RD令嬢のまかないごはん

雨愁軒経

開店準備 - prologue -

「うん、いい感じ。医者は真っ青越えて白くなるわね!」


 エリカはトマトの房を手に取って頷き、ひとつをもぎってがぶりと噛みついた。

 パリッと張った皮から甘みが弾けてきて、口の中にたっぷりと濃い香りが広がる。ゼリー部分をちゅっと啜れば、瑞々しい空気を含んだ爽やかな酸味が鼻を抜けていく。


「んー! これこれこれぇ! やっと会えたわねトマトちゃん! ……ほんと、日本ってどんだけ恵まれてたのよって思うわあ」


 しゃくしゃくとトマトにかぶりつきながら、エーリカは朝の陽射しに手を翳しながら景色を一望した。

 ここは山の麓のなだらかな土地を切り拓いて作った畑。土地を所有するのは、エリカの生家であるシアリーズ家だ。家を飛び出した身としては少々複雑ではあるけれど、使えるものはなんだって使うとエリカは割り切っていた。


 すべては頑張る人のため。

 例えばそう、あんな風な――


「おー、頑張ってるね」


 山の木々の間を飛び交うように動く金色に、エリカは背伸びをして目を凝らした。

 金色は、青年の髪の色だった。剣の稽古をしているようだ。繊細なシルエットから放たれる鮮烈な剣技は、蓮の花から伸びた金色の蕊が鳳凰となって飛び立ったような雄々しさと優美さをを秘めている。


 エリカはそれに見惚れながらも、別の意味を孕んだため息を漏らす。


「うーん、もったいないなあ」


 顔立ちまでは見えないけれど、多分、顔は私のストライクゾーン。ただ如何せん、線が細すぎるきらいがある。あれでも十分『現代日本』のスポーツシーンなら上位に食い込むことはできるだろうけれど、この世界での騎士としては少々頼りない。いくら平和な世であれ、だ。

 何より、筋肉のたくましい男の方が私好みだし。


「ちゃんと食べてるかー?」


 独り言ちる。別に声を届けようというわけではなかった。ずかずかと踏み入って押し付けるのでは、ただのエゴでしかないから。

 ただいつか、貴方が私の店にいらっしゃる日があれば、その時はめいっぱいのおもてなしでお迎えさせていただきます。

 頑張る人の背中を押すのが、RD――管理栄養士レジスタード・ダイエティシャンだった私の喜びなのだから。


「(もっとも、それで過労死してりゃあ世話がないんだけどね……)」


 苦笑気味に肩を落とすと、対照的に明るい声が斜面を吹き抜けて来た。


「エリカさーん。こっちの収穫、終わりました!」

「お疲れ様、ナタリー」


 頭が隠れそうなくらい籠いっぱいに野菜を抱えた少女は、ナタリー。エリカの店の近所に住んでいる元常連で、好きが高じて店のスタッフにまでなってしまった愛い奴である。


「はい、トマトをどーぞ。ちょっと休憩してから帰ろう」

「いいんですか、いただきます!」


 小さな口でトマトに噛り付いたナタリーは、まん丸に見開いた目をきらきらとさせて、咀嚼さえ忘れた様子でうっとりとしてくれている。

 それをエリカは、誇らしい気持ちと悪戯をする気持ちが半々のニヤニヤで見守る。


「(ふふふ、貴女の口ではまだゼリー部まで届いていない。トマトの真の風味はこれからなんだから)」


 元の世界でもこちらの世界でも姉しかいなかったエリカにとって、妹のようなナタリーの存在は日々の癒しになっていた。

 彼女がトマトに夢中になっている間に、エリカは土物野菜をこちらの手籠に移し、トマトでいっぱいの籠を背負った。


 帰り道をゆったりと歩きながら、ナタリーが余韻に頬を緩める。


「トマトって、もっと酸っぱいものだと思ってました。堆肥であんなに変わるんですね」

「でしょう? って、門外漢の私が言うのもなんだけれどね。まあ言い換えれば、まだまだ伸びしろがあるってことで」


 この世界にも、土に肥料をやるという手法はあった。けれどそれらは家畜の糞尿を畑に撒くだけのような原始的なもので、エリカからすれば歯痒いものだった。

 そこで糞に倒木の皮や枯れ葉を混ぜ、きちんと発酵・腐熟の期間を与えて育てたものが、今の我が子はたけの土壌となっている。一度の肥料つくりに約半年もの時間が必要とあって、中々に骨の折れる子育て。九つの頃に志し、気が付けば十年が経ってしまった。


「これ以上があるんですか……?」


 涎が垂れるんじゃないかというくらいに、ナタリーが頬を蕩かせる。まるで恋する乙女の顔である。

 エリカはくすりと微笑んで、そよ風に目を細くした。


 恋っていうものは甘いらしい。

 私からすれば、あれは酒だ。すっと五臓六腑に染み込んで来ては、正常な判断を奪ってしまう甘美な毒。足下が覚束なくなって、傍目には明らかに変になっているのに、自分は夢見心地で千鳥の舞に耽る愛の余興。


 とかく人は昔から、何でも食に擬えてきた。

 青い春は甘酸っぱく、失敗は苦く、日々は世知辛く、他人の不幸は蜜の味。感銘を受ければ味わい深く、挑戦は歯ごたえがあり、言いたいことは呑み込んで腑に落とす。

 そうやって酸いも甘いも噛み分けられれば、人生に厚みが出るのだそうだ。


 バカみたいと、エリカは思っていた。

 要らないものまで無理して食べて、生活習慣病メタボリック・シンドロームになっては本末転倒でしょうに。


 口にするものは美味しくあるべき。

 もちろん、言うだけなら簡単ってことは重々承知。

 けれど、苦渋や辛酸を耳障りのいい砂糖イイワケで丸め込んだゲテモノスイーツじゃ、コーヒーで流し込んでも、胃の奥から咽返ってくる後悔ニオイに耐えられないから。


 今日を頑張る人たちが後味よく前を向けるように、長い歴史の中で編み出された魔法がある。



 それが、料理だ。



 目を楽しませ、舌を楽しませ、腹と心を満たし、人を笑顔にしてくれる魔法。

 それを唱えるためなら、私はどんな努力も厭わない。


 自宅兼店舗である巣に戻り、ナタリーとかわりばんこにシャワーを済ませ、エプロンに着替える。分担して下拵えをして、コトコトと煮込まれた美味しい匂いが店中を満たす頃には、いい頃合いに太陽が昇っていた。


「小日向亭、開店します!」


 軒先に看板を立てて通りに呼びかければ、さあ、新しい一日のスタートだ。

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