20

 詠談社のエントランスの前で、山田を待ち伏せる。夏の暑い最中に屋外での待ち伏せは、熱中症のリスクを考えると命がけですらある。が、それは千石のおかげで大体の時間が予想つくため、そこまでの重労働ではない。


 玄関エントランスはガラス張りだ。その両側には小さな花壇が作られている。花ではなく、街路でよく見かける低木が植えられていて、真四角に刈り込まれている。


 日が暮れてもまだしばらくは薄青い世界の中で、車のライトや信号機がやけにまぶしく光って見える。昼と夜が入れ混じるこの時間帯が、まるでルネ・マグリットの絵画の中のようで、㓛刀は好きだった。


 となりの千石は、ただ真顔でエントランスを見つめ続けている。白い髪に白い肌が見た目にも涼しげで、か細い四肢は汗もかかないようだ。


 やがて、山田が出てきた。


 様子はいつもと変わらない。綿のシャツにチノパン姿で、暑そうに扇子で顔を扇ぎながら歩いている。なんてことのない、どこにでもいそうな、善良な中年男性にしか見えない。むしろ、少々ひょうきん気味な容貌は親しみやすさを覚えるほどだ。


「……山田さん」

 㓛刀は、声をかけた。

 山田は

「え? 達矢君、どうしたの、こんなところで」

 とまさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せたが、

「ちょうどよかった。達矢君のうちに行こうと思ってたところなんだよ。よかったら一緒に帰ろう」

 と、山田のほうから誘われた。

「ええ、ぜひ」

 㓛刀からしても願ってもない。


「今日も千石ちゃんと一緒なんだね。仲がいいねー。いいねえ青春だ。うらやましいよ、ほんと。ボクみたいな中年になっちゃうとさー」


 歩きながら、山田は滔々と喋りはじめる。


「ボクにだってそういう若いころもあったわけでさ。あの頃はよかったなあ。同じ学校の女の子と一緒に歩くだけですごくドキドキしちゃったりしてさ。今なんか、女の子と歩いてると、おっさんウザって思われないかでいっぱいいっぱいだよ。会社の子にもセクハラだと思われないように話題には気を遣うし、電車の中なんてさ、痴漢と間違われないように両手とも吊り革を握ったまま、絶対手を下におろさないようにしてるもんね」


 自虐をコミカルに話し続けている。㓛刀はそれを、なるべくいつも通りと見えるように、相槌をうちながら聞く。

 いつもどおり。

 僕は普段、どうコミュニケーションを取っていただろうか。ほとんど聞き役に徹していて、自分の話は聞かれたときに一言二言応えるくらいだったはずだ。相槌はどうしていただろう。笑いながら聞いていただろうか。相手に合わせて、もう少しリアクションを大きく取っていただろうか。それとも、もっと平たんに興味なさそうに、はいとか、へえとか、そういうつまらない反応をしていただろうか。

 よくわからない。親戚のような楽しいおじさんに対しての警戒心のない対応を、この、素性が誰とも知れない、本名も国籍もわからない、そしておそらく母を殺した男に対しても、同じようにふるまうなんて、難問過ぎて、これでちゃんとできているのかどうかもわからない。


 徒歩で少しの距離だとは言え、㓛刀のマンションの前に辿りつくまでにはもうすっかり日は暮れていた。空は黒く、街灯はすべて明かりがつき、大通りから住宅街へと一本入るだけで車の量も人の影もぐっと減った。


 㓛刀はマンションに入る前に、

「山田さん」

 と声をかけた。


 山田は、まったく無警戒のような顔をして、なぜ呼び止めたのだろうとばかりに、不思議そうに振り返る。

 子どものように無邪気な目をしている。


 㓛刀はスマートフォンを取り出した。指がかすかにふるえて、ただの指紋認証にも二、三回ほど失敗した。あらかじめ、すぐに開けるようにしていた写真フォルダですら、意図せずダブルタップをしてしまったりなどして、すんなり開けない。


 やっとのことで目当ての画像ファイルを液晶に表示させ、

「これ」

 と山田に見せた。


「んん? なに?」


 朗らかに覗きこんだ山田の、顔。

 気のいいおじさんの顔から、みるみるうちに愛想がごっそりと抜け落ちた。緩ませていた目元には、すうっと表情がなくなり、しんと液晶を見つめる目は冷めきっている。頬や口角も、物理的に垂れ下がったように見えるほどにだらりと弛緩した。恐ろしい真顔だった。


 㓛刀の液晶画面には、山田全の免許証の写真が映っている。


 あの、写真と名前がバラバラの、乗っ取りの証拠品だ。


「……で?」


 山田の声に陽気さはすでになく、威圧的で、相手を恫喝で征服しようとする男特有の荒々しさがあった。


「これ、今、キミが持ってんの?」


 朗らかな喋りかたはただの愛想、それを削ぎ落とされた本性は、明らかに㓛刀を脅そうとしている。


 予想していた変貌だった。あからさまな敵意を向けられることに対しては、覚悟はしていた。けれど安穏と生きてきた㓛刀にとっては、暴力とは、直面すると恐ろしいものだ。


 すぐにでも刺されて殺されるかもしれない。

 怒鳴られ、殴られ、瀕死の目に遭わされて、そのうえで証拠品を脅し取られるかもしれない。


 㓛刀は恐怖をぐいと噛み殺し、両足を踏ん張って、踏みとどまった。なにせ、隣には千石もいるのだ。


「『今』は持っていません」

「どこにある?」

「その前に教えてください。山田さんは、母さんの書斎から、これを探していたんですね?」

「答えると思うか?」

「会話に応じていただけないなら、在り処も教えられません」


 㓛刀は毅然と言い切った。もしかしたらハタからは、震えてみっともない抵抗にしか見えなかったかもしれない。

 だが、山田は㓛刀のことを幼少のころからよく知っている。㓛刀が弱々しく、自己主張をせず、ちょっとにおわすだけで勝手に察して人に譲るような、そういう性質だと知っている。

 だからこそ、今の㓛刀は『必死』なのだと、伝わったのだろう。猫を噛もうとする窮鼠に見えたのかもしれない。


「……こんな道端で話す内容じゃないな」

「部屋に上がりますか?」

「いや、どうせあの部屋は、公安が張ってんだろ?」


 山田は吐き捨てた。


「いいや、そこの公園の、ほら、神社で。日が暮れりゃ誰も来ないし」


 勝手に決めて、さっさと歩きはじめた山田の背中を追いかける。

 車の通らない小さな車道を渡る。ガードレールの隙間から、歩道へ一段を上がる。


「㓛刀」

 すぐそばの千石が、ささやくように名前を呼んでくる。

「大丈夫です」

 㓛刀はそう答えた。なにが大丈夫なのか自分でもわからないが、そう答えることで安心した。

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