銀河のお姉さん

朝吹

銀河のお姉さん 前篇


 新緑の陰が道路を染める。近年の初夏は気温が高いが、めずらしく涼しい風のある土曜日だ。翠色のセロファンで包んだような明るい街を朝から子どもたちが走り回っている。

 隼斗はやとはマンションの外に出てコンビニまでの道を歩いていた。昨夜は酔いつぶれて起きたのが朝十時。隼斗の室に昨晩転がり込んで来た尾崎はまだ寝ている。

 大学の友人の尾崎はビール缶を次々と空にして、うんざりした顔をしていた。

「粘着質な上に話がまるで通じない。メンヘラ女は駄目だな」

 一晩かけて隼斗は尾崎の別れ話の顛末を聴かされた。用意のビールでは足りず、途中で隼斗はコンビニにビールとつまみを買いに行った。学生用マンションの近くに二十四時間営業のコンビニがあると何かと助かる。

 突如としてアラートが街中に鳴り響いた。

「またか」

 周辺の通行人もぎくりとして端末を取り出している。外国から弾道ミサイルが発射されたのだ。

 すぐに『訂正』のお知らせが画面に表示された。防災無線も止まった。いつものことだ。

「狼少年みたいだよなこのアラート」

 静かになった端末をしまって隼斗は横断歩道を渡ると昨夜の買い出しからちょうど十二時間ぶりに同じコンビニに入った。学内の顔見知り程度だった尾崎とはこのコンビニを通して仲良くなった。

「尾崎。前からここでバイトしてたっけ」

「居酒屋からのジョブチェンジ。夜型から朝型に変えようと想ってさ」

 尾崎のところは潤沢な仕送りがあるのだが社会勉強と称して尾崎は自らさまざまなアルバイトをしている。

「そちらで酒類販売の年齢確認をお願いします」

「お前、俺の年齢知ってるだろ」

 笑いながら、二十歳以上かどうかを問う画面のYesを隼斗はタッチした。

「ありがとうございやっしたー」

「居酒屋が抜けてないぞ」

 それから尾崎と仲良くなり、コンビニから近い隼斗の家にバイトがはねた尾崎がしばしば立ち寄るようになった。昨夕もそうして尾崎がやって来て、酔うままに泊まっていったのだ。


 朝食兼昼食の材料と、新製品のスイーツを入れたエコバッグをぶら下げて、隼斗は来た道を戻っていった。日光に温まった心地よい風が吹いており、風とおしゃべりをするような軽やかな音を並木の若葉が立てている。

 この辺りだった。

 隼斗は街路で少し歩みを緩めた。眼を凝らしても舗装された道にその痕跡は何もない。あの夜、氷柱のような雷が激しい光を放ちながら眼の前に落ちてきた。それを知るのは隼斗とそよぐ樹々だけだ。

「なかなかの修羅場じゃん」

 昨夜の尾崎いわく、相手の女がストーカー化したそうだ。

「男が『君とは終わった』と云ったら復縁はないことくらい知っとけヤリマン。着拒したら待ち伏せされた。勝手に期待値だけ高めて、それでヤリ捨てなんて云われたらたまらんわ」

「その呼び方は酷くないか」

「ヤリマンが駄目なら愛情飢餓タイプ。最初は愉しくていいんだよ。そういう子は無防備ですぐに懐いてくるからさ」

 戻ってきた隼斗は土鍋を出して出汁をはり、コンロにのせた。レトルトの白米を軽く水で洗って土鍋に入れる。寝ていた尾崎は起きていた。

「その飯もらったら帰るわ。あれから体調はどう、隼斗」

「特に何も」

 半月前、隼斗は海で溺れかけたのだ。しかしその前後の記憶がまるでない。

 卵を割ると、隼斗はテレビを観ている尾崎に声をかけた。

「昨夜の話だけど、今後は期間限定だと云っとけよ」

「遊びと本気の区別がつかない子がいるんだよな。なんで割り切って楽しい時間を過ごせないかな。メンヘラはパパ活の方が向いてるわ。まあ俺も勉強になった。隼斗、なんか声がしなかった?」

 メンヘラってなに。

 尾崎が部屋の中を見廻している。「出来たぞ」隼斗は鍋敷きを用意した。

「土鍋ごとそっちに持っていく。問題は器が足りない」

「いいよ、適当な皿で」

 隼斗が作った卵雑炊を、二人の大学生はまたたく間に食べつくした。

「なあ、今からドライブに行かないか」

 尾崎は両親から贈られた車をもっている。

「悪い。今日はこれから用がある」

 ペットボトルの茶を呑みながら隼斗は尾崎に断った。

「午後から彼女と約束があるんだ」



 飲食代を置いて尾崎が帰ると、隼斗はドアに内鍵をかけ、いそいでワンルームマンションに造り付けのクローゼットに駈け寄った。「大丈夫か」と呼びかけて、隼斗は扉を開けた。素足の美脚が隼斗の腹に触れた。

 そこには銀髪の美女がいた。

「声は出すなって云ったろ。アールグレイ」

「退屈で我慢できなくて声が出ちゃった。うふ」

 うふ。じゃねえわ。でも今のはかわいい。隼斗は聴こえなかったふりをした。

「何が我慢できなかったって」

「我慢できなくて声が出ちゃった。うふ」

 二段になっているクローゼットの上段に体育座りをしていた女は、脚を外にぶらつかせると、隼斗の胸にとび降りて来た。

「長い時間ごめん。俺も尾崎も酔い潰れちゃってさ」

「二人が寝ている間は外にいたから平気」

 するりと隼斗の腕からぬけると、アールグレイはまだ片付けていない折り畳み式のテーブルを見た。アールグレイは深皿を指して隼斗を振り返った。

「それは食べ残しだから食べちゃ駄目。ほら、スイーツを買ってきたぞ」

「ヤリマン。ヤリ捨て。メンヘラ」

「それを旦那に云うなよ、アールグレイ」

 アールグレイは隼斗が貸した寝間着がわりのTシャツと短パン姿で部屋を横切ると、雪のように白い脚を投げ出して窓辺に座り、テレビを観ながら尾崎がおいていった酒のつまみを食べ始めた。そんな女の姿を隼斗はしげしげと眺めた。

 全世界の男子に問いたい。


 きれいなお姉さんは好きですか?


 この問いに否という男はこの世にはいないだろう。だがアールグレイのように超級の美人となると、近づき難い宇宙人にしかみえない。比喩ではない。実際にアールグレイは異星人だ。

「尾崎に見つかったらラブドールかと想われるところだった。焦ったぜ」

「なに、ハヤト」

「何でもないです」

 ハヤト。名を呼ばれて隼斗が振り向くと近くにアールグレイが立っていた。唇の端にコンビニのスイーツの欠片がくっついている。地球から100光年の距離にある星の光は、100年前の星の光だ。そう考えるとアールグレイはいったい何光年くらい年上のお姉さんなのだろう。

「ハヤト。わたしは星の光のようなものなの」

 それは最初に聴いた。でも意味が全くわかりません。隼斗は美女を見詰めかえす。星の光なのと云われて「そうか」となる人間はこの地球にはいないぞ。女の外観はロシア人のようだ。昔からロシアの若い女はマトリョーシカ体型になる前の一瞬の流星の美といわれて美しいことが多いが、宇宙の星の光がロシア美女そっくりの人型というシュールさはSF音痴の隼斗でなくとも処理しかねる。

 ちゅ。

 アールグレイの唇が隼斗の唇に重なった。

「このお菓子、美味しい」

「気に入ってもらえてよかったよ」

「ヤリマン」

「忘れよう。それは忘れて。いいね」

 地球のお土産は変な言葉じゃないほうがいい。



 え、何て云ってるんだ。

 隼斗が混乱している間に、深夜の並木道に忽然と現れた銀髪の美人は菫色の眸で瞬きしたかと想うと、唖然としている隼斗に向かって翻訳機のようにすらすらと話し始めた。

「わたしは行方不明になった夫を探しにこの星に来ました。わたしの名はなんとかかんとかです」

 なんとかかんとかの部分はアールグレイと聴こえた。だからその時から隼斗は女をアールグレイと呼ぶことにした。

「軍人の夫が単独任務で飛行中、この星の座標で消息不明になったのです」

 人妻かよ残念。そう想うゆとりすら隼斗にはなかった。何しろアールグレイは素っ裸で初夏の夜道に突っ立っていたからだ。銀色の長い髪がボッティチェッリの絵画『ヴィーナスの誕生』のように胸だの股だのを覆い隠してはいたが、とにかく足先まですっぽんぽんだった。

 街灯のあかりに女の髪は透きとおり、白い膚の輪郭が青味を帯びていた。異星人の女の眸はちょうど今の季節に野に咲いているニワゼキショウを想わせた。

 気が動転したまま隼斗は云った。

「服を貸すから家に来ますか。ここから近い」

 ご親切に助かりますとアールグレイは頷き、そのまま隼斗の部屋に棲み付いて今日で七日目。コンパで遅くなり寝静まった住宅街を歩いていると、眩しい光が落ちてきて網膜に雷が走り、光の爆発が収まってから眼を開けてみると、はだかの美女が眼の前にいたのだ。

「わたしの夫の名はなんとかです」

 それも日本語に無理矢理変換して、アールグレイが探している夫の名はフジヤということにした。辛うじて聴きとれた音節が不二家と聴こえたのだ。

「それで、アールグレイは夫のフジヤさんをどうやって探すつもりなの」

 よれた男物を着せておくのにしのびず、隼斗は取り急ぎ大量生産することで有名な衣料品店で女物の上下と下着を買い揃えた。レジはセルフとはいえ、片目を瞑るようにして女の肌着を棚から手に取る姿は変態そのもので、「俺はいま、入院中の彼女に頼まれて買い物をしているのだ」と自己暗示をかけて何とかこなした。

 買ってきた服をアールグレイに着てもらうと、ハイブランドのマネキンのような神秘的な女神が現れた。尊い。隼斗は倒れるかと想った。駄目だろこれ俺の家にいたら。

「色白だから何でも似あうと想ったよ」

「かわいい、かわいい」

 眸の色にあわせたワンピースがアールグレイによく似合った。

 隼斗たちの世代は、コミュ障、ぼっち、重い人間関係を徹底的に忌避してきた。少し上の世代なら、根暗、中二病、ノリが悪いがそれに相当するのだろう。それは一度貼られたら青春が丸つぶれになるほどの重いレッテルだった。それゆえに誰かに相談などできるだろうか? 俺の家にいまロシア風の美人がいるんだけど実は彼女は宇宙人なんだ。

 アールグレイの云うことには、夫がこの星に漂着したのならば、フジヤは必ず妻であるアールグレイを見つけてくれるとのことだった。アールグレイは強く信じていた。夫は優秀な軍人だから。アールグレイは隼斗に笑顔をみせた。

「新婚だったのか」

「フジヤとは幼馴染で学校の同級生だったの」

 新妻をおいて宇宙航海に旅立った夫のことを語る時、そこに何か辛いことでも想い出すものか、ニワゼキショウの眸にはダイヤモンドのような涙が浮かんだ。アールグレイの話を要約するとフジヤが出立した後、巨大隕石の衝突が見込まれた母星は捨てざるを得ず、たくさんの宇宙船で植民地へと旅立ったが、アールグレイだけは行方不明の夫を探すために旅団から離れて独りで地球までやって来たということだった。

 それではアールグレイには戻る星がない。

 孤独のことを人は中二病と呼んで忌み嫌う。かといって誰もがこの気持ちと無縁であるわけではない。孤独を感じそうになる感情を疎んじて蓋をして生きているだけなのだ。そして隼斗の前には本物の孤児がいる。

 夫を追ってきた勇敢なアールグレイ。フジヤに再会するまでは、地球上でたった独りの異星人。他に頼れる者もいないのだ。

「よし。今から海に行くぞ」

 隼斗はアールグレイに帽子をかぶせた。尾崎に午後から用があると云ったのは嘘ではない。最初からそのつもりだった。

「銀河の彼方からやって来たことは一応納得した。そういうことにしておこうか。それでアールグレイが近くまで乗って来た船は何処にあるの」

 月の裏側に係留していたが人体転移装置を動かした時に船は分解してしまったと無念そうに女は説明した。


 夕方の港は蜂蜜色だった。外資系の大型客船が寄港しており、海鳥が飛び交っていた。周囲に誰もいないことを確かめて、煉瓦倉庫の裏手で隼斗はアールグレイの顔からサングラスを外してやった。海風が吹きつける。アールグレイの銀髪が舞い上がった。

 ばちばちばち。

 そんな音がその菫色の眸から飛び散るようだった。針のような光を迸らせている。女の眸はすぐに鎮まった。未知のものを吸収する時アールグレイの眸はそうなるのだ。見たもの聴いたもの、もしかしたら地球植民地化を目論む母船に情報を送っているのかも知れないが、隼斗にはどうでもいいことだった。だってさ、中二病はみんな嫌いだろ? だから俺は誰にもこんなことを話さないよ。

 ベランダ用のサンダルを履いたアールグレイの足先に白詰草が揺れている。煉瓦畳の隙間から顔を出す雑草にまで、アールグレイの眸はきらきらと光っていた。


》後篇へ


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