29 「私はもう、戻れない」




 こんな日が来ることを、何よりも恐れていた。

 空間移動の魔術で移動した外は雨が降っていた。

 やたら広い野原は、どこだか思い出せない。いつかの任務で立ち寄った場所なのだろう。空間移動は来たことのある場所にしか移動できない。

 激しい雨が景色に幕を張る周囲に目を凝らしても、人里は近くにありそうにない。首都の防壁さえも見えない。

 シェノンはこの短い間ですでにずぶ濡れで、髪をかき上げながら前方を見た。

 直接触れる魔術は駄目だと判断し、部屋の回りを切り取り移動させた残骸が崩れる。残骸を鬱陶しそうに避け、男がシェノンの方へ歩いてくる。


「どういうつもりだ、シェノン」


 魔王はシェノンと異なり、髪の一筋も濡れていなかった。雨は彼に降るのに、濡れていない。

 シェノンは震える手を握りしめ、魔王が目の前にやって来るのを待っていた。

 シェノンの前に立った魔王は魂と心臓の影響か、銀色に染まりつつある目で、シェノンに視線を注ぐ。

 至近距離で目が合った瞬間、頭の中で記憶が奔流のように一気に流れた。

 この目を、声を、感覚を、思い出してしまう。


「変わらぬな、その姿。私の祝福を与えた、私を愛する、唯一の人間」


 乾いた手がシェノンの頬を撫でる。

 あいしてる、あいしてる、あいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてる。でないと、つらい。にげられない。こんなはずじゃない。たえられない。さわるな。にげたい。しにたい。


「私の民を葬り、聖王の祝福を受けた者の側におり、随分私を裏切る行いをしているようだが」


 頬を撫でていた手は、顎から首へ移動する。いつもシェノンが一番上まで止めているボタンを外し、露わになった祝福の印をなぞる。

 レナルドに向けられていたのとは異なる種類の怒りが、シェノンに向けられていた。


「今私の元に戻るなら許してやろう。昔のお前が拒んだ契約を受け入れ私の側に戻れ」


 囁く声は甘く、美しく、人間を堕とそうとする。

 しかしシェノンがなおも強張った表情のまま固まっていると、ぐるりと首を囲む印に沿って、手が添えられる。首を絞めるように。


「それが出来ぬと言うのなら、また食われ、私の一部になるか。どちらかを選べ。今すぐだ。私は『あれ』を殺しに行かねばならない」


 一転して冷酷な声が囁きを落とした。

 レナルドは、魔王に勝てるかもしれない。魔王は本来の力をまだ発揮できないだろう。

 でも勝利の可能性は四百年前の実績を元に見ているだけで、四百年前初めて人間の手にかかった魔王は果たして油断していなかっただろうか。

 分からない。分からないから、シェノンはレナルドに戦ってほしくない。心の奥から、それを恐れている。

 一刻の猶予も許されない中、シェノンは奮える唇を開いた。


「……与えられたと言うのなら、私の方もだったよ、レナルド」


 ベルフェが、シェノンはレナルドに多くのものを与えたと言っていたけれど。

 レナルドの眼差し、言葉。向けられる全てが。

 眩しくて、心地よくて、楽しかった。

 それを失ったときのことを恐れるくらいには、自分は得過ぎた。それなら覚悟なんてできる。

 口の中で呟き、シェノンは膝をついた。

 震えは、止まっていた。


「『私の血肉から魂まで、全ては魔王エルレッドのものになる』」


 五百年前、受け入れなかった契約が結ばれる。

 それは本来人間で聖王の元にあるシェノンが聖王の手を離れ、魔王との繋がりを作る契約。

 シェノンの体がぐっと重くなる。


「──ふ、はは、一度死んで、ようやく私のものになる気になったか」


 聖王のものが自分になついたことが珍しかった男。

 それが離れそうになったときに、聖王の元から完全に離すことに執着した男。

 魔王が歓喜の声を上げた。

 魔術契約で定められた魔王の影響の許容を越えたか。契約が魔術路を焼かんとしている。それとは別に、シェノンは体が何かに浸食されていく苦しさに喘ぎながら、唇を歪めて笑う。


「馬鹿言わないで」


 荒い息で毒づいたシェノンを魔王が怪訝そうに見下ろす。

 シェノンは未だに跪いたまま、魔王をまっすぐに見上げてさらに毒づく。


「おまえが嫌いよ、エルレッド。魔族の王。──心底嫌いなおまえと死ぬなんて心底嫌だけど、私と消えてもらう」

「お前に何ができると言うのだ?」


 魔王は嘲笑い、シェノンに手を伸ばす。

 その手が触れる前に、シェノンは頭を垂れる。


「聖王に、お祈り申し上げる」

「何を──まさか」


 さすがは魔王だ。意図に気が付くのが早い。

 でもきっともうどうすることもできない。

 魔王の動きが鈍った隙に、シェノンは一息に言う。


「我が身を許したまえ」


「我が身を御元へ召したまえ」


「貴方の民の安寧のため、この世から我が身の全てを消したまえ」


 聖王は慈悲深い。魔族にもその門戸を広げているという。

 ラザルの人間の身は聖王から与えられたもの。その体を依り代とした魔王は、少なからず影響を受け、心臓を元に体が作り変えられるまでは本領が発揮できない。

 ならばたった今魂レベルのつながりが出来たシェノンが聖王に祈り、影響を一心に受ければどうなるか。

 魔王が聖王の影響を受けることを避けるために魔狼を取り込んだラザルの身が影響を与えられたなら、消滅までされなくとも今一度体は滅び、心臓と魂はばらばらになるだろう。


「人間が!!」


 憤りの声を上げ、魔王が抵抗を試みるが、空から降って来た光る雨に打たれ力を削がれている。

 シェノンの首に魔王の手がかかるが、シェノンは微かに笑みを浮かべた。

 光る雨からは聖力を感じる。聖王が聞き入れてくれたのだろうか。

 ──どうか、私を受け入れてくれた彼らが──そして、ただ一人私だけを見てくれた彼が、この先平穏に暮らせますように。

 シェノンは今世で初めて聖王に祈った。


「シェノン!!」


 そのとき、稲妻のように、光がシェノンと魔王の間を切り裂いた。

 眩しい光に瞑った目を開くと、金色の瞳が見えた。


「……聖王?」

「寝ぼけてんのか冗談かどっちだ、俺だ!」

「……レナルド、どうして」

「国中に魔力をばらまいて探した! こんなことなら腕輪外すんじゃなかった!」


 見たことがないくらいレナルドは焦っていた。

 ああ、白い雨の聖力はレナルドのものだったのか。シェノンはぼんやりする頭で、視線を動かして辺りを見た。

 場所は変わってないようで、相変わらず雨が酷く降っている。地面に倒れたシェノンの全身にも降り注いでいたが、不思議と寒さは感じなかった。


「魔王は……」

「そこに転がってる。心配しなくても、放っておいても心臓だけになる」


 離れたところに、男の上半身が転がっていた。

 下から徐々に崩れていっている。

 上半身だけの体から、笑い声がした。ぎょろりと銀色の目がシェノンを捉えた。


「だとしても、また私は巡る。そしてシェノン、お前はまた私に巡り合い、再び私のものになる」

「黙れ」


 反射的にシェノンが口を開く前に、レナルドの魔術が魔王の顔を撃った。

 それでも、口のなくなった体から声が聞こえる。


「聖王の祝福を受ける者よ、哀れだな。すでにそれは私のものだ。契約は結ばれた。──シェノン、次は再び会った瞬間に五百年前と同じく食ってやろう。逃がさぬぞ」


 そう言い残し、魔王の体は完全に消滅し、心臓だけが残った。

 しばらく、雨が降る音だけが響いていた。


「ごめん、遅くなった」

「私が、レナルドを置いて行ったのに」


 レナルドが謝るなんて可笑しい。いつもなら怒っているだろうに。

 シェノンが力なく笑うと、レナルドはシェノンの冷たい頬を撫でた。


「早く帰ろう」


 レナルドが抱き上げようとするのに、シェノンは首を横に振って拒否する。


「私はもう、戻れない」


 それはレナルドも感じているはずだった。


「ねえ、レナルド。あなたには今の私は魔族と同じように感じるんじゃない?」


 何しろ魔王と契約を行ったのだ。魔王の魂は永遠に消えないだろう。それなら今もなお契約は働いている。

 レナルドは否定せず、唇を引き結んだ。


「私とした契約、覚えてるでしょ。殺しなさい」

「──その契約内容が発揮されるのは、三ヶ月経った後だ!」


 レナルドが怒鳴るように、腕の中のシェノンに言った。

 そういえば、そうだったか。あれだけ別期間にしておけばよかった。


「でも、私はもうこの国にはいられない。あなたの側にはいられない」

「契約、しただろ。三ヶ月は俺の側にいるって」

「もう体が魔王と聖王の影響が喧嘩して死にそうよ」


 それを意図して、死ぬ覚悟をしていたのだ。

 魔王を意図した弱体化できたなら良かったと思う。

 この目の前の存在を失うことがなくて、良かったと思う。

 シェノンの意識はいよいよ定かではなくなってくる。


「──私は、」

「シェノン?」

「人として、死にたかったけど、人の世で、魔王によって殺されないで死ぬなら、……まあいいかな」

「やめろ、頼む」


 視界が真っ暗になり、レナルドの顔は見えなくなって、声だけ聞こえる。


「聖王に請い願う──」


 ──レナルド・レインズの前には魔族の気配が色濃くなる愛しい人がいた。レナルドは、聖王の祝福による本能を抑え、彼女の額に額をつけ、ただ祈った







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