独り言の多い男と無口なクリスマスイブ

Eika・M

新宿駅南口

「ん?」

 アメリカンクラブハウスサンドみたいに分厚い靴底がウェハースの心もとない感触を踏んだ。間引きされた仄暗い照明の下で男の息が白く輝いていた。新宿高島屋デパート地下食料品売場。その一角にある輸入菓子コーナーの前で漣拓緋さざなみたくひは立ち止まりブーツにつぶされた包み紙を見下ろした。

「おかしい」

 男の声に若干のエコーが掛かるのは広いフロアに彼独りしかいないせいだ。それどころか現在世界には彼しか存在していない。グローブをはめた彼の指が無精髭をさすっていた。腕まくりした肌には無数の傷跡。腕だけじゃない。顔も防寒着に包まれた身体も全身傷跡だらけだった。男は足元を見て考える。なぜ床にチョコバーが転がっているんだ。単なる記憶ちがいでもともと床に落ちていた可能性はあるだろうか。

「いや」

 視線が床から壁へと移っていく。前回おなじ場所を歩いたときには視線の先にある壁に大量のチョコバーがディスプレイされていた。パッケージが味の違いで色分けされているのを利用してタイル画風のクリスマスツリーに見立てていたのだ。だが今それは瓦解して床に散らばっていた。

「地震で崩れたか」

 しかしそこまで大きなものは最近なかった。崩れるならもっと前に崩れていたはずだ。やおら腰をかがめて転がる1本を拾う。やはりおかしい。壁に積み上げられていた数と転がっている数を比べるといまのほうがはるかに少ない。

 突然男の思考にぬめりとしたししむらのイメージが差し挟まれて男はたまらず表情を歪ませた。まさかあの爬虫類どもがここまで侵攻してきたのか。男は爬虫類が苦手だ。10m離れていても見つけると飛び上がって逃げてしまう。しかし爬虫類が高島屋に侵入するのは現実的ではない。冷静になれと己を鼓舞する。

「スイーツ好きのトカゲだって?」

 そもそも奴らは冬眠中。しかし本当に冬眠するのだろうか。あの大トカゲは自然の摂理から外れているようにも見える。人工的で現実感に乏しい。

「いや違うな」

 緊張感が高まるのを鼓動で感じる。

「そっちじゃない。むしろ」

 まるで右手でナイフの刃先を、左手で柔らかいタオルケットを同時に握りしめているかのように心が動揺した。地震の可能性は低い。爬虫類や両生類や鳥や虫の仕業でもなさそうだ。だとすると。

 やおらバックパックに吊るされたフラッシュライトを握りフロアの隅々まで光の視線を走らせた。鼓膜が物陰に隠れているかもしれぬ何者かを捕らえようと研ぎすまされる。しばらくのあいだ静寂と格闘したあと漣はこのフロアに人間は居ないと判断した。フラッシュライトを離した手でコートのポケットをまさぐる。角の潰れた手帳を開くと指が任意の1行をなぞった。本当をいえばわざわざ確認するほどのものでもない。前回訪れたのは2週間前。5メートル先も見えない吹雪の午後だった。一度吹雪で遭難したことがあるので それを教訓に車の運転も徒歩での遠出もさけるようにしていた。なのでその日は遠出の代わりにワシントンホテルまでの短い距離を風雪をかき分けて歩くだけにとどめた。ホテルに入ってしまうと全身の雪をはたいて、それから地下道に続く階段を降りた。蜘蛛の巣のように張り巡らされた新宿地下道は北は新宿御苑そばまで、東は代々木駅の鼻先まで、西は東京都庁や歌舞伎町、そして南は渋谷区との境界線付近にあるワシントンホテルにまで拡がっている。まさに迷宮だ。かつてそこでは群衆が絶え間なく変化する点描画となっていたが現在では漣以外に人の姿は無く、冷えた空気に音さえ忘れ去られているありさまだった。階段を降りきると都庁方面には行かず右に曲がってゆるやかなスロープをくだる。さらに突き当りを右に曲がり、そこから鏡張りの地下道を歩き続けクリスマスセールに彩られた地下商店街を通り抜けた。そこまで来ればもう新宿駅の範囲内だ。西口のロータリーは雪で埋まっているので一旦デパートにあがって上下左右と迂回しながら無人のJR駅改札を擦り抜けた。人が存在していた時代には世界で最も利用客の多かった駅。1番ホームから16番ホームへと横切るように進んでいく。そうしてやっと高島屋デパート地下出入口に到着した。晴れた日なら車で甲州街道を5分。その道程を1時間掛けた。そのことを漣はよく記憶している。あの日から半月が経過していた。仮に人間がデパートに出入りしたとしても足跡が残っている可能性は低い。それでも何か手掛かりを見つけられるかもしれない。当初の予定を変更して人の気配を探しにデパート探索をすることに決める。おもむろに手に収まったチョコバーのパッケージをやぶいてみる。異臭は無し。かじってみる。味にも劣化はみられなかった。

「うん。たまにはチョコレートも悪くない」

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