第20話 中傷の沈黙 四

 どのみちメイが同席していても助けにはならない。博尾側の人間なのだから。つまり、渕山は逃げるしかない。


 まずはポケットの財布から小銭をだし、テーブルに置いた。それから椅子をうしろに引き、走って店をでた。


 どこにいこうが瀬川に察知されるというなら、なるべく有利に対決できる場所を探さねばならない。しかし、瀬川が具体的にどんな手段を抱えているかわからないので探しようがない。強いていえば走り続けること自体が唯一の対策だった。


 にもかかわらず、トイレにいきたくなってきた。『小』なのがまだしもの幸いながら、とにかくすませたい。非常時であるから、垂れながしながら走るという選択もあるにはある。しかし、できるだけそれは避けたかった。


『お待たせしました。『神捨て』の儀、再開です。挑戦者・瀬川様は渕山様を殺して下さい。なお、渕山様が飲んだコーヒーは利尿作用を強化しています。最寄りの公衆トイレがお勧めの襲撃ポイントとなるでしょう』


 街全体に、防災無線かなにかの要領でろくでもないお知らせがもたらされた。メイの声で。ラジオのようなものであるから画像はないが、あれば怒りが限界を越えただろう。


「ふ、ふざけるな!」


 走りながら渕山は怒鳴った。結局は、メイも……ひいては博尾も……挑戦者に肩入れしているということではないか。


 記憶をたどっていくと、鈴木のときも佐藤のときも同じだった。丸腰のまま一方的に挑戦者の攻撃にさらされている。今回に至っては、瀬川がどんな武器を持っているのか知らない。


『なお、公衆トイレ以外での用足しはルール違反として即座に失格となります。ご注意下さい』


 渕山を見透かしたように、警告が加えられた。


「金はあるところにはある、あるところにはある」


 渕山を馬鹿げたゲームに縛りつけているのも金なのだが、莫大な報酬が待っているのだから断れない。


 動機はともかく、肉体的な問題は尿意だけではすまなくなってきた。佐藤に刺された傷がしつこく痛みを放っている。佐藤は佐藤、瀬川は瀬川で関係ないはずだ。


『お前、渕山っていうのか。渕山、公衆トイレはこの辺りに一軒しかないぞ。そこで俺の話を聞いてもらうからな』


 瀬川の言葉がメイの放送に割りこみ、汚物さながらに渕山の精神をしめあげた。


 あてもなく闇雲に足を動かしていると、ご親切にも公衆トイレへの道筋を記した看板があった。罠と知りつつ従うほかない。


 看板からはすぐだった。田舎町の公園にあるような木造建築で、外観からすれば掃除はいき届いているようだ。


 速やかに男子用へ進み、ついに用を足した。いつ瀬川がくるのか、びくびくしながらではあるが。


 少なくとも最優先の課題は処理できた。脇腹の苦痛はあいかわらずだが、まさか公衆トイレであらわにはできない。


 手を洗い、ペーパータオルを一枚使ってから外にでようとした直後。公衆トイレの戸口で瀬川とハチあわせした。


「ぎゃーっ!」


 自分で自分の悲鳴に驚きながら、渕山は回れ右して『大』の個室に入った。鍵をかけるのがどうにかまにあい、数歩遅れた瀬川は渕山がたてこもった個室のドアを何度も揺すったり叩いたりした。


「どうして逃げまわるんだよ! 俺は特別な薬を持ってるんだ! 注射じゃない! 飲むだけだ。楽に死ねるんだから協力してくれてもいいだろ! 飲み薬だから水もいらない!」


 自分勝手な理由を正当化したがるという点においては、瀬川も鈴木や佐藤と変わらない。


 いちいち答えるのも馬鹿らしい。それより、逃げる算段をどうにかしないと。室内になにか使えるものはないかと、まさに血眼になった。ようやくにも壁という壁をびっしり埋める落書きに気づいた。麻薬事件で逮捕されたAへの罵詈雑言がひたすら書き殴られている。もっとも、良く読むとAよりははるかに優れた腕を持つ自分がデビューできなかったのはけしからんという主旨のようだ。匿名だが、瀬川が書いたのは……または抱えている本心なのは……疑問の余地がない。


 個室の壁がガタガタ揺れ始めた。地震ではない。


「渕山!」


 壁と天井の隙間から、瀬川がにゅっと顔をだした。どこのトイレでも似たような造りだが、ある程度までの体格ならノブに足をかけてドアを乗り越えられる。


「わーっ!」


 鍵を外してドアを跳ね開け、渕山は今度こそ公衆トイレからでた。瀬川は一度壁から降りねばならないから、逃げる余裕はいくらでもある。本気になれば身体を鍛えている渕山の方がはるかに速い。


 街はどこにいても場所を当てられた。ならば、せめて多少なりと街から遠ざからねば。


 幸い、公衆トイレをでてすぐに小高い丘が見えた。まずはそこを目指すことにする。


 一度決心すると、ふもとまではあっさりといきつけた。頂上を見あげると、網やロープを使った遊具がいくつか構えてある。


 瀬川は追ってきているだろうが、公衆トイレよりはましな隠れ家が期待できるはずだ。ためらいなく頂上への道を登った。数分とかからなかった。


 ふもとで目にした遊具は、公園の一部だった。というより、丘の頂上そのものが公園として整備されていた。家族連れでピクニックを楽しめるような設計を意識しており、水飲み場もあればそれこそ公衆トイレもある。

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