第2話 再履修のドイツ語

 なんで、こんな難解な第二外国語を選んでしまったのだろう。中国語やフランス語にしておけばよかったと思ったのは後の祭りで、第二外国語であるドイツ語の単位を一年で落としてからというものの、四回生になるまで放置してしまった。卒業には絶対必要単位なので、もう落とすわけにはいかない。基本再履修は土曜に組まれることが多く、わざわざこのドイツ語のために週休二日が存在しなくなった。自分が悪いんだけど…。

 再履修クラスなので学年は二回生から四回生まで様々な学生がいるのだけれど、四回生は僕と倉田遼子の二人だけだった。

「四回生の二人、君たちは後がないから、毎回出席して、テストを受けてくれたら単位を出すので、必ず、毎回受けてください」とかなり寛大な言葉をドイツ語講師にかけられた。

 席は指定席で一番前の席に二人で並んで座らさせられた。これは他学年への見せしめに違いない。四回生まで単位を落とし続けるとこうなるという、寛大な顔を見せつつ、かなり嗜虐性のある講師だと僕は思った。

 倉田遼子はすらっとした長い手足を持っていて、かなり美人だった。横に座らせてもらえるのは、幸運だったと思うことにする。

「あ、シャーペンの芯ない。持ってる?」とシャーペンをカチカチ鳴らしながら、僕に聞いた。

 初めて声を聞いた、その時の言葉を今でも覚えている。僕はペンケースを見たが、今日に限って、替え芯が入ってなかった。咄嗟にシャーペンを差し出す。

「よかったら、これ使って」

「ありがとう」と受け取って、カチカチ、シャーペンを押したのだけど…。

 まさかの芯切れだった。僕は顔が青くなったと思う。いい格好をしようと思って渡したのに、まさか使えないなんて。

 ぷっと遼子が吹き出した。

「四回生、ちゃんと聞いて」と講師に怒られる。

 遼子が肩をすくめて、「じゃあ、ノート取っておいて。後で貸して」と小声で僕に言った。

 その日のノートは今までにないくらい、懇切丁寧に書き出したし、字だってかなり努力して読める字を書いた。結果、僕が億劫に感じていたドイツ語がちょっとわかるかもしれない、と希望を持てるくらいになった。


 ドイツ語のためだけに大学に来てるので、授業が終われば僕は帰るつもりだった。

「新田奏太くん?」

 遼子はノートの名前を読んだ。

「うん?」

「何学科なの?」

「英文科…。別に文学に興味があるわけじゃないんだけど…。倉田さんは何学科?」

「リョーコでいいよ。私、油絵」

 うちの大学はマンモス校でいろんな学部がある。確か芸術学科とかあった気がする。やばい人が多いって噂聞いたことがあるけど、関わったことはなかった。やばいの意味はあまりいい意味ではない。

「へぇ…」

 全く知識がなくて、何も話すことができなかった。その顔を見て、遼子はにっこり笑った。

「見にくる?」

「え? いいの?」

「今から行こ」

 僕はなぜか遼子の学部に行くことになった。そこがまたかなりやばい場所だった。僕たちは文学部で、きれいな校舎を使っている。大学らしい空調の効いた明るい校舎だ。芸術学部があるという敷地は一旦、大学から出て、道路を渡り、向かい側の建物になるらしいが、そこには大学の校舎とは思えないプレハブ小屋と、蔦が絡まるトタンで出来た大きな倉庫のような建造物だった。低い二階建ての校舎もあるが、そもそもこの敷地はもともと職業訓練校だったらしく、そのまま使っているらしい。

「夜になると、出るんだよ〜」と涼子はわざと恐ろしい声で言った。

「…。え? なんで夜まで大学にいるの?」

「だって、終わらないからよ。課題が。九時までは先生に言って、滞在できるの。その辺りで守衛さんが来るから、晩飯食べに行って、見回り終わった頃にちょっと敗れた金網のところから入って…」

「家に帰らないの?」

「家ではできないし…。創作って、夜の方が集中できるんだよね。昼間は明るすぎて…うるさいし。深夜なんて…完全に自分の中に落ち込む感覚わかる? 自分の核まで落ち込んで、そこにあるものを出すの」

 言ってることがさっぱりわからないが、創作とはそういうものなんだろう。遼子はそういうスタイルなんだろう、と思って頷く。

「で、いいのができたと思うんだけど、昼間の光で見るとさっぱりなのよね」

(じゃあ、それはさっぱりなものができたというわけでは?)という疑問は飲み込んだ。

 僕は姉、千佳への対策訓練のおかげで、不用意な言葉を発しないことができる。

 蔦が生い茂るトタンの建物の入り口は思い鉄の扉がついていた。それを押すと、なんとも言えない匂いがする。鼻にツンと来る匂いと、ねっとりとした重い匂い。そして床一面いろんなものが散らばっていた。絵の具の色や、チラシ、新聞紙、食べかす、ごみ。そして見たこともないような大きな絵が何枚もイーゼルの上に乗っていた。

 その中でもいろんな色が混ざり合って、何を描いているのか分からない絵が遼子の作品だった。

「これは夏のひまわり畑を描いたの」

(ひまわりってこんなだったかな。僕はひまわりについて知らなさすぎたのかもしれない)

「ひまわりってゴッホがよくテーマに描いてたんだけど。よく見るとグロテスクじゃない? あの種の詰まった感じとか。見た目もそうなんだけど…あれだけ子孫を残そうとかそういう生の怖さみたいな」

(うん。やっぱり僕はひまわりについて何も知らなかったんだな。ただ夏の黄色い花としか認識してない)

 遼子はとっても綺麗なのに、言ってることがよく分からなくて、残念な気持ちになった。何度見ても、本人自体は美しいのに…と密かにため息をついた。

「僕は絵についてよくわからないけど…。昼間の光だから…いろんな色がぶつかり合いすぎる気がして。もしかして、暗い展示場で蝋燭の明かりとかで見ると素敵かもしれない」と精一杯の思いつきを言った。

 言ってから…、いや、なんかすごいことを言えた気がした。遼子も目を大きくして僕を見た。

「…奏太って…。すごいかも」

 褒められると素直に嬉しいが、なぜだか胸が痛んだ。

「また来週も見に来て」

 綺麗な顔でそう言われると、頷くしかない。それまでに僕は美術の知識を得なければ、という気持ちになった。

 ひまわりがグロテスクなんて、今まで一度も思ったことはなかった。女の子って「かわいー」っていうのが口癖だと思ってた。いや、千佳は違ったな、と僕は難しい顔をしていたのか、遼子は「どうかした?」と顔を覗き込んできた。

「絵って…難しいよね」と僕が言うと、遼子はそれまでと違って、まるで少女のような顔で素直に頷いた。

 そして僕はくるくる表情が変わる遼子が気になった。

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