09

 㓛刀、出かけるのかと声をかけられた。もちろん㓛刀にそんな声をかける相手は千石だけだ。


「あ、えっと、区役所に行こうかと」

「区役所? 何をしに、だ?」

「住民票を取りに」

「なぜだ?」

「いや、土佐さんの雇用契約のことなんですけどね。手続きについて電話したら、とりあえず住民票にあるのと同じ名前を書いてくれって言われまして。よくわからないんですけど、『㓛刀達矢』だと処理が進められなくて困るんだそうです。たまに住民票にある名前と普段使っている名前が違う人がいるんだそうで。苗字とかが、普通は使わないような難しい漢字を使ってる人とかに多いらしいですけど」

「そうか。私も同行しよう」

 千石は当たり前のように㓛刀の後を付いてくる。


「そうだ、千石さん、靴なんですけど……」

「なんでもいいぞ」

 履かせる靴がないので仕方なく、昔に千円ほどで買ったゴム製のサンダルを使ってもらうことにした。購入の際に色の選択肢がなかったので、水色のパステルカラーだ。㓛刀には似合わないし、ダサいダサいと思い続けていたのに、千石が履けばそれが可愛らしく見えるのが不思議だった。


 次に半分ほど重力の拘束から逃れてふわふわとした白い髪を、手櫛で整えてやる。

「なんだなんだ、撫でたくなったのか?」

 と千石は、撫でられて喜ぶ猫のような顔をした。

 相変わらずキツネの尻尾かライオンのたてがみのようにゴージャスな髪だから、多少撫でつけたところで収まりが良くなるわけではない。派手で目立つだろうが諦めて、㓛刀は千石を伴って家を出た。


 区役所は、徒歩で行ける距離にある。神社の前の歩道を通り抜け、その先の大通りを渡ったら、もうすぐそこだ。

 住民票を発行してもらうには本人確認書類が必要になる。㓛刀は健康保険証と学生証を持ってきた。事前にネットで必要な書類を調べてみたが、パスポートも運転免許証も持っていないので、これしか選択肢がなかったのだ。

 千石が、

「その健康保険証って、英玲奈の会社のだろう? 今でも使えるものなのか?」

 と言い出したから、㓛刀はぎょっとした。そういえば加入者本人が死亡した場合はどうなるんだろうかとヒヤヒヤしたが、発行してもらえた。本当はダメかもしれないが、他に書類を用意しろと言われると非常に困るので助かった。


 住民票というのを㓛刀は初めて見る。引っ越したこともないし、免許証をはじめ国家資格やその他を取得したこともない。ただの学生なら普通のことだろう。


 㓛刀、という名字は珍しい。だから自分が知らないだけで、当て字か何かだったのだろうかと推測していた。

 違った。


 まず世帯主の欄には「㓛刀英玲奈」という名前がなかった。

 Elena Ivanov

 見たことがない字面だ。


 そして「㓛刀達矢」の名前があるべきところには、

 Tatsuya Ivanov

 と記載されていた。


 㓛刀は目を疑った。何度も見直した。

 けれど、氏名の欄にはどこを探しても、『㓛刀』という文字が見つからなかった。


 その下の小さな欄、「通称」と書かれたところに至って、やっと、『㓛刀達矢』の名が記載されていた。


「……え、どういうこと?」

 通称というのがどういうものなのかもわからなかった㓛刀は、その場でスマートフォンを取り出して検索した。

 外国人が日本で暮らす上で利便性を保つために自分でつける通り名であって、まさに「通称」というものなのだそうだ。


「嘘……。二十年くらい生きてきて初めて、自分の本名が㓛刀達矢じゃないって知ったんだけど……」


 区役所の待合ロビーのソファで、㓛刀は茫然自失となる。ガックリと肩を落とした。隣には、千石がちょこんと座っている。


「ていうかこれ、僕、日本人じゃない、までありますよね」

「今までまったく知らなかったのか?」

「はい、まったく、です」


 㓛刀はこれまでの生活を思い出す。小学校、中学校と地元の公立校に通い、高校受験と大学受験を経て、今の生活がある。これまで入学や受験などの手続きで特に困ったことなどなかった。もしかしたら、おそらくは、公的な書類は英玲奈が処理してきたのだろうけれど、しかし、少なくとも日常を送る限り、ずっと「㓛刀達矢」と名乗って何かしら不具合があることなど一度もなかったのだ。


「待って、これ、国籍も書いてあります」


 通称の欄からさらに下のほうに、国籍を記載している欄もあった。

 㓛刀の予想通り、そこには『日本』とは書かれていなかった。


「ずっと自分のこと、日本人だと思い込んでた……」


 そういえば海外旅行をしたことはなかった。だからパスポートの申請をしたことがないし、もちろん所持もしていない。もし作る機会があれば、そのときに自国籍について気づくことができただろう。

 けれど、公立校では修学旅行でも海外に行く機会などなかった。

 プライベートでも母子家庭、忙しい母から海外旅行に行く話など出たことなどなかった。あの母親が海外に行くための種々手続きを自主的にできるわけがないのだし、残念だけれど仕方ないと、そう諦め半分、納得していた。


「疑ってもなかった?」

「……深く考えていなかったんだと思います。母親は、そりゃ見た目はいかにも外人ですけど、日本に住んでもう二十年以上も経っているし、名前も漢字で㓛刀英玲奈って、もう日本人の名前ですし。留学してきたとは聞いてましたけど、祖国に帰っている様子もない。なんとなく、あっちの国とはもう縁が切れているんだし、とっくに日本人なんだって、そう思ってました。だからその子どもの自分も当然、日本人なんだと思い込んでましたよ……」


 改めて考えてみればまったく根拠のない思い込みだった。けれど、物心ついた頃から日本に住んで日本語を話し、日本人らしい名前を本名だと思い込んで生活していたのだ。あえて疑うことなんて、今までしてこなかったのだ。


「これはさすがに、生きているうちに教えて欲しかったな……」


 まさか天涯孤独の身の上になって初めて、紙一枚で自分の国籍なんてアイデンティティを覆されるとは思ってもみなかった。


「名前も国籍も実は全然違ったなんて、僕はいったい誰なんでしょうね」

 千石は特に口を開かない。㓛刀も、こんなロビーのソファで嘆いていても仕方がないとはわかっている。

 ただ親兄弟も親戚もいない、父親に至ってはどこの誰かもわからない、その今の状況に、

「生まれてこのかたずっと住んでいる土地が、実は自分にとっては外国だった」

 も付与されて、少々打ちのめされているわけだ。


「千石さんも、最初の信者が外国人ってことになっちゃいましたね」

「それは私にとってはまったく問題のない話なんだが」

「あ、そうですか」

「それよりも㓛刀が出自に興味があるのなら、刑事が持ってきたあの箱の中身が役に立つのではないだろうか」


 そうだった。数橋から中身の確認を求められても上の空だったが、確かに身分証が含まれていたはずだ。保険関係の契約書があるのなら、法的な契約書にどの名前で署名していたかわかるはずだし、通帳やその他も今となっては別の意味で確認しておくべきものになった。


「……千石さん、帰りましょうか」

「そうだな」

 立ち上がって、並んで歩き始める。


 区役所はたくさんの人がいて、見るからに外国人だとわかる風貌の親子がロビーで受付番号を呼ばれるのを待っている風景も、近頃は珍しくない。

 それに対して、

「最近は外国の人も増えたなあ」

 なんて思っていたけれど、なんのことはない、自分だってそっち側の人間だったわけだ。


「㓛刀は、日本人だったほうが良かったんだな」

 言われて初めて、そんなに執着していた自覚などなかったことに気がついた。

 自分が何人かなんてあんまり考えてこなかったから、もちろん、日本人であることにこだわりなんて持っていなかった。拘泥していると気づくこともなかった。

 そのはずだ。


「そうですね。物心ついてからずっとここに住んでますから、やっぱり愛着があるみたいです。今初めて考えましたけど、やっぱり自分のこと、……そうですね、日本人だって思いたいですね」


 区役所を出て路上に立つ。目の前の道路は片側四車線で、中央分離帯には花壇もある。横断歩道を渡った向こうでは、神社の鳥居が目に鮮やかだ。夏の青々とした木々の葉を、風が揺らしている。外に出た瞬間に、蒸し風呂のような熱気と湿気が肌にまとわりつく。頭から浴びるように蝉の鳴き声だ。

 今の半分より小さな身長しかなかった頃から、毎日見てきた道路だ。何も特別だと思わず、飽きるほどに、当たり前に見てきた景色だ。


 ここが祖国ではないのだという。知る人も知る場所も何もない、言葉すらわからない遠い国が自分の母国なのだそうだ。そんな心細いことがあるだろうか。


 不意に手の中に、千石の指がつるりと忍び込んできた。㓛刀の手よりもひんやりとしていて、しっとりとしている。手を握るというよりは、ささやかすぎて、もはや指をつままれているようなものだ。

 さすがにこの心境で、この状況で、色恋浮き立つようなものを期待するほど㓛刀もお花畑ではない。労わられているのだということぐらいはわかる。

 それが㓛刀自身驚くほど素直に、慈雨のように心に浸みる。


「ありがとうございます、千石さん」


 すると㓛刀より低い身長から、琥珀の瞳が戸惑ったように揺れて見上げては目を逸らす。

「いや、何、私もこういうとき、どう振る舞うのが上策なのかわからなくて、すまないな。どうも、うまくない」

 㓛刀はそれで十分に慰撫された。彼女がとても誠実に、㓛刀の心の揺れ動きに寄り添おうとしてくれていることが伝わり、それがしみじみと嬉しかった。

 傷ついているときに、傷ついているんだねとありのままに認めてもらうこと、ただそれだけのことを、㓛刀は今まであまり経験したことがなかったのだ。

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