第三章 秋柳ノ祓 其の三、

 第三章 秋柳ノ祓


 其の三、


 月明かりの下で、『化け柳のお屋敷』は静まり返っていた。


 柳の君が住む東の対の簀子には、侍女が朝からずっと見張り番のように座っていた。


 彼女の顔貌は乱れた黒髪に隠れて見えなかったが、目の前を一匹の蝿が横切ろうとした時、髪の毛の間からひゅっと、しなやかな鞭のように舌が伸びた。


 蛙のように長い舌を使って蠅を絡め取り、あっという間に口の中に含むと、喉元をごくんと上下させた。


 もう一人の侍女は、天井に両手足を張り付け、蜥蜴のように背中を見せて、四つん這いになっている。


〝怪愛ずる姫君〟から、それぞれ、『蛙』、『蜥蜴』、と呼ばれている侍女達である。


 最後の一人である昆虫の触覚を思わせる髪型をした『蝗』も、東の対の庭の前にぽつんと立ち、周囲を警戒していた。


 どうやら彼女達は柳の君が住む東の対を警備しているらしい。


 柳の君の父親、宗輔は人間離れした怪しげな侍女達の存在を知ってか知らずか、世を儚むように一人で晩酌していた。


 今宵、都は静寂に包まれ、『化け柳のお屋敷』に向かって、青い蝶が、ひらひらと舞っていた。


 青い蝶は『化け柳のお屋敷』に入っていくと、柳の君が閉じこもる部屋を目指して飛んでいく。


 もちろん、宗輔は青い蝶に気が付いていない。


 三人の侍女——『蛙』、『蜥蜴』、『蝗』も、青い蝶が侵入してきた事には全く気づいていなかった。


 ましてや、本当のところ、青い蝶が、蝶ではないという事には、気が付く訳もない。


 青い蝶は、屋敷の中庭で周囲を警戒する『蝗』を避け、天井に張り付いた『蜥蜴』の脇をすり抜け、出入り口の番をした『蛙』の頭の上を飛び越えて、ひたすら進む。


 柳の君が閉じこもる部屋の入り口を硬く塞いだ幾重にも重なる枝垂れ柳も僅かな隙間からくぐり抜け、誰にも見咎められる事なく入り込んだ。


 青い蝶は花びらが舞い落ちるように、静かに床に身を落ち着け、床に止まった姿は、ふくよかな香りがする、青い花弁、星型の花——まさしく、桔梗だった。


 桔梗は瞬く間に侍女の姿に変身し、目の前にちょこんと座った可愛らしい少女と見つめ合った。


 もう化粧をしていてもおかしくない年頃だったが、お白粉もせず、お歯黒もせず、眉毛も整えていないし、その髪も梳っているかどうか。


 何もしていない、なのにある種の美しさを湛えた容貌、どこかに神秘的な雰囲気さえ漂わせた少女の手元には、龍笛が置かれていた。


 ——間違いない、このお方が、柳の君。


「……そなたは?」


 柳の君は、桔梗が、突然、姿を現したというのに、眉一つ動かさずに聞いてきた。


「初めてお目にかかります。左京権大夫様の侍女、桔梗と申します。まずは、突然、お邪魔した非礼を深くお詫び申し上げます」


 桔梗は畏怖の念さえ抱いているように、深々と頭を下げた。


 もし本当に桔梗が彼女に対して畏怖を感じているとしたら、お香も焚かれていない室内の異様な光景に気圧されたからかも知れない。


 そう、柳の君は屋内にも関わらず、それも、季節は冬を迎えようかというのに、中庭に生えた枝垂れ柳と比べればかなり小振りだったが、それでも天井に届きそうなぐらいはある枝垂れ柳を背にして座っていた。


 この部屋には、なぜか、枝垂れ柳が繁茂し、そよ風もないのに木末が囁き、緑の匂いが充満している。


「私に何の御用でしょう?」


 柳の君は平安京でも並ぶ者がいないと言われる陰陽師、安倍晴明の遣いだという人ならざる者、〈式神〉の急な訪問にも、顔色一つ変えない。


「あまり驚かないのですね」


「独学ですが、陰陽道について勉強した事があります。その技、多少は理解できるつもりです」


 柳の君の瞳は透き通っていて、何もかも見透かしているようだった。


「それにしても、わざわざこんなところまでやって来るなんて……それもこれも、世話焼きの父上が、安四位殿に私の事を相談なさったからなのでしょう?」


「そこまでご存知であれば、お聞かせ願えませんか。柳の君はなぜ、お部屋に閉じこもっておられるのか」


「…………」


「夜な夜な龍笛を奏でているのには、何か理由があるのですか?」


「…………」


「もう一つ、お聞きしたい事があります。この部屋を覆った枝垂れ柳は、いったい、何なのですか?」


「——その前に私からも質問があります。父上は私の事を何と言っていましたか?」


「大納言様は姫君が誰かに呪われているか、何かよからぬものに祟られているのではないか、と」


「うふふ!」


 柳の君はふいに笑い出した。


「…………」


 桔梗は初めて年相応のものを見たような気がした。


「貴方の目には、私が誰かに呪われているように、何かよからぬものに祟られているように見えますか?」


 柳の君は屈託なく笑って、質問してきた。


「…………」


 桔梗はすぐには答える事ができなかった。


 柳の君は化粧こそしていなかったが健やかな美しさが感じられ、誰かに呪われているようにも、何かに祟られているようにも見えなかった。


 ましてや、禍々しいものなど、一切、感じられない。


 桔梗はふと、周囲を見回した。


 例え柳の君から邪気が感じられなかったとしても、彼女が一日中、閉じこもっているというこの部屋は、到底、まともだとは言えなかった。


 桔梗は今一度、柳の君の顔を見つめるようにして、考えた。


 ——柳の君は、本当に誰にも呪われていなければ、祟られもしていないのか?


 だが、どんなに考えたところで、答えが出る訳もなかった。


「——もう一つ、私から質問があります」


「は、はい」


「貴方は何者なのですか? ただの青い蝶から、人の姿に変わる事ができる貴方は?」


 桔梗はなんと答えればいいのか判らなかった。


「貴方は安四位殿がお作りになられた、〈式神〉なのでしょう?」


「はい」


「では、〈式神〉になる前は?」


「〈式神〉になる前?」


 桔梗の脳裏で一輪の青い花がそよ風に揺れた——五枚の青い花弁、星型の花。


「貴方は安四位殿の手で桔梗の花から作られた、桔梗の化身、桔梗の〈式神〉なのではないかしら?」


「仰せの通りにございます」


「やっぱり……今日、初めて出会ったばかりの私にも判りますよ。そう、どんな姿になろうとも、貴方は美しい」


「私が、美しい?」


「例えどんな姿になったとしても、貴方の本質は変わらないでしょう。貴方の草花としての魂は、その時、その時の季節を感じて、煌めき、輝くのですから!」


 柳の君は讃えるようにして言った。


「……?」


 桔梗は正直、戸惑いを覚えた。


「大丈夫ですよ。私の事なら心配には及びませんから」


 柳の君はいっそ子を思う母親のように優しげな顔をして言った。


「さあ、もうお行きなさい。これ以上、お話する事はありません」


 柳の君は龍笛に手を伸ばして、そっと口元に当てた。


「お待ち下さい! 左京権大夫様から、大切なお手紙を預かっております! どうか、どうかこれだけは!?」


 桔梗は慌てて懐から文を取り出して、なんとか手渡そうとした。


「安四位殿にもお伝え下さい。父上には迷惑をかける事もあるかも知れませんが、心配には及びません、大丈夫です、と」


 柳の君が龍笛を吹いた瞬間、枝垂れ柳が生い茂っている上に、閉め切られているはずの室内に、風がどっと巻き起こった。


 そして——、


「桔梗、か」


 青い蝶は『化け柳のお屋敷』から遠く離れたもう一つの曰く付きの屋敷、土御門小路にある晴明邸の一室を、ひらひらと舞っていた。


「どうだった、柳の君のご様子は?」


 晴明が興味深そうに聞いた相手は、すでに侍女に変身し居住まいを正していた。


「——そうか。こうなると、柳の君が陰陽道に通じているのは、事実のようだな」


「私が見た限りでは、姫君には何かに取り憑かれている様子は全くございませんでした。ご本人も左京権大夫様に伝えて欲しいと——『父上には迷惑をかける事もあるかも知れませんが、心配には及びません、大丈夫です』、と」


「他に何か変わった事はなかったか?」


「少なくとも、姫君には」


「私の手紙をお渡しする事はできたか」


「はい。ただ……」


「何だ、どうした」


「一つだけ、気になる事が……」


「と、言うと?」


「姫君のお部屋にはお香すら焚かれておらず、その代わりと言っては何ですが、話に聞いていた通り、部屋中に枝垂れ柳が垂れ下がり、緑の匂いが充満していました」


「『化け柳のお屋敷』と言われているぐらいだからな」


「あの枝垂れ柳は、まるで姫君をお守りするかのように……季節外れの、お化けのような枝垂れ柳です」


「まさしく、化け柳という訳か」


「はい……いったい、あれは?」


 桔梗は、柳の君が身を置いた、不可思議な部屋の光景が頭から離れなかった。


 ◇


 柳の君は、龍笛を奏でていた。


 桔梗が晴明から預かってきたという手紙は、板敷きの床に、封も切らずに、放っておいたままである。


 今更、目を通すつもりはなかった。


 返事など、尚更。


 室内には枝垂れ柳の匂いの他に、微かに桔梗のそれが残っていた。


 彼女は人の姿になっても、花の香りを失う事はなかった。


 ——では、私は?


 柳の君は自問した。


 ——私は変わり者として知られ、華やかな化粧にも、煌びやかな着物にも興味はない。


『どんなに華やかな化粧や煌びやかな着物で自分の事を飾り立てたとしても、その身に宿した魂までは煌めき輝く事はないでしょう?』


 家族はもちろん、周囲の人間に対しても事あるごとにそう言って、年頃の娘になっても、化粧っ気もなく、地味な着物に身を包み、日々、過ごしていた。

 柳の君に仕える侍女達は皆、彼女の事を裏で莫迦にしていた。


 柳の君が一風変わっているのは、化粧や着物に頓着しない事、それだけではなかった。


 彼女は近所の子ども達を使って芋虫や毛虫を捕まえ、虫籠に飼っていた。


『世の多くの人々は、一見、美しい蝶や花を持て囃すけれど、その成り立ちを見極めない事には、物事の本質は見えてこないんじゃないかしら?』


 柳の君は虫籠の中にいる芋虫や毛虫を覗いてはよくそう言っていたが、侍女達は後ろ指を指して陰口を叩いていた。


 父親である宗輔もいつまでもこんな事をしていては嫁の貰い手がないだろうと、苦言を呈した。


『私はただ自分の心に素直に、ありのままに生きていたいだけです。それで嫁の貰い手がないというのなら、いつか私の事を理解して下さる殿方が現れるまで、気長に待つ事に致しましょう』


 柳の君は誰に何を言われようと、自分の意志を曲げようとしなかった。


 その年の春も、『柳のお屋敷』は立派な枝垂れ柳に彩られ、柳の君もまた、変わらず龍笛を奏でていた。


 長閑な午後、麗らかな陽射しが降り注ぎ、そよ風も気持ちよく、枝垂れ柳が揺れる葉音も心地がいい。


 柳の君の元に、侍女がいやに笑顔を浮かべて、一通の手紙を携えてやって来た。


「どなたからのお手紙かしら?」


 柳の君は手紙を受け取り、文机の前に座った。


「殿方からでございますよ。差出人は、右馬佐様にございます」


 侍女は変わり者の姫君に殿方から手紙が届いた事が面白くて仕方がないという顔をして、暗に、『恋文』だと告げた。


「——右馬佐様」


 柳の君は見世物扱いされている事を知ってか知らずか、手紙の封を切った。


 だが、手紙を広げた途端、中から飛び出してきたのは、一匹の蛇、だった。


「…………」


 柳の君の顔から途端に表情が消えた——醜く恐ろしい姿をした蛇が、文机の上に、ぽとりと落ちた。


 いったい誰が思うだろうか、初めてもらった恋文を開けた途端、中から身の毛もよだつような恐ろしい蛇が飛び出してくるなどと。


 これには柳の君を冷やかそうとしていた侍女も、同じように興味本位から陰に隠れて覗き見していた侍女達も、皆、驚いた。


 悲しいかな、柳の君が生まれて初めて異性からもらった手紙は、絡繰り仕掛けの一匹の蛇が同封された、あまりに悪ふざけが過ぎたものだった。


 これこそ巷で噂される柳の君の変人振りにからかう事を決めた、右馬佐が仕掛けた悪戯だった。


 柳の君はしばし、呆然としていた。


 こんな目に遭うのも普段の行いが行いだからと聞こえよがしに言う者もいれば、変わり者で知られる彼女が一本取られた事に笑いが堪えられない者もいた。


 柳の君を思いやり寄り添おうとする者は、誰一人としていなかった。


 実の父親である宗輔でさえ、これが男女の作法だからと、先方に失礼のないように、早いうちに返事を書きなさい、などと申しつけるばかり。


 彼女は父親に言われた通り、仕方なく文机に向かったが、心中は如何許りか。


「…………」


 屈辱——その一言に尽きた。


 ——私はこれから先もこんな仕打ちを受けながら、惨めに生きていかなければならないのかしら?


 柳の君は龍笛の旋律で磨き上げたはずの己の魂が、ずたずたに引き裂かれる思いだった。


 ——人の身である限り、女の身である限り、こんな事が繰り返されるのかしら?


 柳の君は不安に駆られ、焦燥感に襲われた。


 ——もし、そうだとしたら?


 いつもならすらすらと流れるような筆捌きが千々に乱れた。


 ——どうする?


 都には、稀代の陰陽師、安倍晴明がいる。


 ——どうすればいい?


 陰陽師は陰陽五行に通じ、〈式神〉と呼ばれる鬼神を操る術を心得ているという。


 使い方によっては自分自身の姿形も変化させる事ができるとか。


 ——だとしたら私は……。


 柳の君は自分が書き上げた形だけの手紙が見るに堪えないとでもいうように、文机から視線を逸らした。


 そよと吹いた風に誘われるように彼女が視線を移したその先、目に飛び込んできたのは、春の陽射しに新緑美しく柔らかな枝振りを見せる、枝垂れ柳だった。

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