無垢の涙

@NEGAIGAKANAUNEGAIGAKANAU

第1話

 B棟で生徒四人が行方不明になった事件…、あれ、天使庁案件になるらしいよ…、そううわさされて、かれこれ二か月か…。

 今日は特別な日だ、みんな知っている…。このA棟…、二年一組に、天使庁から、天使と白魔術師(ホワイトアーティスト)が派遣されてくるのだから…。

「天使様って、それは美しい方なんでしょ?」

「白魔術師っておっさんかな?」

「でも、表向き、学生ってことで、潜入捜査するって…。」

「じゃあ若いのかな?」

「さあ…、若くても、二十代、とか?」

「青柳さん、クラス委員だから、色々聞かれるんじゃない?」

 名前を呼ばれて、教室全体のざわめきに、ぼんやりと意識を漂わせていた青柳桃李(あおやぎとうり)は我に返った。

 青柳桃李は…、このマンモス校、一学年が九百人以上いる、私立伊勢崎学園高等部において…、文句なし、ナンバーワンの美少女である…。それが周囲の評価だ。

 みんな、彼女に話しかけたくてそのチャンスを狙っているのだが…、成績優秀者でもある桃李に、「この人って頭悪いな…」と、万が一にも思われない話題のふり方となると、なかなかに気をつかう。

「そうかな、そう思うと緊張しちゃうけど…。私たち、B棟のことは、あまり知らないし、協力できることなんて、ほとんどないんじゃない?」

「それなら、これとっておきの情報なんだけど、行方不明になった連中ってさ…、」

 一人の男子学生が、ここぞとばかりに身を乗り出して、いかにも、これ、秘密なんだぜ、と言う風に声を落としたが…、そこで着席をうながすベルが鳴った。

 せっかくの青柳桃李との会話は強制終了となった。ちぇっ、という顔をして、みんな席に着く…。椅子が動く音、しばらくのざわめき…、そして静寂…。

 廊下を歩いてくる足音…。担任がドアを開ける瞬間を、こんなにも心待ちにした朝があっただろうか。

 教室のドアが開き…、見慣れた担任教諭に続いて、思わずため息がもれるような…、見目麗しい天使様と、さすがに天使様とは比べ物にならないが、かなりの美形男子が入ってきた。

 起立、礼、のかけ声の後、担任教諭も、かなり緊張した面持ちで話しはじめた。

「皆知っているとは思うが、このお二人は、ニか月前の、わが校の生徒が複数人行方不明になっている事件について、天使庁から派遣されていらした。」

 言いながらホワイトボードにむかい、二人の名前を書いていく…。

「天使様は、『司宮天音(しのみやあまね)』の名で活動されている。こちらのお若い白魔術師様は、『弦巻満瑠(つるまきみつる)』とおっしゃる…。」

 そう、確かに若い…。天使は自在に外見を変えられるので、自分たちと同じぐらいに見えて当たり前なのだが、白魔術師は、魔法を習得した普通の人間だ…。

 しかし弦巻満瑠、と紹介された少年は、十八を出ているようには見えない…。自分たちと同じ十七歳ぐらいだろう。それなのにもう、天使庁職員として働いているとなると、かなり優秀な人材、と言うことになる…。

 金の髪と、何にも例えがたい美しい青い瞳の天使様は、退屈そうに担任の言葉を聞いている…。視線が一通り教室をさまよって…、桃李に焦点を合わせ、ぴたり、と留まったのは気のせいだろうか…。

 弦巻満瑠のほうは、何か期待と不安の入り混じったような目で、教室を興味深げに見ている…。

 二人を見ていて…、桃李は思った。こんなに目立つ二人組を、「潜入捜査」の名目で学生に紛れ込ませても…、意味がない、のではないか。

悪魔や、悪魔につながる者は、すぐに二人を「異物」として認めるだろう…。それとも、目立つことで、彼ら闇の者の注意を引き付け、さらなる犯行を抑止するのだろうか…。

「皆不安だとは思うが、天使様が来てくださったからには、事件解決の日は近い。心を落ち着け、不義の誘惑と思われるものに出会ったら、迷わず天使様に報告してほしい。」

 担任の話が一段落つくと、天使様はいかにも、人間になど興味がないのだ、と言う顔で、ぼそっと名乗った。

「…司宮天音だ。」

「弦巻満瑠です、よろしくお願いします。」

対照的に、満瑠は丁寧に頭を下げる。担任が二人に、席についてください、とうながすと、天使様は…、示された席を通り過ぎ、桃李の前に来て足を止めた。

「…話がある。あとで屋上に行こう。」

 教室中がどよめき…、桃李は、思わず口をパクパクさせてしまった…。


 一時限目中…、桃李は落ち着かず、授業内容が全く頭に入ってこなかった。時々、満瑠と目が合う…。天使様はと言うと、ただ目を閉じ、腕を組んで椅子にふんぞり返っている…。


 今から三十年前…、世界各国の主要都市の宙空に、「四大天使」のヴィジョンが出現した。彼らはミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルと名乗り…、背には三対、六枚の翼があった。その美しさ、神々しさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 彼らは人心の荒廃により、「物質世界」…、人間の暮らす世界が、終焉へと進んでいること…、そのため、「魔界」…、悪魔の世界との境界にひずみが生まれ、悪魔たちが物質世界に干渉しやすくなっていることなどを告げた…。

 そのため、悪魔と、「悪魔の血」を摂取し、悪魔の下僕となり果てた人間による怪異が多発している。これを憂慮した「天界」…、天使たちの世界…、は、今まで秘密裏にこれら怪異に対処してきた。

 しかし悪魔の干渉多発問題は過熱する一方で、もはや一刻の猶予もなく、第四次聖戦…、過去にも三度聖戦があったと言う…、に、発展する恐れすらある。

 そうなれば単に、魔界、物質世界だけの問題ではなく、天界すらも戦渦に巻き込まれる大惨事となり、天使たちは自らの、そして悪魔たちの存在を知らしめることによって、人心を善なる方向に導き、悪魔の干渉を阻害して、聖戦の、そして物質世界滅亡の回避を目指す、と言う…。

 四大天使は、その手段として、各国に「天使庁」を創設し、そこに天使を常駐させることを宣言した…。

自分たちが本物の天使である、と証明するために、四大天使は、各国で起こった、奇々怪々としか言いようのない、未解決の大量殺人事件、あるいは集団自殺などの事件を、詳細に紐解いた…。その「謎解き」には、警察関係者の間でもトップシークレットの「事実」、そして悪魔がどのように関わっていたのか、と言う「真相」があった…。

各国首脳が緊急に会議を開く中、四大天使のヴィジョンは宙空にとどまり続け…、天には暗雲が垂れ込め、絶えず雷鳴がとどろき…、稲妻がひらめいた。天使たちの威嚇である。

一方で四大天使は、人々の「代表」の質問に答えた。「世界」は大雑把には、天界、物質世界、魔界の三層に分かれており、「死」を司るのは天使の役割で、魂の修練の場として、天国、煉獄、地獄が存在する。

天界は七層に分かれており、天使たちは能力に応じた階級によって別れて暮らしており、法と秩序がいきわたった「理想国家」に住んでいる。普段はそれぞれに興味のある分野の学問、研究にいそしみ、必要があればその他の共同作業なども行う。

天国で洗練された人間の魂が天界に、つまり、人間が天使に生まれ変わる、と言うことはままある。一方、地獄に落ちた者が悪魔に生まれ変わる…、と言う事はまずない。本来、「死」と「魂」は天使の管轄である。地獄は穢れた魂を清めるための場所なのだ。

しかし、悪魔が物質世界に介入してもたらした「死」や「悪魔の血」を摂取してしまった者の「死」は、悪魔に操作されてしまう。

悪魔に持ち去られた魂は、悪魔へと生まれ変わるが…、「元人間」の悪魔は弱い魔力しか持たず、強力な魔力を持つ上級悪魔たちの奴隷となり、人権、道徳、倫理、良心…、一切の美徳が存在しない世界で、死よりもつらい「生」を生きていくしかないという。

天使たちはこういった世界観を示すだけでなく、難病の治療法なども教示した。また…、どうすれば人心の荒廃が防げるのか、と言う問いに関しては、それは人類が考え、解決すべき問題であり、天界が関知してはならない事柄である、と説いた。

天使たちの教えにより、不治の病から生還した者…、その家族、友人、医療関係者…、彼らは奇跡を信じ、天使たちを支持した。その波は世界的な広がりを見せていき、政府も無視できなくなっていった。

キリスト教圏の国が、試しに、「この土地を天使庁建設の地として、お使いください」、と提示した…。すると一筋の光の柱が立ち、一瞬にして、機能美と創造主礼賛を想起させる、荘厳な建物が現れた…。

そうしてどこからともなく…、美しい男女の姿をした、「受肉した」天使と、彼らの今までの、秘密裏の活動を支援してきた「白魔術師」たちが現れた…。

天使庁が一つ建ち、二つ建ち…、機能しはじめると、セム族一神教の系譜を持つ国々は、競うようにして天使庁建設用の土地を献上した。それ以外の国々は…、世の流れに抗いきれず、自国の宗教教義と天使の存在の間に折り合いをつけた。

日本に天使庁が建設されたのは、比較的早い段階だった…。アメリカの動きに追従したのである。当初十年くらいは、これと言った事件もなく、平穏に過ぎたが、やがて悪魔が介入しはじめた。

下級の、ほとんど名も知られていないような悪魔が、上級の悪魔に媚びるために起こした事件が多かったが、五年前の「新潟県X市事件」は、まさに「魔の手」が日本にも及んだことを知らしめた。

卒業を間近に控えた小学六年生の児童が、三十人以上殺傷された凄惨な事件として、世間を震撼させ…、同時に、事件を引き起こした悪魔「アブラクサス」の名を知らしめた…。


 五年前の事件…、ひょっとしてこの天使、「司宮天音」が、アブラクサスを退けたのだろうか…。そう、アブラクサスは…、まだ、生きている。

五年前、消滅させるには至らなかった…。しかし魔術書にも名前が載っているような悪魔が介入してきた、レア・ケースで、犠牲者三十数名でも、少ないほうだと聞いた…。

そんなことを桃李が考えていた時、一時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。すると天音が真っ先に立ち上がり、つかつかと桃李のほうへむかってくる。

そして桃李の腕をつかんで、屋上のほうへと引っ張っていくのだが、桃李はどうしていいかわからない。

「あ、あの…、」

 どういうことだろう。担任はまだ桃李を、クラス委員だ、とも紹介していない。話がある、話とは何だろう、事件のことだろうか、しかし桃李は、噂程度のことしか知らない…。何か、自分に「怪しい」ところがあるのだろうか。

 後を追って満瑠が付いてきた、その後ろから、やじうまやじうま…。屋上に着くと天音はドアを乱暴に閉めた。そのドアのむこうで、満瑠がいろいろ言って、やじうまどもを押しとどめているのがわかる。

「あの、天使様…、」

「ロシュフィエルだ、誠の名は、ロシュフィエル…。昔のように、ロッシュ、と呼んでくれてかまわない…。」

 昔…、自分は、この天使様と会ったことが、ある…、わけがない。それならば忘れないだろう、この美しい髪、美しい瞳、白磁のような頬…。

「久しぶりだな、マリエル。君が不慮の事故で、天使としての生を一度終えてから、三百五十年くらいか。物質世界に転生しているのではないかとは思っていたが…、また会えてよかった。天使庁などに出向した甲斐があったというものだ。」

 マリエル…、え…、誰かと、勘違いしている、のか…。

「もう二、三回は転生したのか?君が言っていた、愛について学ぶ、と言うことはできたのか?」

「ま、待ってください!私は、マリエル、と言う人…?では、ありません!青柳…、青柳桃李です!」

「まさか、何も覚えていないのか?」

 天音がちょっと眉をしかめる。

「君のその長い黒髪を、陰性霊子が強いからだ、などと言ったこともあったな…。あれは…、本心ではない。君が美しいので…、照れていたのだ。周囲が決めたこととはいえ…、君と婚約できたのが、うれしかった…。」

 婚約…、え、え、話が全く見えてこない…。

「本当に何も覚えていないのか?」

重ねて天音が聞く…。桃李は困惑するばかりだ。

「この姿を見ても…、何も思い出せないか?」

 天音が…、天使「本来」の姿に、変化した…。背に白銀の翼…、頭部に光の輪も見える。なんと神々しい…、桃李は感動した…、が、それで何か「思い出した」こともない…。

 桃李のその様子を見て…、天音は小さくため息をついた…。少し悲しげでさえある。それを見て、桃李は、別に自分は悪くないのだが…、罪悪感を覚えた。


 天音は語る。


 今から五百十年前…、ロシュフィエルとマリエルは、時をほぼ同じくして天界に生を受けた。階級は「力天使(ヴァーチャー)」…。ロッシュは「世にも珍しい」、「智天使(ケルビム)」と「力天使」のハーフだった…。

 天使の結婚、妊娠、出産、と言うものは、神聖な儀式であり、個人のものではなく公のものだ。妊娠の仕方も人間とは全く違う。雄性体、つまり男子と、雌性体、つまり女子、の別はあるが、性交することはない。

 両性の霊性遺伝子の一部を取り出し、これを混ぜ合わせ、雌性体の胎内にもどす…、これで妊娠が成立する。自由恋愛、と言う意識は希薄で、たいていは周囲の勧めに従い、婚約、結婚する。

 まれに自分たちの意思で結婚相手を決めることもあるが、純然たる階級社会でもある天界において、上位の階級者は畏敬の対象であり…、下位の階級者は大いなる慈悲の対象である…。結婚は、対等の立場である同階級者の間で行われるのが普通である。

 だが、ロッシュの父である智天使と、ロッシュの母である力天使は、階級を超えて「恋」をした…。周囲は二人を奇異の目でとらえ、共に暮らすことも許さなかった。ロッシュの母はひっそりと出産を終えた…。

 だが、力天使の階層に、智天使の優れた霊性遺伝子がもたらされたことは、福音でもあった…。ロッシュは、何かの拍子に、二対、四枚の翼を現すことがあり、智天使の階層に入る権利をも有していた…。

周囲は、この力を自分たちの世界にとどめおこうと、生まれて間もないロシュフィエルとマリエルの婚約を決めた…。

 やはりロッシュは、何をやらせても、他の天使の子とは比べ物にならないほど優秀だった。そのために孤独でもあった…。周囲は、ロッシュのそばに行くように、と常にマリエルにうながす…。

 そのマリエルは、美形ぞろいの天使の中においても、評判になるほどの美しい娘だった…。緑の瞳は新緑の輝き、流れる黒髪は光を反射して、それが星の光をまとったようだ、と言って、天使たちはマリエルに「星(ステラ)」と言うあだ名をつけた。

 ロッシュは専攻は数学、趣味は天体観測、楽器の演奏…。マリエルは専攻は言語学、趣味は詩作とレース編み…。二人は互いの分野で頭角を現し、周囲は二人を「理想のカップル」ともてはやした。

 マリエルの評判が上がれば上がるほど…、ロッシュは安堵した。これならば、自分が婚約を破棄したところで、彼女を妻に欲しいと望む男はいくらでもいるだろう。

 そう、ロッシュは…、功績を立てて、自力で智天使の地位まで上りつめようと考えていた。天使の寿命は長く、その洗練された社会では自然と魂は徳を積んでいく。

その結果、生まれ変わるたびに階級は上がっていき、最終的には「熾天使(セラフィム)」…、天使の最高位に…、「個」は消滅し、善なる、光の集合体意識へと進化し、その集合体意識の最深部に、「神」が宿る、と考えられていた。

天使は間違いなく神に創られたが、彼らもまた、神の真の姿を知らないのだ…。人類に示された「四大天使のヴィジョン」、あれは集合体意識の、ほんの一面でしかない。


二人が百六十歳の頃…、天使としてはほんのかけだしだが…、一つの任務を言い渡された。第三次聖戦時に発生した、亜空間の中に、悪魔達がもちいた対天使用殺戮兵器…、「遺物(アンティーク)」が残っているのが発見された、これを回収してほしい、と言うものだった。

千歳を超えるベテランから、ロッシュたちのようなひよっこまで…、十人ほどの力天使でチームが結成された。中には「遺物」の研究を専門に行っている天使もいた。

問題の亜空間は、凄惨を極めたという第三次聖戦の気配もなく…、長い間何者も立ち入らなかったせいか、空気も清浄で、星がよく見えた。

チームはピクニックにでも来たような気分で、「遺物」を撮影し、かなり大きいものだったので、数日をかけて分解することにした。

夕方になり、夜営するためにテントを張り…、簡素な食事をとると、マリエルがいくつか詩を作って披露し、ロッシュも音楽を奏でた。和やかな夜だった…。

「ロッシュ、今日の私の詩、良く出来ていた?」

 男女に分かれて眠ろう…、と言うとき、マリエルが聞いた。

「ああ、特に『水底に眠る月』の詩はよかった。」

 ロッシュが答えると、マリエルは微笑んだ…。美しい笑顔…、それが永遠にそこにあるのだと、ロッシュは思い込んでいた…。

 永遠は突如として途切れた…。翌日の解体作業中、完全に「死んでいる」と思われた「遺物」の、予備動力が作動して、「遺物」の中にあった、古く、腐敗した「悪魔の血」が、砲弾として発射された…。それが運悪く、マリエルの胴をつらぬいてしまったのだ。

「マリエル!」

 自分が悲鳴を上げたことが、ロッシュには不思議だった…。マリエル、マリエル、マリエル…、でももう頭の中は、マリエルのことでいっぱいで、転げるようにして、倒れこんだ彼女のもとにかけよった。

 周囲が応急処置を試みようと騒いでいる中、ロッシュはマリエルの上半身を抱え起こし、その手を握った…。

「マリエル、ああ…、マリエル…。」

 天使の超回復力の敵は、まさに悪魔の血に大量に含まれる、陰性霊子である。胴に空いた大きな穴を見て、マリエルはため息をついた…。傷は全く再生せず、悪魔の血は腐敗したことで、奇しくもその威力を増していた…。

「ロッシュ…、私のことは、忘れてしまってかまわない…。私は、あなたを尊敬しているけれど、ただ、あなたには、『心』が足りない…、そんな気がするの…。私も…、誰かを『愛する』と言うことについて、深く、学んでみたい…。」

 天使の肉体は、人間や悪魔の肉体と違い、ずっと霊質に近い。その魂の抜けたマリエルの肉体は、ほかの天使が死を迎えたときと同じく…、無数の羽根と化して風に舞い…、その羽根も、光の粒に溶けて、消えてしまった…。


 死は終焉ではなく、新たなる旅立ちである…。マリエルの肉体は消滅したが、魂は生き通しで、ちゃんと存在している、どこかに…。

 そう、天使はある程度自分の「死」をコントロールできる…。そのため、天使の魂が、死後、どこにあるのかは基本的に追跡できない。

 どこかとは、どこだろう…。マリエルを失って…、マリエルとは、結婚しない、自分はただ、出世にのみ生きる、そう思っていたロッシュの心に、言い知れぬ「寂寥」が宿った…。

 マリエルはロッシュに、「心が足りない」そう伝えて去ったけれど…、今、そのロッシュの心は、こんなにも悲しみをたたえている。そのことを、マリエルに伝えたい…。

 事故とはいえ、マリエルは「悪魔の血」に触れ、穢れてしまった。また天使に生まれ変わるとしても、一時は天国あたりで静養が必要だろう…。ロッシュはそう考えて自分を慰めようとした。

 マリエルはまた天使に生まれ変わる…。そうして、五十年がたち、百年がたち、二百年がたった…。ロッシュは寂寥にむしばまれながら、マリエルの最後の言葉について考える…。

 誰かを、愛するということについて、学びたい…、そう彼女は言った。もしや、自由恋愛が主流の、物質世界で、人間として暮らしているのではないか…。

 そう思いいたった時、ロシュフィエルに、物質世界で、人に干渉しようとする悪魔を、排除しないか、と言う任務についての相談があった…。

 この任務は、物質世界に精通した、天使…、守護天使ともいう、や、その一つ上の階級の、大天使などが行っていたが、時々、こうした悪魔の中に、上位階級の者が混じっていて、天使たちも危険にさらされていた…。

 あまり…、出世コースとは言えない任務なのだが…、ロッシュは、物質世界を、この目で見てみたくなった…。

やがて天使庁が正式に設立され、「出向組」と呼ばれる、天使庁で悪魔の動向を探る天使の一群が組まれると…、ロシュフィエルは、マリエルの転生が確認されるまで、物質世界に残ろう、と決めた。

 そうしていつも考える、「心」とは…、「愛」とは…。自分自身で驚いている。自分が、こんなにもマリエルを愛していたこと…、そして彼女を失った喪失感…。この気持ちを、マリエルに、マリエルに伝えたい…。


 私立伊勢崎学園高等部、A棟の屋上で…、学園一の美少女で、学年でも十指に入る成績優秀者とはいえ、ただの人間の青柳桃李が…、天使、ロシュフィエルから、「君は前世、天使、マリエルだった」、と告げられた…。

 そしてそのロシュフィエルは、しきりとマリエルへの愛の言葉を繰り返している。対して桃李は…、今世紀最大の間抜け面をさらすしかなかった。

 前世と言う言葉さえ、ピンと来ない。三十年前に天使が現れ、人の魂は輪廻転生を繰り返す、と説いたから、何となくそうかなぁ、とは思う。

しかし、前世の記憶は基本的になくなってしまうのだから、結局、人生は一度きり、「青柳桃李」が死ねば、もう「青柳桃李」はどこにもいない…。詩的な言い方をするなら、人の心の中に残るのみ…、とでも言ったところか。

自分が天使、マリエルだった…、天音の、婚約者だった…。どう反応したらいいのだろう。混乱する桃李にかまわず、天音は彼女の手を握った。

「事件の現場である、この学園で出会えた…。これはきっと運命だ。この件には、かなりの大物がからんでいると、私は見ている。」

 天音の目は真剣で、そしてとても美しい…。このまなざしが、三百五十年前…、桃李に、マリエルに注がれていた、と言われても…、何も、何も覚えていない…。

「この事件を、ともに解決し、功績を立ててともに天界に帰ろう。そして…、結婚しよう。」

 は…、今、プロポーズ、され、た…。

「なぜそんな呆けた顔を…、いや、何も覚えていないのだったな、驚くのは、無理もないのか…。だがすぐに思い出す。生まれた時から、何をするにも一緒だった、私たちの思い出の日々を…。」

 天音が翼をわずかに動かして、そこから一枚、羽根を抜いた。翼は光の粒となって消え…、天音の頭の上にあった、光の輪も消えている。

 抜いた羽根を軽くふると、それは一瞬にして、プラスチックでできたカードそっくりになった。銀色のカードの表面には、羽根のレリーフが浮き上がっている…。

「人間に身をやつしているとはいえ、元は天使だ、君の魂のレベルは高い…。悪魔はそういう人間を、より好む。君の身の安全のために、このカードを渡しておく。」

 天音が差し出すのを、桃李は両手で受け取った。元が一枚の羽根だったとは思えない…。感触はプラスチックより、金属に近かった。

「このカードに、『ロシュフィエル』と呼びかけてくれれば、どこでも、いつでも、私が駆け付ける。用心に持っておくといい。」

 桃李の頭の中で、天音、ロシュフィエル、マリエル、前世、婚約、結婚…、と言った言葉が、ぐるぐると回り、考えが…、何もまとまらない。

「またゆっくり話そう。私も捜査を開始するが…、君はとりあえず、満瑠のサポートをしてくれ。報告書には、君の功績を大きく書いておかないといけないな…。う…ん…、何か武器になるものが必要か…。」

 桃李の手を放し…、軽く肩をたたくと、天音はぶつぶつ言いながら、屋上の扉を開けた。満瑠の静止でかろうじて押しとどめられていたやじ馬たちだが、天音が姿を見せると、その威厳にさっと道を開いた。

「ロッシュ!」

 満瑠が声をかけると、天音はちょっとふり返った。

「満瑠、情報収集を始めてくれ、『青柳桃李』と一緒に、な。」

 やじ馬の一部が、満瑠の横をすり抜けて、小走りに桃李のもとへ近づいた。

「天使様、なんだって?」

「どうして青柳さんだけ呼ばれたの?」

「もしかして、行方不明になった生徒のうち、男子二人って、成績優秀者だったじゃない。そのことで、何か?」

「まさか天使様も、青柳さんが美人だから、話したかった…、なんてわけないよね。」

 頭の中をぐるぐると回る単語の群れを、桃李は、なんとか脇に退けた。

「あ…、えっと、た、大した話じゃないのよ。事件について知っていることはないか、とか、あと…、こ、校舎を、あとで案内して欲しい、って…。」

 まさか自分が天使の生まれ変わりで、天音にプロポーズされた…、などと言ったら、正気を疑われるのではないか…。

「事件の捜査については、極秘です。必要があれば、天使庁のほうから皆さんに情報提供していきますので、天使様の動向について、あまり詮索しないでください。」

 満瑠がやじ馬たちと桃李の間に割って入る…。

「青柳桃李、さん?僕も後でちょっと、お話しさせてもらっていいかな?」

「あ、はい…。」

「あまり、構えないでいいよ。僕も皆さんと同じ…、十七歳なんで…。気軽に…、そう、満瑠、と呼んでくれれば…。」

「あ、うん…。」

後でと言わず、今、一番話したい相手はこの弦巻満瑠だ、と桃李は思った…。彼なら何か知っている、天使庁職員で、白魔術師の彼なら、きっと…。

二時限目になると、天音はふいっとどこかへ消えてしまい…、満瑠はずっとノートパソコンをいじっている。警察から提供された、事件の概要を見ているようだ。

昼休みになったら、校舎を案内してもらいながら、二人で話そう…、と満瑠は言った。もう桃李は、午前中の授業など、何も頭に入ってこなかった。一方的に話すだけ話して…、どこかへ行ってしまった天音を、恨めしくさえ思った。


 昼休みになった。

「青柳さん、お昼一緒にいいかな?できれば、どこか人の少ないところがいいんだけど…。」

 満瑠が話しかけてきた。桃李は内心、待っていました、と飛びあがりたい気分だった。もう心が乱れて乱れて…、収拾がつかない。

「きゅ、旧校舎のほうなら、ほとんど人がいないから…、そっちで食べよう?」

 いつもお昼を一緒に食べている友達に断って、桃李は満瑠と教室を後にした…。

「行方不明になってる大渕悠真くんと、藤沢修吾くんて、青柳さんと同じ…、学年トップクラスの、成績優秀者だったんだね。でも、青柳さんと接点は、ない…。」

「あ、うん…。A棟とB棟は、生徒同士の交流ってほとんどなくて…。教科担当の先生も別々だったり…。」

 この話は刑事にもした…。大渕悠真、藤沢修吾、名前だけは、期末テストなどの後に張り出される、成績順位表で知っている。大渕とは…、何度か顔を合わせたこともあると思う。

 だが藤沢は…、小学生の時のいじめが原因で、クラスなどの集団が怖くなってしまい、保健室登校をしている子だ、と聞いた…。会ったことはない。

「こんな言い方なんだけど…、悪魔も、優秀な『奴隷』が欲しいんだ。だから、知能、身体能力が優れている人、なんかは狙われやすい…。」

 満瑠ちょっと眉根をよせた。

「容姿が美しい人…、魂魄のレベルが高い人なんかも狙うね。レベルが高い人を『堕落させた』と言う事実がハクになるみたい…。」

 青柳桃李と白魔術師だ…、とささやく人々の視線を抜けて、二人は旧校舎までたどり着く。こちらでは現在授業は行われておらず、もっぱら教材の保管、またはマイナーな部活の部室代わりに使われている。

 桃李はたまりかねていった。

「あの…、満瑠くん、天使様が…、おかしなことを言うの…。私は、前世で『マリエル』と言う天使で、その、天使様の婚約者だったって…、」

「ええ!君があの、ステラ・マリエルの生まれ変わりなの?」

 桃李の気持ちとは裏腹に、満瑠の顔がパッと明るくなった。

「ロッシュ、喜んだでしょう!彼、いつもステラのことばかり話してるよ!オーラの綺麗な子だなぁ、とは思ったけど…、そうか、青柳さんは…、」

 桃李の困惑顔に気づいて、満瑠は言葉を切った。

「…ごめん、何も覚えていないんだね?」

「うん…。」

「こんなこと言ってもしょうがないんだけど…、ロッシュは、本当にいつも、ステラのこと話してる…。どんなに楽しい思い出話でも、結びはいつも同じなんだ、『自分が、バカだった』って…。」

 旧校舎の空き教室を見つけて、二人は並んで座った。窓の外は初夏のにおいと光で満ちている…。

「あの自尊心の塊みたいなロッシュが、『反省』してるんだ…。ステラが隣にいることを、当たり前だと思ってたって。なぜ大切なものは、失うまで気づかないんだろう、自分は本当に愚かだ…、って…。」

 自尊心の塊、と言う言い方がおかしくて、桃李は少し笑った。

「…天使様のこと、ロッシュって呼ぶんだね。」

「うん…、ロッシュが、そう呼んでいいって…。付き合いももう、五年になるし…。」

 桃李は母のお弁当、満瑠はパン屋で買ってきたサンドイッチなどを膝の上に広げる…。

「満瑠くんは、いつから白魔術師の勉強してるの?」

「それが、五年前なんだよね、僕、『新潟県X市事件』の、生き残り。」

「あ…、」

 桃李は戸惑う…。触れて欲しくない話題だろうか…。

「いいんだ、この話になると、皆引くから、逆に聞いて欲しい時もある。」

 満瑠がほほ笑む…。

「僕だけが無事に、生き残ったよ。父の形見と、駆け付けてくれた、ロッシュのおかげ…。」

 満瑠はそう言うと、襟元を少し広げて、首に下げたペンダントを取り出した。

「僕の両親…、僕が六歳の時に事故で亡くなってね。虫の知らせかな…、ちょうどその事故の前の日、父がこのペンダントを僕にくれたんだ。お守りだから、いつも身に着けていなさいって…。」

鎖を外し、桃李のてのひらにのせてくれる。変わったペンダントだ…、かなり大きな、六角柱の水晶に、数字が刻まれている…。

「それ、『太陽の魔法陣』の護符なんだ。六かける六のマスに、その数字を並べると、縦横斜めの合計が、すべて百十一になる…。あまりに強力だから、逆に『悪魔の数字』と呼ばれることもある…。」

 聞いたことがあるような気がする…、古い映画か、小説だろうか…。桃李はペンダントを満瑠に返した。

「それを身に着けていたから、アブラクサスも、僕に手出しできなかった。僕はふるえていることしかできなかったけど…、そこにロッシュがさっと現れてね…。今でも思い出すよ…、暗闇に光がさして、白銀の翼が目の前に広がったのを…。」

 満瑠は、桃李に…、自分も同じ十七歳だから、と言ったけれど…、彼はすでに、いくつもの苦しみ、悲しみを乗り越えている。

 両親の死…、孤独…、悪魔の襲来…、クラスメイトの死…、そしてまた孤独…。それが一人の優秀な白魔術師を育てるための試練なのだとしたら…、あまりにも重すぎないか。

「ロッシュはね、僕のヒーローなんだ。」

そう言って笑う満瑠は…、重い荷物など、背負っていないかのように見える。

「白魔術師になるよう、勧めてくれたのもロッシュなんだ。天使庁に入庁して、中学、高校の勉強は、主に通信制で学んだ。また、悪魔現出の事件現場とはいえ、学校に来れるのはうれしいよ。」

「事件は事件として…、満瑠くんが、楽しい学園生活を送れるように、力になれることがあったら、何でも言って?」

「はは、学園祭、体育祭、修学旅行…、何にも知らないからなぁ。その…、まずは、友達になってくれたら、うれしいけど…。」

「もちろん!私たちもう、友達だよ!」

桃李は思わず満瑠の手を取った。

「ありがとう…。」

 満瑠が照れくさそうに笑う。その時、何か電子音が鳴った…。聞きなれない、でも美しい音だ…。満瑠がポケットを探り、一枚のカードを取り出した。

 それは、天音が桃李にくれた、天使の羽根のカードと同じものだ。左の端が点滅して光っている。満瑠はそこを押して、カードを耳に当てた。

「もしもし、ロッシュ?」

 え…、桃李はちょっと驚いた…。天音は、「カードに呼びかければ、自分が現れる」と説明していたが、通話機能もあるのか…。

桃李が一人の時に、天音から通信が入って、また一方的に、「マリエルの生まれ変わり」として扱われたら、どうしたらいいだろう…。ちょっと怖い。

満瑠はしばらく天音と話していたが、やがて通話を終えて、桃李にむきなおった。

「ロッシュも今、旧校舎にいるって。旧校舎の地下倉庫ってわかる?」

「あ、たぶん一階の端の…、非常口の近くに、確か階段が…。」

「じゃあ、お昼食べちゃって、ロッシュと合流しよう。何か見つけたみたい。」

 もう事件に進展があったということだろうか…。二人が来てまだ半日だというのに…。でも桃李は、内心「ちぇっ」っと思った…。

 もう少し、満瑠と二人でいたかった…。どうして、そんな風に思うのだろう…。満瑠と出会って、まだ半日…。そして、天音と出会って、まだ半日…。

もう、天使様に、苦手意識を持ってしまっている…。誰とでも、分け隔てなく接したい、それが桃李の理想なのだが…。


 昼食を終え、二人で地下倉庫へむかう…。地上階は陽光も届き、照明も充分にあったが、地下は照明が少なく、薄暗い…。

 地下階には倉庫が一室あるだけなので、天音がどこにいるかはすぐわかった。満瑠が丁寧にノックしてから、扉を開けた。

 薄暗がりの中で…、天音自身が、発光している…。明るいところでは気が付かなかったが、天使と言うものは、このように常に光に包まれているようだ。

「マリエルも一緒か、ちょうどいい。満瑠、ここが『現場』だ。」

 現場…、失踪事件の、現場、と言うことか…。倉庫にしては、物がほとんどない。こんなところは、不要品であふれていてもおかしくないが…。

「悪をたくらむ者は、よくこのような場所を好むな…。」

 天音はふん、と馬鹿にしたように、鼻で笑っている…。満瑠が短く、何か唱えて、両手の指を合わせて、三角形を作る。

 そうしてその三角の窓から、倉庫を見渡して…、満瑠が、息をのむのがわかった。満瑠は今、白魔術を使っているのだろうか…。桃李にはよくわからない。

「何か見えるの?」

 そう言って桃李は、満瑠の指の間の空間をのぞこうとした。

「だめだ!見ないほうがいい!」

 満瑠はやや大きな声を出し、すばやく指を解いて、手を自分の背後にまわす。何が見えたのだろう…。桃李が戸惑っていると、天音が、何か面白いものでも見つけたかのような声で言った。

「どこかで見たような魔法陣が見えるぞ。そして馬鹿な人間どもが、ここで乱交におよんだ。一人の女が、自分自身を生贄とするため、男に首を絞めさせた…。死後、首は斬り落とされている。」

え…、悪魔がらみの、失踪事件ではなく…、人間が、故意に、悪魔を呼び出した、と言うこと…。魔法陣、乱交、生贄、絞殺…、それらの言葉が、桃李の胸に重苦しく沈んでいく…。

「そしてこの独特のにおい…、満瑠は覚えがあるだろう?五年など、瞬きする間に過ぎるというのに、せわしいことだ。」

 満瑠はうつむき、青ざめている…。

「同じだ、世間が『新潟県X市事件』と呼んでいる、あの件と同じ…。この下卑た臭いは、またもアブラクサスのご登場だ!」

 桃李は、満瑠に何か声をかけようとしたが、何も思いつかず…、天音が告げた「事実」…、この場所で、人が一人殺された、そして悪魔が現れた…、と言う事実に、ぞっとして、震えが来た。

 どこかに救いを見出そうとして、桃李はあたりを見まわす…。だが、壁際の棚の上にポツンと、「降霊術同好会・四分の三オンスクラブ」と書かれたホワイトボードが見えただけだった。


 めまいがした。





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