Arroganz

青ちょびれ

一章/Frieren

第1話/寸劇

 卓子の上、半円状の菓子がしんと鎮座している。肌理の細かなクリームに銀の粒が散りばめられ、枝葉型の焼き菓子が外周を取り囲む。テーブルクロスと共に白で統一された、美しい菓子だ。

 これを前にした女は、椅子に浅く腰掛けて静止していた。彼女の側で湯気が立ち上る。傾けられたティーポット、飲み口の薄く華奢なカップに琥珀が注がれ、満ちゆく水面が光のあやを遊ばせる。

 ささやかなる茶器の擦過音、娘の手前にカップとソーサーを置くのは男の手だ。彼は執事ではない。銀の装飾具が煌めく、膝丈の黒いジャケットを着て、むしろ賓客としての正装を整えていた。

 暖炉傍の円卓を基点として茶の芳香が室内を漂う。潔癖に白い壁と天井、豪奢な家具に囲まれ、起毛の絨毯の上で呼吸をするのはふたりきり。

 男の優雅な挙措と彫像のように時を止めた女との取り合わせは、一室を舞台とし、劇の一幕を演じているかのようである。凍ったままでいる女の対面に男が着席した。


「君の言語学者としての功績は、私も聞き及んでいる」


 彼の名をカリヴァルド・クディッチという。青年として長じきった齢であり、面立ちは彫りが深く精悍。前髪は頬に触れる長さ。毛先は暖炉の光を通し、暗色から夜明けに透ける。彼は眼差しの厳しさを微笑で補い、生粋の貴族としての風格を纏う。

 本来ならば、軽食の席を整えるべきは給仕を担う家僕達の仕事であるが、彼等はカリヴァルドの指示により室外にて待機していた。


「失礼ながら」


 娘が口を開く。


「私ではクディッチ公爵の無聊をお慰め出来ません。何卒ご寛恕頂き、別室に居られる伯爵か公爵をお呼び致します」

 

 女の肩幅は狭く小柄だが、理知的な面持ち、沈着さからして子供でないのは明らか。純白のドレスを纏い、首元をレースが覆っている。美しく伸びた背筋を飾るのは銀髪。水が如くの艶が垂直に流れ落ち、時ならぬ月光を冴え冴えと背負う。


「ノウェルズ・クディッチ紫書官ししょかん。私達は種族存亡の危機を前にし、責任を負う立場にある。共に足並みを揃えねばならない」

「異存ありません、公爵。しかし、この後に合議を控えた今、我々が個別に親睦を深める理由が御座いますか」


 菓子を挟んで剣呑な雰囲気を保つ彼等は、実の兄妹である。親代わりであったカリヴァルドの手元をノウェルズが離れて十五年、当時は自立せんとする妹の意思を汲み取り穏便な別れを済ませはしたが、実質上の絶縁状態にあった。

 この度リーベン公爵により招集され、同公爵邸で再会。後に控えた合議の前に少し話そうとカリヴァルドが誘いかけ、卓に着いたのである。


「私とて地位で君を拘束しているわけではない、茶を飲み終えたなら退室なさい」


 退室の単語が効いたか、ノウェルズがカップの持ち手に指を添える。ソーサーを離れた瞬間を計らい、カリヴァルドはテーブルクロスの影で彼女の靴を軽く蹴とばした。振動を受けて茶が波立ったものの、ノウェルズは上手く均衡を保ち、中身を零さずに堪えきる。


「……お戯れを」

「失礼、お気になさらず」


 兄は紫水晶、妹は紅玉の嵌った瞳に眼光も鋭く互いを写し、牽制し合う。


「グレンツェ語。旧き時代の忘れ去られた言語。話者はなく、遺された史料も五枚の石版のみ。解析されれば我々の起源すら紐解くという。起源に過去と……クディッチを離れ、系譜を無視する君にしては面白い学問を選んだね」

「言語学が前提とするのは時代であり社会であり、敢えて私と貴方という狭い単位に紐付けた理由は尋ねずにおきましょう」


 一見して変調はないかに見える女の、いわば雰囲気から敵意の高まりを悟ったカリヴァルドは、妹に対する悪癖を取り戻して調子づく。

  

「中央図書館にグレンツェ語に特化した同研究所が併設されて約十年。その点からすると君の研究はまだ新しい。私が言うと皮肉に聞こえたかな。そう怒らないで……」


 無邪気ともいえる横柄さが態度に現れ、作り物ではない微笑に彼の美貌が輝く。


「目をかけて頂き恐縮ではありますが、クディッチ公爵に申し上げることは何もありません。リーベン公爵の招集を受けて赴いた次第、職務を果たすのみ」


 図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設だ。職員は全てが司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡り、一部は歴史家としての側面を担う。この性格が特に強い者を司書の一等、紫書官と呼ぶ。紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍し、ノウェルズの片腕を縛る腕章は、その証。 


「寂しいことを言ってくれるな、ノウェルズ。ともあれ、十五年も手紙の一通さえ寄越さず、元気そうで何よりだ」


 カリヴァルドは満足していた。妹が舌戦応じる度、久しく血の通っていなかった精神に安堵と懐かしさが流れ込んでいく。


「このお茶を飲み終えるまでならば、思い出話にもお応えします」


 表面的な対立と緊張を保ちながらも、兄妹の発声は詩を誦する様に美しい。この響きこそは、彼らが幼年期を共にしたことの名残。カリヴァルドが貴族社会の教養とされる全てをノウェルズに与え、教育したのだ。唇の開閉度から、茶器を傾ける所作に伴う、指先の一本に至るまで。


「再会の日が口喧嘩で終わるのは私も悔しい。食べろとは言わない。せめて、スムスの紐を解いてくれないか」


 カリヴァルドが小箱を取り出す。収められていたのは、鹿の形をした砂糖菓子。職人技の光る立体的な作りで、赤い紐が角に結ばれている。

 兄妹の間に置かれた菓子をスムスといい、贈り主が白鹿を立て、受け取り手は紐を解く。紐が解けても鹿が立ったままであれば充実した一年を過ごせる、そうした願掛けが宿っていた。カリヴァルドは専用のはさみで箱から鹿を摘みだすと、雪山の頂点に優しく立たせる。


「どうぞ」


 兄の促しを受けたノウェルズが、仄かな焦りと緊張に強張る。食べなくてもいい、というカリヴァルドの譲歩を受け、尚も固辞すれば理由を勘ぐられると踏んだのか、彼女はゆっくりと腕をあげる。しかし手が震えてしまい、余計な力が加わって角が折れた。

 甘い雪原に鹿が倒れる。角の欠片と共に落ちた赤色の紐が嫌に映え、覇者から一転、狩られた獲物の様に呆気ない。

 小さな円卓である。ノウェルズが肘を引くより早く、カリヴァルドは妹の手を捉えて指先を握りこむ。


「冷えたままだ」


 熱い茶器に触れ、暖炉前に腰掛けていながら、ノウェルズの末端は氷の温度で小さく痙攣していた。疑念が確信に固まる。妹は病身なのだ。


「この後で体調が悪化したら、隠さずに申し出るように。……いいね?」

「はい」


 痩せ我慢を看破されて悔しかったのだろう。頷くノウェルズの顔色は、病んだ色に儚く透けていた。僅かな仕草で心理状態を汲めるほど理解していながら、再会の喜びを示しあえない。唯一無二の家族でありながら、見知らぬ相手の様に振る舞っている。


「それでいい」


 兄妹といえども、彼我における価値観の相違に橋を渡すことは難しい。カリヴァルドは、その差異を認めているつもりだ。彼が触れても熱が伝わらない、この手の凍る在り方を。

 ふたりを隔てるのは卓子ひとつ、腕を伸ばしあってようやく届く理性の距離。だから、カリヴァルドは手を放す。

 知見を広めた妹に、過去の面影を探すのは無為なこと。彼女の成長を認め、自由にしてやることが兄としての餞であり、頼られればいつでも手を差し伸べんと心に秘めるのが家族だ。それが正しいと、まだ願う心がある。


「妹の顔を見ると、どうしても可愛い。そう思う私の感情に、少しばかり付き合ってもらっただけだよ」


 妹の手を離す善良な兄の姿こそが道化か、彼の中で定かでは無い。いずれにせよ、茶会は終わりだ。


「行きなさい」

 

 十五年前にも妹に向けた台詞と重なって、寂しい感慨にカリヴァルドは苦笑する。彼の口元に覗くのは、特別に発達した犬歯。

 真珠色の牙を備えた生き物……吸血種とは、グライブなる地域に住まう種族を指す。牙で獲物を穿ち、血を勝ち得る。そうした野蛮な行為が行われたのは遥かな昔のこと。彼等は高い壁を築いて居住地グライブを囲み、独自の文化を築いた。

 ヒト種と共に調印した友好条約の下、彼等の厚意により血液供給の援助を受け続けて暮らし、現在に至る。

 共生関係を成立させたはずの両種族における均衡を侵すか否かが、この後に控えた議題だ。カリヴァルドもまた公爵の一角、大局を決するにあたり背負うべき責務がある。


「ありがとうございます、御兄様」


 懐かしい呼び方にカリヴァルドが瞠目した一瞬を突き、宙で下がりきらずにいた兄の手をノウェルズが握る。握手の形で力が籠り、離れた。

 意思を通じ合わせたかに思われたのも束の間。椅子を離れたノウェルズが身を折り、口元を抑える。乾いた咳をハンカチーフで殺し、失礼と詫びる横顔に銀髪が流れて表情を隠す。

 吸血種は血臭を嗅ぎわける故、喀血は確かだろう。指摘は酷と考え、知らぬ振りを通すことにした兄の傍を銀髪の軌跡を引いて妹が過ぎた。扉の開閉音、規則正しい靴音が遠ざかる。

 卓子に鎮座するスムスは雪の降る、寒々しきグライブを象徴する菓子である。暖炉の温もりはノウェルズには届かなかったが、白さを保つスムスを少しずつ蝕み、いずれは形を崩してしまうだろう。

妹も、同胞も、共に死期が近い。決断を下すべき刻限が迫っている。

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