ネクタイの結び方

 ある日の早朝、貴志くんがスーツ姿で我が家に現れた。


「あら、どうしたの~、スーツなんて持ってたのねえ」

 母が、のほほんとした声を出す。


 いや、それどころじゃないでしょ!


 いつものジャージ姿を見慣れているせいか、細身の黒いスーツを着た貴志くんはやたらとカッコよく見える。

 気のせいか、いつもは猫背気味なのに背筋だってピシッと伸びている。

 そういえば、貴志くんて金持ちのお坊ちゃんなんだっけ。あまりに庶民的だからつい忘れちゃうけど。


「親から連絡があって、親戚の葬式に顔を出さなきゃいけなくなったんです」 

「大変ねえ。でも、ネクタイがよれよれよ」

「苦手なんですよ、結ぶの。何回やっても綺麗にできないから、やってもらえませんか?」

「いいわよ。意外と不器用なのね」


 母が貴志くんのネクタイに手を伸ばす。


「あ!」

 思わず声が出た。

「どうしたの、葵?」 

「……なんでもない」

「あ、そっか。貴志くん、ちょっと待っててね」


 母はわたしを部屋の隅に連れて行った。

 貴志くんに背中を向け、ふたりで話をする。


「ごめんごめん、嫌だったよね。でも、どうしようか。あのままだと恥かいちゃうかもよ?」


 うぬぬぬ。それはダメだ。


「わかった。今回はやってあげて。次からはわたしが出来るように練習しておくから」

「うふふ、いつでも教えてあげるからね」


 そうして母が慣れた手つきで貴志くんのネクタイを結び直すのを、わたしは黙って見ているしかなかった。


 くやしい。なんとしてもネクタイ結びをマスターせねば!


 ***


 その日の放課後は、図書室の当番だった。

 いつものように、重松くんとふたりでカウンターに並ぶ。


 窓から西日が射し始め、図書室の中にふたりきりになった。

 今ならいいかな。


「重松くん、ネクタイの結び方教えてくれない?」

 わたしは重松くんに頼んだ。


 うちの学校の制服はブレザーなので、女子はリボン、男子はネクタイ着用が義務づけられている。


「えー、なんでだよ」

「結び方、覚えたいの。お願い!」

(お母さんに聞くのはなんか悔しいんだもん)


 手を合わせて頼むと、重松くんは「しょうがねえなあ」と文句を言いながらも、自分のネクタイをほどいて結んで見せてくれた。


「これをこっちにまわして、くるくるっと巻きつけたらここに入れて、キュッとするんだ。わかったか?」

「おお。上手いもんだね」

「毎日やってれば誰でも上手くなるよ」

「あ、ちょっと、わたしにやらせてよ」


 わたしは重松くんのネクタイに手を伸ばした。


「ちょ、ちょっと待て。今、はずすから」

「はずしちゃダメだよ! 結んであげる練習なんだから」

「だれに? もしかして、例の小説家か?」

「そうだよ。まだ卵だけどね」


 わたしは答えながら、必死にネクタイと格闘する。


「上手く出来ないなあ。途中まではいいんだけど、最後のキュッが難しいんだよねぇ」


 何度も繰り返していると、重松くんがハアとため息をついた。


「あ、ごめん。疲れちゃった?」


 そういえば、首筋が赤くなってる。


「ごめんね。これで最後にするから」


「いや、いいんだけどさあ……これ、ちょっとした拷問ごうもんなんだけど」

 重松くんが何かボソボソと呟いた。


「え、なに? よし、きれいに出来た! ありがとう、付き合ってくれて」


「ハア。もう、帰るぞ」

 ガタリと席を立つ重松くん。


「ちょっと待ってよぉ」


 わたしはスタスタとドアに向かう重松くんのあとを慌てて追いかけた。


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