今日はそういう日

「こちらこそ。宜しくお願いします」


 女性は深々と頭を下げて部屋へと戻っていった。

 入居したときから空き部屋だった隣の部屋に引越して来たそうだ。


「誰?」


「うん。お隣に引越して来た人が挨拶に来てくれたの」


「へえ。今どき珍しいね」


「そうだね。あっ、リボンが付いたバスタオルだ。可愛い」


「おお、流石はタイミング良い子ちゃん。俺の為にバスタオルが舞い込むなんて」


 私の事を『タイミング良い子ちゃん』と呼ぶ彼は、自称『最悪のタイミング男』。

 私と会う度に全ての事が上手く行かないと、いつも嘆いている。

 バスタオルを喜んでいる理由は、彼が今日家に来た目的だから。

 夏頃から調子が悪かったアパートの給湯器が壊れてしまったそうだ。

 修理不能で入替は明日以降になると言われ、私の部屋にお風呂を借りに来たという事。


「ここに来るまでも最悪だったからなぁ。このジャケットもさぁ」


「さっき聞いたよ」


「はいはい。タイミング良い子ちゃんには分からない苦労なんです」


 出かける準備をしていると、ジャケットが埃塗ほこりまみれだったらしい。

 粘着テープのコロコロで埃を取ろうと、床掃除で汚くなったシートを剥がそうとすると最後の一枚。

 ジャケットを諦めて家を出たら凄く寒くて、駅へと急ぐと全ての信号に掴まったそうだ。

 彼はいつもそうだと言う。

 急ぐとき信号は赤ばかり。逆に止まって電話を掛けたい時は到着するまで青が続く。

 傘を置いて行けば雨に降られ、持って行けば晴れて何処かに傘を忘れて来る。

 目覚まし時計の電池が切れるのは、寝坊出来ない日の前日で替えの電池は無い。

 俺の人生は本当にタイミングが悪いことばかりでイライラすると、いつも私に嘆く。


「本当に君はタイミング良い子ちゃんだよね。俺は最悪。羨ましいよ」


 彼の愚痴の最後に必ず言われるこの言葉。

 いつもは黙って聞き流すけれど、今日は話したいと思った。

 最近、彼がとても辛そうな顔をしていたからかも知れない。

 

「ねえ。私はいつだって視界良好でタイミングばっちりだと思ってる?」


「まさにそんな感じ。君と一緒に居る時だけはタイミング良い事ばかりだよ」


「そんな訳ないじゃない。上手く行かない日は『今日はそういう日なんだ』って思う様にしているだけ。もちろん、それでも上手く行かない日もあるけれど、イライラしたり嫌な気持ちにならなくて済むもの」


「いやいや、君はきっと幸せな人生を送って来ただけだよ。恵まれた人だね」


「違うよ。私の話を聞く?」


 それまであまり話した事が無かった自分の話。

 最悪の労働環境だった会社。

 深夜まで終わらない仕事、急かされる日々、休日の前日に舞い込む依頼、休日出勤の連続。

 休む間もなく働き続け、上手く行かない事ばかりでイライラする毎日。

 そのまま数年務め、体を壊して退職した。

 会社を辞めてホッとできるかと思っていたら、不安定なアルバイトで過ごす日々に社会から取り残された気がして、焦って更にイライラするばかり。

 そんな時に学生時代の先輩に自分がいかに不幸なのか愚痴を聞いて貰った。

 その時の先輩の言葉で考え方が変わったのだ。


「結局、自分でイラついているだけでしょう。大切にしないといけない事と、自己満足の執着をはき違えているのよ。ダメな時は直ぐにリセットすれば良いだけよ。『ああ、今日はそう言う日なんだ、今はそんな時期なんだ』ってね。それでも解決できない時は、会社でも何でも辞めちゃえば良いし、余計なこだわりは捨てちゃえば良いのよ。幸せは突き詰めるものじゃないのよ」


 その話をしても彼には響かなかった。

 

「簡単に会社なんか辞められないし、背負うべき責任が違う。俺が必死に頑張っているのは君との……」


 喧嘩がしたい訳じゃ無いから、それ以上は言い返さなかった。

 ここだけ切り取ると、彼は駄目な人に見えるかもしれないけれど、私は彼の事が大好き。

 彼が必死に頑張ってくれているのは、私との結婚資金を貯めているからという事も知っている。

 でも、闇雲に無理をして、彼が最悪の人生を送っているとは思って欲しくない……。


「あのね、私のお願いをひとつだけ聞いて。明日の通勤は三十分だけ早く家を出て、いつもと違う道で会社までゆっくりと行ってみて」


「うーん。面倒くさいけど分かった」


 彼はお風呂に入ると終電で帰って行った。

 学生の時に独り暮らしの条件として、厳しい父から男性の宿泊は禁止されていた。

 もう社会人だし関係ないのだけれど、約束は数回しか破っていない。

 翌日の夕方、彼からメッセージが届いた。何となく思う所が有ったそうだ。

 それから、彼は少しずつ変わって行った。




 隣の女性はとても静かに生活をする人だった。

 週末は居なかったり、時々男性が訪ねて来て、楽し気な話し声が聞こえてくる程度。

 週末に彼に会いに行き、数ヶ月に一度彼が訪ねて来たりと、遠距離恋愛でもしているのだろうと勝手に想像していた。

 そして、とある小春日和の日に洗濯物を干していると、外から声が聞こえて来た。


「……ハルくん。これで荷物最後だよ……分かった。じゃあ出発しようか……うん、お隣に挨拶してくるね……」


 呼び鈴が鳴りドアを開けると、お隣さんが笑顔で立っていた。


「一年しか経って居ませんが、引越す事になったので、ご挨拶に」


「もしかして、ご結婚ですか?」


「ええ、彼が転勤で遠距離だったのですが……」


「わあ。おめでとうございます」


 お隣さんは笑顔で会釈をすると車に乗り込んで行った。

 駐車場の脇にある梅のつぼみがほころび白い花を咲かせている。

 春は直ぐそこまで来ている……。




「初めまして。お嬢様とお付き合いさせて頂いておりま……」


「娘を宜しくお願いします。至らない所ばかりかとは思いますが」


 彼が言い終わる前に父は頭を下げてしまった。

 結婚など絶対に認めないと言っていた父とは同じ人とは思えない。


「あ、はい。もっと早くご挨拶にと思っていたのですが、新しい会社に慣れてからと思いまして」


「まあまあ。貴方はタイミングが良い人ね」


 横から母が話に割り込む。母はいつもそんな感じだ。


「先月だったら、この人『許さん!』とか言っていたかもしれないわよ。実は健康診断の結果が芳しく無くてね……まあ、大したことでは無いのよ。それでね、この娘の結婚の事とかが急に心配になったらしくてね。最近そんな話をしていた所なのよ。この娘ったら昔からタイミングが悪くてねぇ……」 


 タイミングとか関係ない。思い返せば『今日はそういう日』『余計なこだわりは捨てちゃえば良い』の積み重ねが幸せを運んで来てくれている。

 まさに絶妙のタイミングで……。

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