第19話 聖女様
ある日の午前中。
仕入れのために市場に寄った帰りのことだった。
噴水のある中央広場に何やら大勢の人々が集まっているのが見えた。
歓声が巻き起こり、物凄い熱気に包まれていた。
「おお……凄い盛り上がりだ」
何かあったのだろうか?
思わず足を止め、野次馬の一人に加わる俺。
様子を伺おうとするが、人垣が多くて状況がいまいち掴めない。
ならば誰かに尋ねてみようかと思い、周りを見回した。
するとそこで、野次馬の中に見知った顔を見かけた。
「やあ、フィーネ」
「あっ、アスクさん。こんにちは」
「珍しいな、こんな朝早くに」
普段、フィーネは朝に弱い。
昼まで寝ていることもざらだ。
それがこんな早い時間に目が覚めているのは珍しい。
「テレシア様が今日、巡礼の旅から街に戻られるって聞いたので。これはもう絶対に一目見ねばと思って頑張って早起きしました」
「テレシアって言うと確か……」
「純白の聖女様ですよ、聖女様」
フィーネは鼻息を荒くしながら言った。
「今まで誰も成し遂げたことのない千日巡礼行を十八歳の時に達成した、ヴァージニア教の聖女様です」
聞いたことがある。
千日巡礼行。
それは大陸各地にある巡礼の地をひたすら徒歩で巡り続ける荒行。
雨の日も嵐の日も、病や怪我に襲われても、一日たりとも休むことなく、十年間ずっと巡礼を続けなければならない。
その過酷な行程を成し遂げた者は、ヴァージニア神の祝福を受けることが出来る。
テレシアは唯一の達成者だった。
人垣が崩れると、その隙間から広場の様子が窺えた。
中央に純白のローブを纏った女性がいた。
彼女がテレシアなのだろう。
一目見た瞬間、思わず息を呑んだ。
美しかった。
腰にまで伸びた白銀の髪も、完璧に整った顔立ちも、透き通るような白肌も、すらりと伸びた手足も、纏っていた清廉な雰囲気も。
全てが洗練されていた。
まるで天上から舞い降りてきた女神のようだと思った。
「皆さん。私を出迎えてくださり、ありがとうございます」
純白の聖女――テレシアは完璧な微笑みを浮かべると、広場に集まっていた野次馬たちに向けて小さく手を振って見せた。
「テレシア様……ふつくしい……!」
「あまりにも清楚すぎる……」
「俺たちのような下々の民にも慈愛を与えてくださるとは」
男たちは恍惚とした面持ちを浮かべていた。
「まるでアイドルみたいな盛り上がりだな」
「テレシア様は神様に貞操を守ることを誓った身ですから。男の人からすると、安心して推すことができるみたいですよ」
「なるほど」
誰かに取られる心配がないからということだろう。
信頼があるわけだ。
「熱狂的な信者の人たちはユニコーンと呼ばれてるらしくて。テレシア様のためなら命を投げ打つことも厭わないとか……」
「それは何というか、過激だな」
「テレシア様、ほんと素敵だな~。とっても綺麗だし、自分にストイックだし。煩悩とか全然ないんだろうなあ」
フィーネは憧れの眼差しを向けていた。
「私もテレシア様みたいになりたいな~」
「じゃあ、まずは早起きするところから始めてみたらどうだ?」
と俺は提案した。
「取り敢えず朝の九時には起きてみるとか」
「うひぃ~。じゃあ無理だぁ~」
「いや諦めるの早すぎるだろ」
あと、九時はそんなに早くないだろ。
普通の社会人はその時間には皆起きてるぞ。
☆
テレシア=フローレンスは教会に巡礼の旅の報告を終えた後、帰路につこうと街の通りを静粛に歩いていた。
すると向かいから、若い男女が歩いてきた。
カップルなのだろう。
互いに身を寄せ合いながらイチャイチャとしていた。
「お前が一番だぜッ☆」
「やーん。私もちゅきー♪」
「…………」
テレシアは涼しげな面持ちのまま、乳繰り合う若いカップルの前を通り過ぎる。まるで何事もなかったかのように。
しかしその胸中は穏やかではなかった。
――う、羨ましい~~~~~!
――いいなあ~~! 私もあんなふうに恋人とイチャイチャしたいな~! 腕を組んだり愛を囁いたりした~~い~~!
湧き上がった煩悩を、しかしテレシアは頬に平手をして律した。
――ダメダメダメ! いけません! 私は神に純潔であることを誓った身。そのような煩悩は捨て置かなければ……!
テレシアはヴァージニア神との間にいくつもの誓約を交わしている。
純潔の誓いはそのうちの一つだった。
彼氏を作ったり、姦淫するようなことがあれば、祝福を取り消された上、聖女の身分を取り消されて教会を追われかねない。
――聖女としてふさわしい振る舞いをしなければなりません……!
――けれど、羨ましいものは羨ましい……!
孤児だったテレシアは幼い頃から修道院で過ごしていた。
修道院の戒律は厳しく、年頃の者がするような遊びは一切通ってこなかった。
千日巡礼行を終えた後は聖女としてふさわしい振る舞いを求められ、二十歳の今に至るまで品行方正な生活を送ってきた。
聖女と言えども所詮は人間。
人並みに欲はある。
というか、これまで抑圧されていたせいで、常人以上に煩悩はあった。むしろ煩悩塗れと言っても過言ではなかった。
テレシアは尋常じゃないほどの欲求不満だった。
――取り敢えず、夕食をいただきましょう。
巡礼の旅の道中は清貧な食事ばかりだった。
堅焼きパンと野菜と豆ばかりだった。
――今日くらいは少し美味しいものを食べてもバチは当たりませんよね。
石橋の近くを通りがかった時、何やら匂ってきた。
――何でしょうか、この異様な匂いは……?
それは鼻を突くような強烈な匂いだった。
異臭と言ってもいい。
けれどなぜか心惹かれるものがあった。
匂いの源泉を辿るように視線を彷徨わせると、石橋の高架下――水路の傍に一軒の屋台が明かりを灯していた。
――あれは……屋台?
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