The 3rd day◇The Rose scented Friday

◆1

 昨晩、アデルはベッドの中で震えながら縮こまっていた。

 フカフカの広いベッドだが、少しもアデルに安心感を与えてはくれなかったのだ。


 帰りたい。でも部屋から出たくない。

 そうだ、しばらく田舎の祖母のところへ行こうか。

 のんびりと、何も気にせず過ごしたい。祖母の作った手料理とクリームティーで目いっぱい甘やかしてほしい。


 けれど、当分は警察がそれを許してくれないだろう。事件解決の目途が立つまで、ここから動くなと言われるに違いない。


 ここには事件以上に悪夢を呼び起こしたジーンがいる。眠れなかったのはジーンのせいだ。

 あんなにもはっきりとアデルの欠点をあげつらうから、消えてなくなりたいくらいに落ち込んでいる。


 しくしく、しくしく。

 朝になって身支度を整えても、誰にも会いたくなかった。

 ベッドに突っ伏して泣いていると、ドアがノックされた。


「お客様、朝食の支度が整いました」


 多分メイドの、知らない声だ。

 朝食だというが、食欲がない――なんてこともなかった。ぐう、と腹の虫が鳴く。


 こんな時でも空腹は感じてしまうのだ。泣いたから体力を使ったのかもしれない。

 消えてなくなりたいなんて嘘だ。お腹がすいたら何か食べたいと思うのだから、消えるつもりなんてないのだ。

 やっぱりアデルは上辺だけの傲慢な人間だとジーンは言うだろうか。


「入って」


 ベッドから下りてガウンを羽織りながら声をかけると、扉が開く。

 そこにいたのは、カートを押した赤毛のメイド――と、隙なく制服を着こなしたジーンである。


 ジーンと目が合う。

 アデルは借りてきた猫のようにそうっと部屋の隅に移動した。


「私はこちらのお部屋を担当させて頂きます、エマ・スコットと申します。――お客様、顔色が優れませんが、お医者様をお呼び致しますか?」


 親切なメイドがそんなことを言ってくれたが、不調の原因の半分はそこのフットマンである。まさか今朝まで出てくるとは。


 昨日、アデルがわざわざ指名して呼んでしまったものだから、ホテル側が気を利かせてジーンを来させたのだ。自業自得としても、かなりの有難迷惑である。


 エマは、妙齢の女性客の部屋へ男性従業員を入れてもよかったのかと気にしている様子だった。しかし、上司からジーンを連れていけと言われたのだろう。

 彼女は見たところ十人並みの容姿だが、仕事はできそうだ。


 この時、ジーンはわざとらしいほど輝かしい笑顔を浮かべていた。昨日のあれは幻か。


「お客様、こちらに朝食の支度をさせて頂きますので、どうぞ席にお着きください」


 昨日、ジーンの本性を見てしまったアデルとしては、怖くて逆らえなかった。


「……はい」


 消え入りそうな声で答え、いつでも立ち上がれるほど浅く椅子に腰かける。怖い。


 ガタガタ震えているアデルに、エマは昨晩のことが余程ショックだったのだろうと憐れむような目を向けてきた。ある意味、昨晩はショックの連続だったのだが。


「後は引き受けるから」


 ジーンが小さく言い、エマはアデルを気にしつつも一礼して去っていった。行かないでほしい。


 この時のジーンは、最初にアデルが目を奪われた、手品師のように流麗な手捌きでテーブルを整え出した。指が滑らかに動き、まるで魔法をかけているようだ。

 性格は悪いけれど、やはり手際はいい。


 美しい蔦模様のセットに盛られているのは、フル・イングリッシュ・ブレックファースト。

 シリアル、季節のフルーツ、目玉焼きにベイクドビーンズ、フライドトマト、ソーセージ、ベーコン、ブラックプディング、六種類ものパン、オレンジジュースに紅茶――。


 広々としたテーブルの上に所狭しと並べられる。本来なら、頼めばサービスの一環として時間通りにモーニングティーは用意してもらえるが、そこについているのは精々がビスケットである。こんなに豪華なサービスはない。


 そこで、はた、とジーンとまた目が合う。アデルは慌てて逸らした。

 肩をすぼめて小さくなっていると、ジーンの嘆息した音が聞こえる。


「悪かった」


 何が。どこが。

 この上、一体アデルの何が悪かったというのだ。


 すっかり卑屈になっている今のアデルは、ジーンの発言をすべてマイナスにしか受け取らなかった。


「す、すいません。ごめんなさい。許してください」


 項垂れて言うと、ジーンがマーマレードやジャムの瓶を並べながらぼやいた。


「いや、だから悪かったって。昨日は言いすぎた」


 その言葉に、恐る恐る顔を上げる。

 これはジーンの謝罪なのか。謝罪するところがあったと思ってくれているのか。


 顔をチラリと覗き見ても、表情からは何を考えているのかさっぱり読めない。


 コトコトと白磁のティーポットから紅茶を注ぎ入れ、ミルクを足してアデルに差し出す。濃い目に淹れたミルクティーだ。


「怒ってヒステリックに怒鳴り返すか、女優さながらに哀れっぽく泣いてみせるかのどっちかだろうと思っていたんだけどな。そんなに子供みたいに大泣きされるとは想定外だった。傲慢だとか言って、悪かったな」


 それは柔らかな言葉だった。

 ジーンも仕事仲間が死んで、ショックで気が立っていたのだ。浮かれたアデルに腹が立ったのも仕方のないことだったのかもしれない。事実、アデルも不謹慎だった。


「こちらこそ、ごめんなさい……」


 つぶやいてみると、ジーンには昨日見せた刺々しさはなく微苦笑していた。ただし――。


「傲慢というより、良く言えば無邪気、悪く言えば見た目より中身が子供なんだな」


 この場合、わざわざ悪く言う必要はあるのだろうか。

 アデルは小首を傾げてみたが、深く考えてはいけない気がした。とにかく、このジーンは癖のある人物らしい。


 ジーンは少しばかり視線をずらし、四重にもなった閉じられたままのカーテンを眺めていた。何を考えているのだろう。


「……あなたは、亡くなったメイドの女の子とは親しかったの?」


 なんとなくそれを訊ねながら、アデルはフレッシュ・オレンジジュースを口に含んだ。香料ではない自然な柑橘の爽やかさが口いっぱいに広がり、搾りたてだとわかる。

 オレンジジュースを飲み続けるアデルに、ジーンはあっさりとした口調で答えた。


「いや、別に。挨拶程度に少し話すことはあったけど」

「じゃあ昨日、どうしてあんなに怒ったの?」


 すごく怖かった。こんなことを訊いて、また怒られたらどうしようかと思う反面、悪かったと詫びてくれた気持ちも嘘ではないと感じる。

 ジーンへの態度が定まらない中、それを探るように会話を試みるのだ。これはある種の冒険心かもしれない。


 ジーンはプラチナブロンドの髪を僅かに揺らす。


「それとこれとは話が別だな。親しくないやつなら殺されてもいいってわけじゃない。……殺されたメイドはノーマ・ガードナー、一九四十年生まれの十八歳。ここへ来てまだ半年。どんくさかったけど、殺されるほど問題のある子じゃなかった」

「私の姉さんの部屋の担当だったわ」


 ポツリと口に出してみて、それでようやく気づいた。


「あれ? そういえば、私の部屋の担当じゃないのに、どうして私の部屋にいたの? 変よね」


 自分でも気づくのが遅いと思った。思ったら、実際に言われた。


「気づくの遅くないか? そうだよ、あんたの部屋の担当はレイチェルだ。ノーマじゃない」


 友だちに接するようにとか言ってしまったアデルが悪いのか、素を見せてしまったついでなのか、ジーンは客とスタッフだというのにちっとも敬った物言いをしてくれない。

 それを失礼だと怒る勇気は、最早アデルにはないのだが。


「どうしてあそこにいたのかしら?」


 つぶやいてから、三角に切り分けてカリカリに焼かれた薄いトーストに手を伸ばす。バターをつけて頬張っていると、ジーンが伏し目がちに答えた。


「あの日、レイチェルはどうしても用があって、ノーマに休みを代わってもらったらしい。だからレイチェルも落ち込んでいたな」


 それはそうだろう。大体、事件というのは、たまたまだとか、滅多にないことだとか、そんな時に起こるような気がする。


「……そうね。きっかけさえなければ、彼女は自殺なんてしなかったかもしれないし」


 自分で言って、喉にトーストの欠片が引っかかったような苦しさを覚えた。

 それなのに、ジーンは眉根を寄せてアデルを見た。


「自殺とは限らないんじゃないのか?」


 衝撃的なひと言である。

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