第2話 天使の目


 シーラは言葉を失う。

 その左目は、夕焼けの胸締め付けられるような赤色をしていた。いや、燃えたぎる焔のようでもあるし、ピジョンブラッドの妖しい輝きにも近いだろう。

 蠱惑的に色合いを変える、宝石のごとき緋色の目が、そこにはあった。

 明らかに異形。見るからに魔性。

 少なくとも、右目の澄んだブルーとは異なり、美しいのに嫌な気配を帯びている。


「これは……」

「『天使の目』だ。私は半年前『天使』を目撃したのだよ」


 天使。

 それは災厄の別の名だ。

 原因不明の魔術的怪異。例えば、一夜にして人口数千人の街が消え去るとか、三つ頭のカラスが人の言葉で不吉な予言をするとか、湖が干上がり、おぞましいものが姿を現すとか――。

 それを目撃した者はいない。天使は目撃者を必ず殺すからだ。


 だが、ごく稀に、天使を目撃して生き延びる者がいる。そうでなければ天使の所業が後世に伝わるはずがない。

 魔術的な体質で、天使の殺戮から逃れ得たのか、あるいはただ単に運が良かったのか、理由は誰にも分からない。

 けれど確かに、百年に一度ほどの確率で現れるのだ。

 天使を目撃してなお、命を失わなかった者が。


 だが命は失わずとも、その片目は天使に侵される。

 アルフレッドのように、禍々しい赤い目――あるいは金色の目になる、と記録にはある。


「驚いた。ものの本で読んだことはあったけれど、実在するとは」

「私も驚いているのさ。自分のことは常々、美も知性も徳も兼ね備えた超人だと思っていたが、まさか天使の目まで宿してしまうとはね」


 穏やかに笑うアルフレッドは顔を上げ、それから微かに息を呑んだ。

 シーラの顔がすぐ近くにあったからだ。白い頬に散る薄いそばかすが数えられるほどの距離で、アルフレッドの天使の目を凝視している。

 まばたき一つしない彼女の姿に、アルフレッドは唇を引き結んだ。


「君も、この瞳に魅入られているのか」

「もちろん。この世の物とは思えない綺麗な赤だ。その名を冠した劇薬があるのも理解できる。このインクで魔導書を書いたら、さぞや素晴らしい本ができあがるだろう」


 そう言ってシーラはにやりと口の端を吊り上げた。


「――欲しい」


 アルフレッドは苦笑する。


「いやはや、自分の存在の罪深さを思い知ったよ。無欲そうなあなたでさえも、この天使の目に魅了されるとは」

「写本師が無欲だって? とんでもない、写本師ほど強欲な人間はこの世にいないよ」


 そう言いながらもシーラは、様々な角度から天使の目を見つめている。


「緋色は血の色。命の色。しかるに魔導書の冒頭に置かれるべきだ。寿ぐは生、退けるべきは死……。退魔、ああ封魔の力を持たせても良いな」

「君は写本師なのか。珍しい職業だね」

「その色を吸い上げて表紙にしても良いだろう。装飾的だが嫌いじゃない。美しいものは良いものだ。それだけで力を持つ」

「ふむ。聞いちゃいないようだな」

「あるいは、魔導書に直接人間の眼球を埋め込む――やったことはないが、楽しそうだ」


 くふ、と笑ってシーラは立ち上がった。


「アルフレッドといったな。死ぬときは私に連絡してくれ。その目を予約しておこう」


 するとアルフレッドは、鳩が豆鉄砲を食らった時のような顔になった。


「……は? このまま私の目をえぐっていかないのか?」

「何だそれは。生きている人間から眼球をえぐり出すような野蛮人に見えるか、この私が」

「牢屋に入ってくるなりピッケルで壁を壊し始めた君が言ってもあんまり説得力がないな」


 言いながらアルフレッドは、にっこりと輝かしい笑みを浮かべた。


「私の天使の目を欲しいと言いながら、死ぬまで待つと言った気の長い人は君が初めてだ。私だって今すぐ殺されるよりは、死んでから君にこの目をあげたい」

「善い心がけだ」

「だが、タダでとはいかないよ。取引だ! 私が死んだあと、私の天使の目を君にあげよう。その代わり、今ここから脱出させてくれないか?」

「ふむ。それは――妥当な取引だね。承知した、あなたをここから脱出させてあげる」


 そう言ってシーラは、指先に魔力を充填すると、


「『壊れろ』」


 とアルフレッドの拘束を外した。

 アルフレッドは自由になった両手を見て、驚いたように目を見開いた。


「すごいな。緻密な魔術妨害の術がかけられていて、私でも解除できなかったのに」

「だてに写本師はやっていない。歩けそうか」


 シーラが尋ねると、アルフレッドはすっくと立ちあがり、優雅に一礼してみせた。

 背の高い男だ。シーラもそれほど小柄ではないはずなのだが、アルフレッドは上背があって、少し見上げなければならないほどだ。

 貴族にしてはまるで軍人のような肉体をしている。


「靴は片方ないが、まあ私の完璧な美貌の前には些細なことだ」

「……」

「どうしたシーラ? 私の顔にみとれているのか」

「殴るぞ。足音がする」


 アルフレッドの表情が引き締まる。シーラの言葉通り、複数人の足音が上から近づいてきていた。


「私を捕らえた連中だろう。天使の目を取り出す算段がついたかな」

「無礼な連中だな。それはもう私の物だ」

「あはは、存外気の早い人だな、君は」


 憤慨するシーラに、アルフレッドは苦笑する。

 だがそれも、松明を掲げた四人の男たちが、刃をぎらつかせながら二人を睨み付けるまでのことだった。

 シーラは男たちを観察する。いかにも荒事に慣れていそうな風体だが、その分御しやすそうだ。魔術に長けているようにも見えないし、魔術具を身に着けている様子もない。侮られたものだ。


「おい、何勝手に牢から出ている!」

「その女は誰だ?」

「知らねえよ。大方助けに来た愛人の類だろ。なかなかの上玉だ、ついでに売り飛ばして、小銭稼ぎといこう」


 下卑た笑い声をあげる男たちは、おのおのの武器を見せびらかしながら近づいてくる。

 暴力慣れした気配を漂わせた彼らに、アルフレッドは身構えるが、シーラは面倒くさそうに指先を動かすだけだった。


「『転べ』」

「はっ?」


 魔術が男たちの足元をふわりと駆け抜ける。と、彼らは皆崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。

 何が起きたか分からない、という顔をしている男たちの間を、シーラがさっさと歩いてゆく。


「待て……ッ、うわっ!?」


 立ち上がろうとした男は、まるで何かに足をすくわれたかのように転んだ。

 他の男たちも同じだ。まるで氷の上を永遠に滑り続けているかのように、立ち上がっては転び、転んでは立ち上がっている。

 アルフレッドは慌ててシーラの後を追う。


「あれは君の魔術か」

「そうだが」

「凄いな。一気に四人の男を無力化してしまえるとは!」

「大したことじゃない。連中は魔術に対する耐性もなさそうだったし、訓練を受けているわけでもなさそうだったから。……あなたはあんなのにむざむざ捕まったのか?」

「寝込みを襲われたんだ、不可抗力だろ」


 さっさと地上に出、裏門を出るシーラの後に、アルフレッドがぴったりとくっついてくる。


「君は面白い人だ。良ければこのまま君の家に行っても?」

「男を連れ込む趣味はない」

「結婚しているのか」

「どうしてそういう話になる。――ありがたいことに、独り身だ」


 するとアルフレッドの青い目がきらりと輝いた。


「ならば是非お邪魔させてくれ! それに、この目のことでも、まだ君に伝えていないことがあるからね」

「ここで言ったらどうだ?」

「見ての通り、私の靴は片方ないからなあ。靴下だけでは冷えてしまって、とても長話できる状態ではないよ」


 しおれた様子を装う男に、シーラは小さなため息をついた。

 好奇心をくすぐられなかったと言えば嘘になる。

 それに、天使の目を持つ男をこのまま放置して、先程の男たちの仲間にやられでもしたら、困るのはシーラだ。


「……仕方がない。天使の目の色見本も取りたいしな。良いだろう、ただし用が済んだら帰るように」

「無論だとも! 恋人でない女性の家に長居するのはマナー違反だということくらい、分かっているよ」


 シーラの後を嬉しそうについてゆくアルフレッドは、どことなく白くて図体の大きな犬を思わせた。

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