎを起こしたのかと思った。実のところ、部外者のあんたが殺されることはないと僕も軽く考えていたんだが……」


 殺人犯がウロチョロとしている時に軽く考えるのはやめてほしいところだが。

 被害者がノーマ一人だった時、アデルはまだ本心では深刻ではなかったのかもしれない。デリックが亡くなり、殺人事件が身近になった。今ではここに座っているだけでも怖い。


「犯人の狙いがあんたに目を向けさせることだったのは間違いないとしても、僕が考えていたのとは違ったみたいだ。犯人は、ミス・ダスティン――あんたの姉さんから注目を逸らしておきたかったんだろう」


 ジーンの言い分に、姉が絶句していた。アデルもポカンと口を開けてしまったが、すぐに気をしっかりと持ってジーンに問いかける。


「姉さんから? ねえ、どういうこと?」

「あんたの姉さんの体調不良は仕組まれていたんじゃないのか? あんたの飲み水に悪戯されていたように、あんたの姉さんの飲み物に異物が入れられていて、それで体調が優れなかったんじゃないかと」


 あっさりと言うけれど、そんなことがあるのだろうか。


「な、なんで姉さんにそんなことをするのよ?」

「足止め。ロンドンに帰れなくするためだろ。婚約者が体調不良とあらば、ミルトン氏をおびき寄せることができる」

「あ……」


 二人して黙った。そんなふうには考えたことがなかった。

 実際、警察はアデルのことは気にしても、姉のことはノーマークだったはずだ。


「頭痛と眩暈がしていたのでは?」


 ジーンが問いかけると、姉は大きくうなずいた。


「ええ。でも、疲れが出たのだから、少し休めばよくなるだろうって、お医者様に診てもらってもいないの」

「最初の事件のあった翌朝、僕はあなたに会いました。あの時、微かに煙草の臭いがして妙だなと思ったのを覚えています」


 アデルのことは〈あんた〉なのに、姉は〈あなた〉だ。なんとなく妬いてしまうアデルだった。

 だが、重要なのはそこではない。


「煙草! それ、バクスター警部のせいでしょう? あの方が来るとすぐに部屋が煙草臭くなるんですもの」


 それに対し、ジーンは残念そうに首を横に振った。


「最初の事件の翌朝だ。早朝からバクスター警部が、あんたよりも先に臭いが移るほどあんたの姉さんからじっくり事情聴取するわけないだろ」


 アデルを泣かせ、その詫びにジーンがローズクリームのチョコレートを買ってきてくれたあの朝のことだ。バクスター警部がアデルに事情を聞きに来たのも、そんなに早い時間ではなかった。


「軽度のニコチン中毒か。ちゃんと診てもらった方がいい」


 それを聞くなり、アデルも姉も青ざめた。


「デ、デリックをおびき寄せるために姉さんに薬を盛った人がいるってこと?」

「最初はストレスで隠れ煙草でもしているのかと思って言わなかったんだが、そういうタイプでもなさそうだし、結論としてそう考えた方がいいかと」


 アデルまで眩暈がしそうだった。姉が今にも椅子ごとひっくり返るのではないかと気が気ではない。

 しかし、ジーンはトドメにつぶやく。


「それから、おびき寄せるっていうのがそもそも正しいのかどうかわからない。もしかすると、そういうことではないのかもしれない」


 やはり姉のか細い神経には無理があった。真っ青である。


「す、すみません、私、食欲が……」


 この朝食に毒は入っていないとしても、刺激が強すぎた。アデルは慌てて姉をベッドに横たえる。


「姉さんには私がついているから、心配しないで。ね?」


 ジーンが、あんたがいると余計に心配なんじゃないのかというような失礼な視線を向けてくるけれど、姉は微笑んでくれた。


 しかし、アデルの腹の虫はクゥゥ、と鳴いている。豪華な朝食が要らないとは言えない。

 アデルは席に戻った。オレンジジュースで喉を潤す。


 そして、デリックの遺体のそばで見た状況を覚えている限り細かくジーンに伝える。何かの手掛かりになるといいと願いを込めて。

 ジーンはアデルの話を遮らずに聞いて、最後にうなずいた。


「ねえ、ジーン」


 グラスをコトリと置いて、アデルはジーンを見上げた。ジーンは目を逸らすでもなく、アデルの視線を受け止めた。

 だからきっと、これからアデルが何を言わんとするのかもわかっていて、それでも逸らさずにいてくれるのだと思う。


「ジーンには犯人がわかっているの?」


 ひとつ息をつき、ジーンは眉間に皺を寄せた。


「はっきりとじゃない。疑惑の段階だ」

「教えて」

「まだ無理だ」


 断られたが、なんとなく以前とは違うように思う。

 それは、新たな被害者が出てしまったからだろう。嫌だと言わずに、もう少し早くに動いておけばよかったという後悔もあるのかもしれない。


「でも、協力してくれるのでしょう?」


 僕には関係ない、知らないとは言われないはずだとアデルは感じた。

 ジーンは素っ気ないようでいて正義感は強いのだと思う。不当に人が殺されるのを良しとはしない。


 これ以上被害が広がるのを傍観しないでいてくれる。勝手かもしれないが、アデルはジーンがそういう人だと信じている。

 けれど、ジーンは憂鬱そうだった。


「……僕が動いて、裏目に出なければいいがな」


 事件解決に協力するのに、どうして裏目に出ると感じるのだろう。

 そういえば、昨日もそんなことを言っていた。


 ジーンは何かを恐れているのかもしれない。それが一体何なのかはわからないし、訊いても答えてはくれないだろう。

 それでも、アデルは自分の心に従ってジーンを信じると決めている。


 アデルには推理するだけの能力はないけれど、ジーンが抱える不安を取り除くことで貢献できたらいい。


「大丈夫よ。私がついているから」


 またしても、なんの根拠もない台詞である。だとしても、アデルは自信を持って笑顔で言い放った。

 ジーンはと言うと、面食らったように瞬き、そして笑った。


「なんだそれ」


 この瞬間に、やっぱり好きだなと思った。

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