第8話/朝陽、それから

 妹を吸血してから二週間、それがカリヴァルドの寿命となる。通常ならば吸血種はヒト種の血液を小瓶に収めて携帯し、料理に混ぜて摂取するが、カリヴァルドの場合は生き餌であるから備蓄が無い。

 フリーレン対策を講ずる立場ゆえ、妹とは遠からず顔を合わせることになるだろう。グレンツェ語研究の進捗という形で、ノウェルズの回復は既にカリヴァルドの耳に届いている。

 彼はこの日、ビンギス・ロートヒルデの要求に応じて同邸宅を訪問した。事前に受け取った手紙によれば、息子のカッツェに伏せたまま面会したいという。カリヴァルドからしてビンギスは父、エヒトを殺害した下手人である。

 客間へと通され、卓を挟んで二者は向き合う。 ビンギスのタイを結んだ襟に着崩れはなく、全体の輪郭、衣服越しの隆起より今でも剣を奮うための筋力は失われていないと察せられはするが、目元が淀んでいる。病より来る憔悴が眼孔の影に潜み、体格の割には弱々しい。

 

「私も加齢が進み、死を意識する様になった」


 ビンギスが溜息のように零した。両者を分かつのは長卓、その上には剣が横たえられている。カリヴァルドは剣を取り上げ、鞘を滑らせて刀身を検めた。よく手入れがなされているらしく、血脂などは無い。

 この剣が最後に斬ったのはビンギスの脇腹で、振るったのはエヒト、カリヴァルドの父である。構えも覚束無いエヒトが手練のビンギスを相手取ったのだから、父の死は必然といえよう。


「確かに当家の剣ですね。旧い、儀礼式典用の」


 エヒトが斃れ、カリヴァルドが屋敷を継ぐまでの空白期間において、ビンギスは遺体の傍から剣を持ち出し、保管し続けていたという。


「墓まで持ち込むわけにはいかぬ故、返還すべきと考えた。私の意識が明瞭なうちにな」


 剣の返還を認めたのち、カリヴァルドは一目見せて欲しいと要望を受けて持参した小箱を取り出す。収められているのは真珠色をした、エヒトの犬歯。蓋が開かれた時、ビンギスは震えたようだ。


「お前も勘付いていようが、エヒトの死は前もった計画の上で為された」


 エヒトとビンギス、両者には歴然たる実力差があった。ビンギスの脇腹を切っ先が抉ったことすらエヒトが起こした奇跡ではなく、ビンギスに躊躇いがあって負傷したに過ぎない。


「エヒトはお前たち兄妹の為に、牙を遺す必要があった」

「彼が私の父ではない、という事実を証明するために」


 牙を遺して何が判明するかといえば、性交渉の遍歴である。牙を調べることで、彼は妻どころか誰とも関係したことのない、全く清い身であることが証明された。ではカリヴァルドの父は誰か。彼は既にそれを知っており、自ら語る。


「ヴィーケが第一子を授かった時には吸血種として生み、ふたりめは淫魔として生んだ。父親はどちらもアーベル・クディッチであるにも関わらず」


 生前のエヒトが牙を遺そうと思い立ったのは、彼が淫魔について調べていたからだ。エヒトは吸血種と淫魔の分岐に気づいたが、裏付けとなる物証が不足していた。それで、自らの犬歯と共に資料を遺した。一切はカリヴァルドの手に渡り、当主たる彼が管理している。


「エヒトの遺した犬歯とヴィーケの状態を通し、胎児の分化を左右するのは近親相姦に加え、母体の心理状態なのだと解明されました」


 公爵は淫魔を処分する大義名分として近親相姦を罪悪と定めているのだから、近親相姦により生まれた吸血種を野放しにしてきたとなれば大義を喪う。淫魔の遺骸なしに吸血種の生命線たるシンメルの維持が難しいと公表して混乱を招くわけにもいかない。為政者は如何なる政策も正義のもとに執行されたという体裁を保ち、秩序を保たねばならない。でなければ、国が崩壊するからだ。

 カリヴァルドは自らがノウェルズと同じ近親相姦の末に生まれた存在なのだと把握すると、分岐の事実をリーベンへの交渉材料とした。ノウェルズに市民権を認めるように要求する代わりに、公爵の落ち度も分化の仕組みも公表せず、淫魔を殺し続ける理不尽に引き続き加担するとして。

 グライブを運営し、種族性を維持するために淫魔を殺し、シンメルの追肥と成す。彼は、ここに妹だけを特別扱いするという卑劣なる例外を作り出し、紫書官としての門戸がノウェルズに開かれたのである。


「エヒトは淫魔全てに未来を与える、そんな大それたことを望む男ではなかった。正義が動機ならエヒトはいつでも告発できる立場でいたし、我が身を惜しまぬ以上、何も恐れることは無い。だが、そうはしなかった」


 エヒトに溢れていたのは正義ではなく愛情でしかなかった、とビンギスは続け、視線を牙へと注ぐ。

 カリヴァルドもまた、ビンギスの評価の正しさに内心では同意した。亡き父は自らの心情を日記に吐露しており、文面はいつかカリヴァルドの目に触れることを意識されたものであった。彼は淫魔全体ではなく、ノウェルズを生かす道を模索していたのだ。何を知ってもクディッチの敵とはならず、近親相姦の大義を維持するために処刑されるはずのカリヴァルドを庇って死んだ、ただの父親。

 エヒトのこうした精神性に母が感化されたことで、ノウェルズが淫魔として生まれたのだとも言える。


「エヒトがヴィーケに道徳心を与え、社会的常識を仕込んだことは重要です」 


 カリヴァルドを産んだ当初、母親であるヴィーケの精神状態は閉鎖的で、常識が欠如していた。クディッチの箱庭で飼われていた彼女を変えたのはエヒトだ。

 家族で肌を重ねることはいけない。外界と隔絶された温室育ちの女はエヒトによって道徳心を与えられ、兄への愛を疑問視し、母の戸惑いと苦痛を吸い上げて胎児は淫魔へと分化したのである。

 母胎が相姦への不安や、否定的な感情を抱くと淫魔となるという仕組み。カリヴァルドが吸血種の特性を備えていたのはヴィーケの精神が未成熟だったからこそで、外界と社会を意識せず、それでいて不安を感じぬ者はよほど偏った環境下で生きてきたのであろうし、カリヴァルドと同じような吸血種はごく僅かであろう。


「エヒトはお前と妹が生きることを願った。血の繋がりがなくとも、家族だったからだ」

「承知しています。貴方が私を呼び出した主題が、他にあることもね」


 絆で結ばれていると肯定するビンギスの態度はカリヴァルドの神経に障る。例え彼が、エヒト乃至クディッチに巻き込まれた側としても、だ。


「貴方はエヒトに致命傷を与え、私は絶命する彼の重みを受け止めた。同じ血に濡れた者同士、顔を合わせれば共通の思い出話が蘇るのは当然のこと。お付き合いしますよ」


 ビンギスがカリヴァルドに求めるのは打ち明け話なのだ。誰でもいいから長年の苦悩を分かちあいたい、気を楽にしたいということなのだろう。

ビンギスは俯き、十指を絡めた。


「俺はエヒトの最期に関わりたかった。自らの関与しえない場所で、死んでほしくはなかったのだ」


 エヒトを殺そうと決めた瞬間よりビンギスの背負い続けた重荷が、一言に集約されていた。

 彼は家族のある身だ、全てと対決してエヒトを救うわけにもいかず、かといって無関心でいることもできず、外圧に押し流されながら殺害に加担した故に、いつまでも苦しんでいる。

 ビンギスが今更にカリヴァルドを呼び出した事実からして、長年に亘る悔恨を引き摺って来たのは明らか。親友たるエヒトの殺害はビンギスの本意ではなく、悪はどこかと問うならば近親姦を犯したクディッチに他ならない。そうとわかっていながらも、カリヴァルドはこの男がまだ憎い。

  

「昔話は終わりにする。この先も、息子を裏切ってくれるな」


 エヒトの親友としての悔恨を吐露してしまうと、ビンギスはカッツェの父親としての肩書きに切り替わって自らを保ち、朗らかに笑う。


「俺といつまでもこうして、秘密を守り続けたお前のことだ。今さら息子を害するとは考え難いからな」 

 

 息子想いの父親で、カリヴァルドすら認めるという善良な立場に還らんとするビンギスを、親友を殺害した無力な男に引き戻す方法をカリヴァルドは隠し持っている。

 ビンギスは生前の親友、エヒトの言葉を額面通りに信じているが、日記を読めばエヒトの奥底に流れ通うものが先々代のクディッチ家当主、リオへの忠義であることは明白。ビンギスを使った亡き主君、リオ・クディッチの後追い、という側面がエヒトにはある。

 息を引き取るエヒトを抱きかかえたのはカリヴァルドで、息子と娘の行く末が危うい中で遺言を残し、兄妹を引き合わせた父は、主君を想いながら逝ったのだろう。

 カリヴァルドやノウェルズ、未来の世代に尽くす父親としての麗しいエヒト像と共に、リオへの未練により死を受け入れていた、望んですらいたという暗部もエヒトにはあった。ビンギスは、その暗部を知らない。

 これらを語り聞かせて、ビンギスとエヒトの信頼関係は確かであったか、と疑念を植え付け、迷わせることはカリヴァルドには容易だ。猜疑を誘発し、思い出に罅をいれる。長年の苦悩は徒労で、善意は報われず、エヒトにそこまでしてやる値打ちがあったかあやしい、と彼等の友愛を壊すことができる。老いさばらえて死が近い今更となって、見当違いで無益な悔いに苛まれていたと発覚する虚しさ。エヒトを信じ、カリヴァルドをも信じようとしている男の精神を破壊できる手段を何通りも思いつくのに、出来ないことによる苦悩がカリヴァルドの額に鈍痛を引き起こす。

 ――死を意識する様になった。

 故に、抱えておくのも耐えがたくなった過去をカリヴァルドに打ち明けて、楽になる。そしてカリヴァルドは、ビンギスを罵ることができない。罵詈雑言を投げつけても現実は好転しない。その非情さに耐え抜く癖が、口先だけで楽になることをいつも彼に厳しく禁ずる。カリヴァルドはビンギスとエヒトの友愛に美しさなど感じはしないのに、目の前の男が酔いつつある、美化された様々な想いをへし折ってやるほどには、浅ましくなれない。


「お尋ねしたいのですが」


 カリヴァルドは言う。


「父親の心境とは、どのようなものでしょう」


 ビンギスは目を丸くした。問いかけに応えようとしたにしては、異様な顔面の強ばり。カリヴァルドは素早く立ち上がると、椅子から転げ落ちかけた男を間一髪で支えた。痙攣と発作を起こしている。


「医師を呼びなさい」


 控えている家僕に命じて、カリヴァルドはビンギスの襟を解く。その間にも青年の袖を、もがくビンギスの指が掻いた。


「息をして」


 患者を鎮めるためにカリヴァルドは言い聞かせる。ビンギスの視線がカリヴァルドを捉え、正気が戻ったかと期待したが、男はカリヴァルドの腕に縋り付くと、一気に脱力した。鼻先を掠めるシンメルの香り。吸血種の絶命を示す、死の芳香。呆気なく、考える余地すら与えもせずに死は訪れ、誰の味方ともならない。 

 後日、曇天の下でビンギスの葬儀が粛々と執り行われた。参列者の記憶のなかで会話をし、動いていた存在が今や白蝋の如き顔色をして棺に収まり、土を被せられている。ビンギスの意志を確認する術は完全に絶たれ、肉塊となり、生者の憶測と追想のなかを揺蕩うばかり。物質から概念となり、指に触れることは無い。

 ビンギスの絶命時に薫ったシンメルの香りはカリヴァルドにとってもまだ鮮明で、喪主を務めあげたカッツェをカリヴァルドが呼び寄せた際もまざまざと鼻先に香るかのようであった。

 情けないな、と零し、親族の喪失に意気消沈しているカッツェの目元が潤むのを見て、カリヴァルドは親友を優しく抱き寄せる。


「父君は立派な御方だった。皆が喪失感に耐えている」


 言葉も慰撫も本心ではあるが、カッツェに対して真心を尽くそうとするほど、妨げとなる感情が湧き出る。白い光に向けて手を伸ばすと、風に靡くヴェールが彼の腕を掠め、巻き付き、締め付けてくるかのようで、清い布地の白さを引きちぎりたくなる。ロートヒルデ家の陽気さ、愛情、素直さに触れると、カリヴァルドはいつもこうだ。

 どうしてビンギスはカッツェの傍らではなく、カリヴァルドの元で死んだのか。狼狽していたロートヒルデ夫人は医師を迎えた後、幾分かの理性を取り戻すと、夫の亡骸に語りかけるよりも先にカリヴァルドへと深い感謝を述べ、涙を抑えた。

 ビンギスは結局、クディッチと共有した陰惨さを些かも家族には悟らせず、父としての存在感を守り抜いた。あの暖かな家庭の、良き父であった男を惜しむすすり泣きが参列者から漏れ続けており、寒風の過ぎる音すらも湿った啼き声のよう。

 ビンギスを引きずり込んだ死の鎖は、ノウェルズの足首にも繋がっている。エヒトが死を受け入れようが、ビンギスが友愛から友を殺そうが、死という結末を回避できぬからこそカリヴァルドは抗う。盤上に死のカードが残るのみであろうと席を立たない。ノウェルズはまだ生きている。この、まだという僅かな時間的価値にこそ計り知れぬ重み、血と汗と体液に塗れるだけの価値がある。まだ、という一言は、彼が爪を立て続けることで維持されているのだから。

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