第四章 逃げ延びろ!

第25話 体育の授業

 高校に入って初めての体育の授業で僕らは再び体操場へ入った。

 なんでも倒立の手本を体操経験者でカエル顔の春日と筋骨隆々な若林が見せるらしい。倒立って逆立ちのことだったよな。両手を突いて体を逆さまにする。


 仁科は興味なくその様子を眺めていた。まあヒーローが逆立ちをしている場面なんて観たこともないからな。


「先生、僕たちの後にしなくんとたつみくんに倒立を披露させてくださいませんか」

「どうしてだい、若林くん」


「いえ、うちのエースで全日本選抜の高村弓香さんがそのふたりに体操部入りを勧めていたくらいですので、このくらいわけないかと」

 体操教師が僕らを探しているようだが、初対面なのだからわかるはずもなかろうに。

「仁科くんと巽くん、いたら手を挙げなさい」

 仕方なく僕と仁科は手を挙げる。

「次に実施してもらうから、春日くんと若林くんの倒立をよく見ておくんだ」

 ふたりの魂胆はわかっている。僕たちに恥をかかせて体操部に入れないようにしたいのだろう。

 こっちはもう用はないんだから、いくら恥をかこうとかまわないんだけどな。


 春日と若林がゆっくりと倒立を始めた。

 体がまっすぐ立った綺麗な倒立姿勢である。それを見ていて少し違和感を覚えた。

 逆立ちは中学校までの授業でも出てきたし、僕らはあまり長くできなかったほうだが、どうも僕らの逆立ちとは異なっている。

 オリンピックで体操選手が行なっていた、ピンと張った綱のようで身じろぎもしない。


 具体的にどこが違うのだろうか。僕はよく観察してみた。

 両手は肩幅に広げているからこれは同じ。いや、僕より若干狭いかな。

 手のひらは平行に置かれていて、肘も曲がっていない。中学までの逆立ちでは皆肘が曲がっていたんだけど、ふたりは肘もまっすぐだ。

 そして肩周りを見たが、かなり柔らかいのか肩も曲がっておらずまっすぐだ。

 あれなら手のひら、肘、肩までまっすぐ体重が載っているはずだ。体重が載っている、か。胸や腰、足先までもが一直線に揃っている。

 もしかすると倒立とは、それぞれのパーツの重心を一直線に保つのがコツなのではないか。

 だとすれば肩周りが固いとちょっと窮屈な体勢にならざるをえないのだが。


「仁科、ちょっと練習しておこう」

「ああ、いいけど。どうせ失敗して恥をかくだけなんだから」

「いや、コツがわかった」

「本当か?」

 見つけ出したコツをヒソヒソと伝えると、仁科はぜんやる気が出たようだ。

「それが本当なら、逆にあいつらに恥をかかせられるかも。お前、けっこう意地が悪いな」


 コツどおりに体を動かすには相応の筋力が必要だ。でも、一度体重がまっすぐ載れば、後は体をまっすぐに保つだけの簡単な作業になる。

 だから体重がまっすぐ載るまでの流れをふたりで確認しておく。


「よし、春日くんと若林くん、もういいだろう。次、巽くんと仁科くん。前へ出てきて、手本を見せてもらおう」

 なんとか体重をまっすぐ載せるコツをつかんだところで指名された。これならあのふたりに恥をかかせられそうだ。

 体育教師の義統先生がホイッスルを鳴らした。


 まず両手を肩幅に開き、肘、肩の重心が手のひらに載るように揃えていく。その状態を意識して両足を蹴ってバランスをとりながら胸、腰、足の重心をその上に載せていく。最後に体を締めた。

 僕は肩周りがロックされてしまいかなり窮屈なのは確かだ。

「う、嘘だろ……。なんで完璧な倒立ができるんだよ……。ド素人じゃなかったのか?」

 仁科がいったん崩れたものの、めげずにもう一度倒立を行なう。

「よし、巽くんと仁科くん、そこまで。さすが女子エースが入部を進めるだけのものがある」

 僕たちは倒立を終えて列に戻った。

 さすがに経験者ふたりに恥をかかせることはできなかったようだが、これから先、余計なちょっかいを出してくることもなくなるだろう。


「今日はこのあと、基礎データをとるからな。立位体前屈、伏臥上体反らし、反復横跳び、垂直跳びの順に行なうぞ」

 柔軟は得意じゃないんだけどなあ。仁科はスポーツ万能なだけあって柔らかい体をしているけど。まあ垂直跳びで点数を稼いでおくとするか。




 柔軟系では体操部の春日と若林がさすがに強さを見せたものの、仁科もそれに迫る記録を叩き出してふたりを慌てさせた。

 反復横跳びはバスケ部と仁科がトップを競った。


 そして僕が最も得意とする垂直跳びだ。あえて最後に跳躍するよう義統先生に願い出た。

 陸上部やバスケ部でも七十センチ台。春日と若林も七十センチ台でトップを競っていた。仁科は八十センチだ。これでスポーツ部に一泡吹かせたろう。

 僕は体をほぐして順番が来るまで待っていた。

 そして最後に跳躍して百センチを叩き出す。

 これで春日と若林のふたりを上回り、今後記録を争おうなどという不毛な戦いを挑まれずに済むだろう。


「巽、テメエなんで百センチも跳べんだよ。なにかインチキしているのか?」

 春日が絡んできた。いくら威張ろうと、背丈はこちらが上なのだからあまり圧迫感はない。


「どうすればインチキできるんだよ。ただ立って、ただジャンプするだけだろ」

「それで百センチ跳べる高校生はいないんだよ!」

「いいものが見れてよかったじゃないか」

 ふたりは悔しがりながら列へ戻っていった。


「やっぱり跳躍系は巽に負けるよな。根本的な鍛え方が違うんだから」

「体操選手って我こそ運動神経の塊だ、くらいの自惚れがあるだろうからな。敵わない相手に出会ったことがなかったのかもね」

「まあ俺も百センチ跳ぶコツを教えて欲しいくらいだけどな」

 仁科も百センチには感嘆していた。


「こればかりはコツじゃないんだよ。これまでどれだけジャンプしたか。高さと回数の問題だね」

「小学二年からの通算回数なら、絶対に誰にも負けないよな、お前は」

「それが僕の思春期だったからね」

「集中力が並外れているし、さっきの倒立みたいにコツを見抜くのもうまいし」


「失敗は成功の母ってところだな。経験知だけは体に詰まっているからね」

「あのバク転とバク宙の失敗したことが、高校になってやっと花開いたって感じか」

 ちょっと違うような気がしないでもない。


「たぶんだけど、中学のときに石井さんに連れられて青天体操教室に行って花開いたのかもな」

「本物の体操と遭遇して意識が変わったってわけか」

「そんなところかな」

「やっぱりお前、体操やりたいんじゃないのか?」

 訝しむような声色と視線を感じた。


「いや、ただ憧れていただけだね。コーチを見てすっかり幻滅したけどな。もっとヒーローっぽい人だったら体操を続けたかもしれないけど」

「お前の基準ってやっぱりヒーローなのか、今でも」

「当然! 暮らしを脅かす悪と戦う正義のヒーロー。今でもそうなりたいって気持ちは変わらないよ」


「それじゃあ次は格闘技でも習うか? 空手とかカンフーとか」

「空手は勘弁かな。根性論って嫌いだから」

「じゃあカンフーだな」

 カンフーも憧れるけど、問題もあるんだよな。


「でもうちの近くにカンフー道場なんてあったかな? お前知ってる?」

「いや、知らねえな」

「まずはそこを探すところから、だな」



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