私ともつ鍋、外にいるふたり




 待ち合わせの三十分前に家を出て、要町通りを池袋駅に向かって歩いていく。ゲオやセブンイレブンなどがある大きな交差点を渡り、以前はときどき立ち寄っていた台湾カフェや味噌ラーメン屋を通り過ぎる。このご時世のためか、どちらの店舗にも活気はない。こういうお店さあ、今さあ、きっと大変だろうねえー。薄いベージュのカーディガンを羽織った仕事帰りらしき女性が、隣を歩く縦縞スーツの男にそう言いながら通り過ぎていく。


 駅に近づくにつれ、徐々に人の密度は高まっていく。こういうところで地底人が発生したらどうなるのだろう。今のところ地底人は閉鎖的な空間での目撃例や被害がほとんどで、外や道端などの開けたところでは発生しないか、もしくは凶暴性が薄まると聞いている。でもそれは前例がないというだけで、実際には私も含め、ここにいる人は皆が皆、命の危険にさらされている。交差点で対岸のビルにくっついている大戸屋の看板を眺めつつ、同じように信号待ちをしている人に目を向けた。その七割くらいが、ぬれせんべいを首から提げ、花粉症やインフルエンザなどを予防するためのマスクを顔に貼りつけている。花粉症はともかく、地底人などは命に関わることなのに、こんな状況でも人々は普段の営みを止めることができないでいる。自粛だの発生予防だのといった無機質で雲のように軽い言葉で、休日や仕事終わりの気晴らしを奪われてもなお。


 信号が青に変わり、なんとなく間隔を保っていた人々がぼろぼろと崩れて道を渡り始める。もう殺されるときは殺されるよ。鮎子が言ったその言葉が頭の中で反芻される。なんだか、ひどく漠然としていて実感がない。

 人混みを避けるため、メトロポリタンのほうへと歩みを進めて地下道に入り、東武の地下駐車場の前を通って東口へ出た。ある程度人は減ったものの自粛要請前とほとんど変わらない気がする人混みをすり抜け、待ち合わせ場所である西武の水玉模様の壁に寄りかかる。電車の到着などに合わせて多くの人が目の前を通り過ぎ、私と同じように誰かを待っていた人を捕まえていく。待った? ううん。地底人怖いよねー。ねー、ほんと。大部分の人がこのような言葉を交わしながら夜の池袋へ消えていく。どこからか漏れ出す下水のにおいに混じり、焦げた醤油の香りが辺りに立ち込めていた。


「ごっめん、お待たせー」

 しばらく携帯をいじり、七時を三分ほど回ったところで鮎子がJR改札に続く地下階段から現れた。体をすっぽりと覆うサイズの黒いパーカーの袖をはためかせ、丸っこい革靴のラバーソールを床に打ちつけながらこちらに近づいてくる。胸元にはしっかりとぬれせんべいが輝いていた。

「うっす鮎子。直接会うの久しぶりだね」

「ねーほんと久しぶり。十二月にゼミの何人かで集まったとき以来だっけか」

「うーん、たぶんそうだと思う。地底人怖いよね」

「怖いよねーほんと。じゃ、いこっか」

 ごめん、ちょっと仕事が長引いてて八時くらいになりそう、どっか入ってて、という由依の連絡を読んでいたため、私たちはそのまま駅の明るみを抜けて夜の街へと繰り出した。そういえば、彼女ともゼミ仲間で会ったときぶりの再会となる。今回の飲み会メンバーの中では唯一正社員の立場にいる子で、たしか健康食品だかなにかを製造している企業の総務担当として働いているはずだった。


「いやさーでもほんと、なんか気軽に出歩けなくなっちゃったよね。年明け前とか正月くらいまでの生活が懐かしいっつうかなあ。バイトも削られるしさ」

「うん。私も面接延期になっちゃってさ、ついこの間まであれだけ受けるの嫌だったのに、いざこんな感じで自粛自粛自粛になったら急にありがたく思えてきた」

 横断歩道を渡り、百円ショップの前を通り過ぎながらぽつぽつと言葉を交わす。寒さに身を縮めるハッピを着たカラオケの呼び込みをすり抜け、のれんがかかったガラス戸を引き開ける。一瞬だけ身構えてしまったが、それは杞憂に終わった。お世辞にも広いとはいえないが狭いともいえない店の中には、まだ二グループしかいなかった。席にひとつずつ設けられた銀色のカセットコンロが、なんだかとてもむなしく見える。


「予約していた山下です」

「お待ちしていました。もつ鍋三人前ですよね。もう用意してよろしいですか」

「あ、お願いします。もう一人は後で来ますんで」

 席に座りながらおしぼりを受け取ると、机の中心にあったコンロに巨大な鍋が置かれた。山の形にどっさりと盛りつけられたニラの緑が目にまぶしい。お腹がきゅうっと情けない声をあげる。今すぐこの奥に収められているであろうもつを取り出し、歯ごたえと染み出す脂を楽しみたい。


「はあー、お腹すいた。あ、ここで大丈夫だった? もっと広いところにしようかなって思ったんだけど、学生だらけで超うるさいところしか思いつかなくて」

「ぜんぜん大丈夫だよ。むしろもつ鍋なってグッドチョイスかも。この前はイタリアンバル、とか言ってるところだったじゃん。見た目ばっかでクソまずかったとこ。モヒートはほぼ炭酸水だったし」

「なにそれ、幹事だったわたしに対するイヤミ? ごめんて。まさかインスタ映えだけしか考えてないとこだって知らなくってさあ。ここは絶対当たりだから。三年のときに付き合ってた彼氏と来たことあんだよ。あいつ男としては最低だったけど舌だけは信用できたんだよなー」

 話の流れが、現在とは関係のない過去へ向かっていく。注文したお酒やおつまみなどが運ばれてきては消費されて、ニラが芯を失って鍋の中に沈んでいくごとに、私たちはどんどん今を忘れていった。鮎子の元カレの話、私が入学したての頃にまったく友達ができなかった話、鮎子が結局入らなかったヤリサー同然のダンスサークルの先輩を新歓飲みで三人潰した話。頭の中に格納されている、地底人や社会情勢などのあらゆる不純物の存在しない美しいものが、お腹が満たされていくのにつれてあふれ出す。


「おっ、盛り上がってんね」

 そのさなか、突然肩を叩かれる。

「由依!」

「おっそいぞーお前ー」

 黒い髪の毛を短く切りそろえ、紺のジャケットにグレーのスラックスを身にまとった由依は、ほのかに酒臭くなった鮎子のスキンシップをいなしながらその隣に腰を下ろした。ぴしっとしたその姿は清潔感にあふれていたが、目元には化粧では隠し切れない隈がうっすらと浮かんでいた。

「クソババアに言ってよ。ほんっとむかつくあいつ。シャーペンで目ん玉ぶっ刺してやりたい」

「なに、上司か」

「そうそう。あたしは今日このあと用事があるんです……ってやんわり伝えてたのにさ、受注伝票の確認作業ちゃっかり私に全部押しつけてあいつだけ定時で上がりやがって。まあ残業はある程度しかたないけどさ、でも自分が用事あるときは有無を言わさず帰るんだよいっつも。マジむかつく。それにですね、あたし、というか部署の皆も知ってることなんだけどね、そいつ、旦那さんと子供いんのに取引先の営業の男と不倫してんの」

「ひょえーっ」

「しっかしいい歳して体も下も元気そうでいいことだよねまったく。こっちは出会いもなければ恋愛をする暇すらないっつうの」

「まあまあ、由依。とりあえずなにか飲も」

 ドリンクメニューを私が差し出すよりも早く、彼女は店員を呼んで注文を済ませていた。ほどなくしてハイボールが運ばれてくる。


「え、えーと、まあ、久しぶりアンドお疲れ様です、ってことで」

 かんぱーい。由依の音頭で勢いよくグラスが打ち鳴らされ、おのおのの注文したお酒が喉に吸い込まれる。梅の甘みとアルコールのにおいが鼻を突き抜けた。

「はあ、やっぱりクソ上司から解放された状態で飲むお酒はうまいねえ」

「わかるわー。わたしもうざい社員のストレスを酒で洗い流してる。家で」

「え、バイト削られたんでしょ。まさか朝から飲んでるの。お金なくなるよ」

「まあ、ない日は朝からかなあ。どうせ家ですることないし」

「それアルコール依存症まっしぐらコースよ。ネットで見た。ていうか漫画はどうしたの漫画は」

「地底人が作ったこの社会情勢とか恐怖のせいで描けません。アイデアがさっぱり降りてこないの。同人イベントも中止になっちゃったしさあ。やっぱり創作って自分が安定してないとできないんだな……」

「甘ったれんな。こっちは実家暮らしで、毎日毎日私が『種』を万が一にも家に持ち込んだらどうしようって心配なんだから。親殺しだよ親殺し。楽しみにしてた演劇とか軒並み中止になっちゃったし最悪よ。まあ、私自身はまだ大丈夫だとは思うけど」

「わたしは自分がしんぱーい。ついこの間まで画材屋のバイト週四で出てめっちゃいろんな人と濃厚接触したし。全員じゃないけどさ、一部の人ってマジでぬれせんべいを商品に触れさせてもぜんぜん平気な顔してんだよ。ありえねえよほんと。『種』ついてたらどうすんのかね。おまけにマスクもしてないし」

 ふたりの話に共感できるふしはいくつもあったが、それを示していいのか疑問に思って私は無言を貫いた。仕事もバイトも夢を追うこともせず、ただ自分の体をワンルームで健全に隔離している私が、この会話に入っていいものなのだろうか。


 店の壁に取りつけられたテレビを横目で盗み見る。ニュース番組で、地底人による被害を抑えるため、小学校と中学校、公立高校の休校期間を延長することを決めた県のことが取り上げられていた。高校生らしき子たちの胸元を映したインタビュー映像が数度流れたのち、画面はどこかの家庭のリビングに切り替わる。その中で、リポーターとその家の家族がカメラに体を向けて座っていた。どうやら、端にいる小学生二人が休校延長になったことについて意見を求めているらしい。彼らが家でゲームをしたり友達と遊んだり、母親の電話によって学校で渡された課題にしぶしぶ手をつけたりしているVTRが要所要所で流れ、固い微笑みを浮かべた母親が、不安です、地底人が、勉強が、ゲーム依存症が、命が、というような心中を吐露していた。


 思えば前にも、こんな雰囲気の中継を見たことがある気がした。いったんすべての視線をお互いの上司の愚痴で盛り上がっている鮎子たちに戻し、私は考える。梅酒を飲み、塩気と脂の強いスープをニラと絡めて口に運ぶ。そうしていると、中学生のときの新型インフルエンザ流行のことに思い当たる。















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