第41話 結婚

 日曜の晩ごはんを食べてから僕は一人で帰って行った。これからやることが多くなって忙しくなる。結婚式はするのかしないのか、まだ何も遼子と話していないけれど、とりあえず、住むところをどうにかしないといけない。一人だからどこでもいいと言う気持ちでいたけれど、遼子と一緒に住むには不都合だ。できれば平家の一軒家を借りられたらいいな、もしくは中古物件だったら将来リフォームして遼子に住みやすい家に変えれるかもしれない。

 そんなことを考えながら、夜の街を歩く。冷たい風が頬を刺すが僕は少しも寒くなかった。仕事のことも考えるべきことがあったけれど、とりあえず、遼子とのことを最優先で動くつもりだ。今までの時間を考えるともうこれ以上時間を取られるわけにはいかない。


 月曜日は雨だった。僕は早めに来て、家中に掃除機をかける。子ども達も帰る際にはモップかけたりしてくれているけれど、僕も朝一で時間を取れる時は掃除機をかけて、トイレ掃除を済ませる。そうしていると、南友梨が来た。

「おはようございます」

 いつもと変わらない笑顔で挨拶をしてくれる。

「おはようございます。雨、大丈夫でしたか」

「激しくないですけど…今日一日、ずっと降りそうです」

「今日は外に出られないから、みんな退屈しますね」

「…新田さん」

「はい」

「私、もう大丈夫です」

「…よかったです」

「またよろしくお願いします」と言って、頭を下げた。

「あ、南さん、アクスタとかいうの持ってきてください」と僕が言うと、一瞬固まって、その後、弾けるように笑い出した。

 そして鞄から取り出して「これです。毎日、持ち歩いてるんです」と僕に見せてくれた。小さなアイドルが印刷されたアクリル板だった。

「これを机に飾ったりすると、癒しになりますよ」

「なるほど、なりますね」

「ふふ。嘘つきですね。新田さんがなるわけないじゃないですか」と言って、鞄にしまった。

 そして駆け足で二階に上がって行った。

 

 朝から電話が鳴ったので、出ると西川晶子だった。

「私のおかげで再会できたんでしょ?」

「…ありがとう。お歳暮送ろうか」

「お歳暮はいいけど、結構、前の記事が反響あったのよ。だから他の雑誌でも取材させてほしいって。それからあの洋画家の倉田遼子と結婚するんだったら、そっち系の雑誌でもいい夫婦とかで話が聞けたらいいんだけど。感動じゃない。三十年後の出会いって」

「それは断る」

「じゃあ、とりあえず、スクールの取材行かせてくれる?」

「分かった」

 日時を聞いて、受話器を置いた。取材は面倒だとは思ったが、確かに西川晶子のおかげで遼子とも再会できたから、感謝している。あの雑誌を遼子がたまたま見ていなければ…こんな日が来ることはなかった。

「新田さん、うどん作るので手伝ってください」と南友梨が顔を出した。

「うどん、本当に作るんですか」

「意外と簡単なんですよ? でも寝かせる時間が必要なんで朝一で始めましょう」

 雨だから、外に出られないし、ちょうどいいか、と思いながら、朝からのうどん作りが始まった。

 足踏みしているところに、丁度、高田藍がやってきた。

「あららら。朝から賑やかね」

「机の上に領収書があって、まだ整理してないんだ」

「私もやってみたいから、交代しましょ」と言って、僕がデスクワークに戻された。

 階下で響く楽しそうな笑い声を聞きながら、僕は領収書の整理をしていた。事務をしてくれる人…本当にもう一人お願いしたい。後…高田藍がもっと入ってくれたらいいんだけど…。後、家を探したい。ぶつぶつ呟きながら、雨の音を聞きつつ、仕事をした。


 昼休憩になって、近藤礼央が来てくれたので、みんなで作ったうどんを茹でた。お弁当があるので、それぞれお茶碗に半分だけのうどんだったけど、美味しかったのか、お代わりする子もいた。

「今日はずっと雨だから、いい運動になったわね」と高田藍が僕に言った。

「そうなんだ。南さんが提案してくれて」

「残ってくれるのね。よかったわ」

「本当に助かる。でもスタッフをやっぱり増やしたい。よければ高田さんがもっとたくさん来てくれてもいいし」

「そうね。なんかここは働くのも楽しいものね」

 そう言ってもらえて、僕は本当によかったと思った。

「あ、そうそう不動産関係で誰か知り合いいない?」

「家探すの?」

「うん。来週中に多分、婚姻届出すことになりそうだし。家もこの近くで早く見つけたい」

「おめでとう。お祝いさせてもらうわ」

「いいよ。本当に助かってるから。僕の方が支払いが足りないと思う」

 何から何までお世話になっている。昔、百貨店でアルバイトを勝手にお世話してもらった時は本当に嫌だったのに、今ではなんでも頼んでしまっている。

「帰国子女の大学生が知り合いにいるから…毎日は来れないと思うけど、アルバイトで来てもらってもいいし」

「本当、顔が広いね」

「新田君はアメリカにいたのに、友達いないの?」

「日本に帰ったら、それぞれ別の場所だし…まぁ、正直、友達いないかな」

「じゃ、相変わらずだったのね」とため息をついて、後片付けに向かった。


 日曜日の顔合わせは千佳が真っ白なふわふわの毛のペルシャ猫を被り、父親と自分の夫を連れて現れた。

「遼子ちゃん、本当にいいの?」と開口一発、それだけ確かめると、後はものすごく作られた笑顔で場を和ませた。

 僕は義理のお兄さんと目配せすると、軽く笑っていた。義理のお兄さんは本当に穏やかで、ひだまりのような人だった。そうでなければ、あの千佳と一緒には暮らせない。僕の父はあまり喋る人じゃないから、ただ遼子の父親と酒を飲んで、相手の話に相槌くらいしか打たなかった。

「もう、奏太は本当に小さい頃から泣き虫で…。でも頑固で絶対決めたら言うこと聞かなくて」と僕のテンプレがあるかのように千佳は喋った。

「遼子ちゃんと別れた後は本当に大変だったの。生きる屍を見たのはあの時一回限りよ。それでようやくゾンビのように生き返ったかと思ったらアメリカに行くって言い出すし…。小さい頃はどこ行くのにも私と一緒だったのに…」

 幼い頃、二人で自転車で遠くの公園に出掛けて、帰り道、僕の自転車がパンクしてしまって、僕が泣きながら押しているのを「泣くな」と言って、千佳がそのまま自転車に乗って去ってしまい、途方にくれてその場で泣いていたら、軽トラに乗った父親を連れて来てくれた思い出を語った。そう言えば、そんなことあったな、と言われて思い出した。千佳は言わないけど、きっと必死で自転車を漕いでくれたはずだ。軽トラの荷台に自転車と僕と千佳が乗って運ばれたような気がする。僕は泣き疲れて、寝てしまったかもしれない。でもあの時の夕日が重く感じたのを覚えている。

「迎えに来たのに、また激しく泣き出して。本当、泣き虫で。でも優しい子だからきっと遼子ちゃんを大切にしてくれると思います。どうぞよろしくお願いします」

 うまくまとめてくれて、僕はちょっと泣きたくなった。後でこっそりお礼を言うことにする。

 結局、この日、解散後にさっさと市役所に婚姻届を出しに行きなさいと千佳に戸籍謄本も渡されて、二人で市役所に行くことになった。

「お姉さん。今日はありがとうございます」と遼子が言って、千佳が驚いた顔をした。

「わぁ。こんな美人な妹ができるなんて嬉しい」と言って、僕と肘でつついて、「しっかりやりなさい」と言った。    

     

 二人で手を繋いで、市役所の時間外窓口に行って書類を提出する。必要書類を出すと案外すんなり受け取ってもらえた。訂正があればまた連絡してくれるという。

「これで夫婦になれたの?」と遼子は僕を見て、不思議そうな顔をした。

「うん。そうだね。なんか実感がないけど」

 遼子の指には僕がプレゼントした指輪が嵌められきらきら光っている。

「これからもよろしくね」と僕が言うと、嬉しそうに腕に抱きついた。

「住むところと…結婚式も…したいよね?」

「結婚式はまだ先でもいいの。でも住むところは早く決めたい。大学にも手続きしなきゃいけないし。あ、結婚したことも」

「そうだよね。住むところは急いで探そう」

 もう夕方になっている。僕は遼子の家まで送ることにした。

「結婚してるのに、実家に送られるのって、なんか、変」と口を尖らせた。

 本当に早急に家を探さないと、と僕は思った。

「じゃあ、少し、お茶でもしていこうか」

「うん」

 駅前に行くとコーヒーショップがあるはずだ。そこで少しだけ一緒に過ごす。日が傾いたと思えばあっという間に暮れてしまう冬至が近づいていた。

 夕方になってきて気温がぐっと下がったので、遼子はロイヤルミルクティ、僕はカフェオレを頼んだ。

「奏太はあのお家を広げようと思ってるの?」

「うーん。フリースクールは現状維持かなぁ。スタッフをもっと増やさないといけないし、あの場所もそんなに広くないし。ぎゅうぎゅう詰めでしたくないんだ。でもアフタースクールの方は駅前のビルでもやってみたいと思ってる。それから…将来的には高齢者施設と隣接してフリースクールをやっていけたら、お互いにいい影響が出ないかな? と考えたりしてるけど…それは随分先になるかな」

「じゃあ…。忙しくなるね」

「忙しいのは嫌だから、僕が暇になれるように人材育成もしないとね。今いる近藤君なんてきっと任せられると思うよ」

「奏太…すごいねぇ」と感心したように言った。

「遼子だって…」

「私は一人でする仕事だもん。そんないろんな人と繋がってってこととは違うし。好きなことしてるだけだから」

「まぁ、だから危うさもあるんだけどね。今は本当にいい人が集まってくれてるから…。あ、でもこれは全然、まだ頭の中にあることで、実際何にも始まってないから他の人に言わないで。遼子にしか言ってないから」

「…一生懸命就活していた奏太が嘘みたい」と言って笑う。

「そうだね。僕は夢もなくて…ただ、あの時は遼子と結婚したくて、就職しないとって必死だったな。でも今していることが僕の夢かと言われたら、違う気がする。目標という感じが近いかな」

 別れず就職していれば、遼子と結婚して、子どもがいて、毎日会社に通って…そういう生活も幸せだったかもしれない。

「目標って、夢と違って…ちょっと現実的な気がする。奏太はいつもしっかりしてるから偉いと思う」

「そうかな。でも遼子も…意志が強いよね。お父さんの紹介を断るのに飯ストまでしたんだって?」

「だって、あれは。…私、自惚れてるけど、どこかでずっと奏太が私のこと好きだと思ってたから。絶対、私のこと、忘れてないって思ってたから」

「そうだよ。いつも思ってた。誰と付き合ってても…。遼子の情報もチェックしてた」

「もう、だったら…」

「僕は自信がなかった。遼子はきっともっと素敵な人と一緒にいるんだろうなって思ってたから。そこに割り込む勇気がなかった」

 僕はいつも勇気が持てない。

「だから何もできなかった。忘れることも。遼子を探しに行くことも」

 遼子は僕の手の上に手を重ねた。指輪が照明に当たって、光る。

「どれだけ愛されてるか…自信持って」

「…今、実感してる。ごめんね」

 結婚した実感は正直あまりなかったけれど、僕はどれほど遼子に思われていたのか知って、気が遠くなりそうだ。重ねられた手がぎゅっと握られてから、離される。今度はミルクティのカップを持つために慎重に両手が使われた。冬のコーヒーショップで僕はずっと遼子を見ていた。冬の光は透明で頼りなく、でも優しく包んでいた。

 

 

 

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