第16話 ダビデ像

「ヘアカットしたんだ」と遼子は僕を見るなり、少し笑った。

「時間あったから…。変かな?」

「さっぱりしてる」

 聞いた答えと違う答えが返ってきた。多分、変だったのかな、と短くなった後頭部を手で確認する。

 待ち合わせにしていたアトリエは古い洋館だった。特にアトリエに特化しているわけではなく、貸部屋として、色々使われているようだ。古いアップライトのピアノが置いてあって、木枠の窓があった。遼子は黙って、イーゼルを立てて、そこにキャンバスを置いた。窓際に木製の椅子を持ってきて、位置を確認している。洋館の裏は公園になっているようで、木の枝が窓から触れるように近くにまで伸びていた。

「ちょっと休憩しててね」

 そう言うと、キャンバスに絵を描き始めた。モデルがいないのに、筆をささっと動かし始めた。僕は何が描かれているのか、気になって見ると、椅子と窓とその向こうの風景が描かれている。物凄いスピードで見える景色の輪郭が描かれていく。それが終わると、どんどん色が乗せられていく。昼の明るい光がいっぱい満たされた部屋が少しずつ浮かび上がってくる。僕がいないのは透明だからかもしれない。これでモデル終了なのかもしれない、と少し甘い考えを持ってみた。しばらくすると「脱いで」と言われた。

「全裸?」

「うん。できたら。もしできなかったら、ミケランジェロと合体させとく」

「ミケランジェロ?」

「見たことない? ダビデ像」

「…。記憶にうっすらあるけど…局部はちょっと記憶にない」

「大丈夫。奏太の方が素敵だったから」

 僕はため息をついて、全裸になることにした。タオルを用意してくれていて、綺麗に畳んで、座面に置いてくれた。結局、木製の手すりのついた椅子に横向きに座らされたから、ダビデ像でもよかったんじゃないのだろうか、と思った。

「ちょっと背筋を伸ばしておいてね。視線はそのまま真っ直ぐで。疲れたら、言って」

 じっとしているって言うのも筋肉をそれなりに使うもんなんだな、と思った。何もしないから時間がゆっくり過ぎていく。光がたっぷり入るこの部屋で、遼子の筆の音がするだけで、何も聞こえることもない。僕はいよいよ透明になるんじゃないかと思った。二十分経った頃に、「休憩して」と言ってくれた。

「はー、疲れる」

「ごめんね。絵のモデルさんって結構大変なの」

「見ていい?」

 ズボンだけ履いて、絵を見に行った。僕の体は色の固まりできらきらしている。白い部屋の中で僕はやっぱり透明で、でもきらきら光っていた。

「あー。二枚にしようかと思ってたけど、やっぱりもう一枚足そうかな」

「キャンバスないけど。買いに行く?」

「大丈夫。スケッチブックに描くから。あのね。今度は窓際に立ってもらって、背中はこっちで、顔だけ後ろ向いてくれる? 首痛くなると思うから、すごく急いで描くから」

 また全裸になって、後ろ姿で顔を横向けた。鉛筆で描いてるのか、ものすごい音がする。確かにこのポーズは首が痛くなりそうだ。五分くらいで「いいよ」と言うから、また見に行った。背景なしで、僕の後ろ姿だけ鉛筆で描かれていた。

「奏太の後ろ姿かっこいいでしょ?」

「…嬉しいような。悲しいような」

「顔じゃなくて、うっすらある背中の筋肉と肩の線がいいの」

「…ずっと背中向けとこうかな」

「あ、顔じゃなくては違うの。顔もいいんだけど…。ちょっと休憩してて。次は顔を描くから」

 そう言うと、もう一つのキャンバスをイーゼルに置いて、また絵を描き始めた。横で見てると、今度は黒く塗りつぶしていた。そして窓枠は黄色で描かれていて、外の木の葉っぱも黄色の光を受けていた。真っ黒の中に黄色い光が飛んでいるみたいだ。ここにどうやって僕を描くのかさっぱりわからない。

「じゃあ、真っ正面向いて立ってくれる?」

「ダビデ像でお願いしたい…」

「大丈夫。大丈夫だから」

 今までは遼子と目が合うポーズじゃないからよかったものの、今はしっかり目が合う。最初はなぜかスケッチブックに鉛筆で描いていた。全く僕のことを意識してないみたいに、手を動かし続ける。僕は完全に無防備でどうすることもできない。どこに視線を置いていいのか分からない。スケッチブックを横に置いて、遼子はキャンバスをに向かった。

「奏太。ここ見てて」キャンバスの先を手で叩く。

 指示通りにずっとそこを見ていた。筆で描いていないのか、かりかりと何かを削るような音がする。どこまで描かれてるんだろうか気になるけれど、しばらく我慢していた。

「もういいよ。服も着て」とい言いながらも手はまだ動かしていた。

 さっき塗りつぶしていた黒い絵の具を削って線を出している。僕の体は臍の下あたりから上を描かれていて、ダビデ像は確かに必要ではなかった。黒い画面に線だけで浮かび上がる僕はやはり透明だった。

「これを大きなキャンバスに描くの」

 黒い線だけの僕は黄色の絵の具で光を当てられて、立体的浮かび上がる。

「さっきスケッチブックで描いてたのは何?」

「それはね。全身描いてたの。全身入れた方がいいかな? ってちょっと思ったから」

「できれば、キャンバスの方でお願いしたい」

「そうだよね。その方が絵的にも動きが出るから」

 モデルが僕なので、なんとも変な気持ちになるけれど、絵としては綺麗な部類に入ると思う。これを家に飾りたいと思う人がいるとは思えないけれど。それにしても真剣な顔で、口をぎゅっと結んで絵を描いている遼子を見るのは不思議な気持ちになる。こんなに真剣に向き合えるものがあることに尊敬してしまう。

「奏太? 座ってていいのに」

「何だか、絵が出来上がっていくのが不思議で、見てしまった」

「そう?」

 そしてそんなに待たせることなく、遼子は描き終えた。

「早いね」

「うん。あんまり描き込みたくないの。今の印象を残しておきたいから。絵の具を重ねれば重ねるほど、印象が遠くなってしまう気がする」

 僕はよくわからないから、曖昧に頷いおいた。

「タオル洗濯してから返すよ」

「いいよ。そんなの気にしないで」

「いや、なんか気になるし」

 それ以上、遼子も無理強いせずに片づけを始めた。キャンバスを絵の具のついた面を二つ向かい合わせにしてクリップで止めた。

「なるほどね。そうしたら、絵を傷つけずに持ち運びできるんだ」

「なんか、いちいち、感動してくれるから、可愛い」と言って、笑う。

 そして片付けを途中で、放り出して、僕に抱きついてきた。

「何?」

「感謝。ありがとう」

「役に立てて…よかった」

 今見たところ、絵の中のモデルが僕だとわかる要素はあまりなかった。

「昨日からずっとありがとう」

「…他に好きな人がいても…」

 遼子を抱きしめながら、どこか遠くに僕は何かを置き去りにしたような気分になった。

「奏太、好き」

 その好きは恋じゃなくても、僕の気持ちはもう線を超えていた。

「好きだ」

 線を超えたら、溢れ出てきた。

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