くちづけする女
旗尾 鉄
第1話 謎の女
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
あざやかな青空を見上げながら、もうろうとする意識をむりやりに働かせて私は考えている。
私の精神が異常をきたしておらず、記憶が正しければ、私はいま、あおむけに倒れているはずだ。場所は、わが領地の森から数歩でたところである。
私の腹部には一発の銃弾が食い込み、その鉛の塊は私の命を奪おうとしている。愛用のグレーのハンティングジャケットも穴が開き血にまみれ、もう使い物にはなるまい。
それから……そうだ、ジェームズがいたはずだ。そう、今朝、私は使用人のジェームズを供に連れて、領地内にある森へ狩猟に出かけたのだった。そうして半日を愉快に過ごし、屋敷へ帰ろうと森を出たところで、突然、何者かに撃たれた。
犯人が誰なのかは、わからない。姿は見えなかった。周到に待ち伏せされていたのだ。
ジェームズはどうしただろうか。逃げたのか。それとも、忠実な男だったから、助けを呼びに行ったのかもしれない。いずれにせよ手遅れだ。助けが来るまで生きている力は残っていないだろう。
手足の感覚がなくなってきた。少し前まで、気が狂うほどの激しい痛みをもたらしていた腹部の銃創も、もうあまり痛みを感じない。感じないというより、痛みを感じることができなくなっているのだ。体を動かすだけの気力も体力もない。私はまた、なすすべなく空を見上げた。
父が他界し、家督を継いでから七年。私は貴族として、領主として、この小さいながらも愛すべき領地を守ってきた。神ならぬ身ゆえ完ぺきとはいえないが、それでも、領民たちに平穏無事な生活を与えてきたし、そう大きな苦労はかけなかったはずだ。それがこの仕打ちとは。
死を前にして、私はおおいに納得しかねるものがあった。悪人が非業の最期を遂げるのはわかる。だが私は、自分が他人に殺されなければならないほどの大悪人とは思えない。もうしばらく、貴族としての生活を楽しむ権利はあるはずだ。理不尽きわまる。承服しかねる。どうにかして、この運命から逃れる方法はないものか。
そんなことをとりとめもなく考える。だが、徐々に視界がかすんできた。青空が、にじんだようにぼやけていく。声を出す力もない。誰でもいい、助けてくれ……。私は頭では死を拒絶しながらも、瞼が閉じていくのに逆らうことができなかった。
そのときだ。ふっと、体が軽くなったような気がした。永遠に閉じられたはずの瞼が、ふたたびゆっくりと開く。
私の視界の中には、青空の代わりに女の顔があった。
美しい女だった。年のころは、二十代半ばから後半といったところだろうか。色白のきめの細かい肌に、切れ長の眼。細面の輪郭に、濡れたような唇が艶めかしい。黒い髪を、肩にかからない程度の長さできれいに切りそろえている。
もっとも特徴的なのが、瞳の色だった。ルビーのような深紅である。吸い込まれるように魅惑的だ。私は、こんな瞳の色をした者をこれまで見たことがない。女から醸し出されるエキゾチックな雰囲気を考え合わせると、彼女は異国人なのかもしれない。
女は、微笑を浮かべながら私の顔を眺めていた。飾り気のない、黒いローブに身を包んでいる。女が呼吸をするたびに、豊満な胸がかすかに揺れる。倒れたまま動けない私には、女の下半身は見えなかった。
「死の進行を一時停止しました。話せる程度には楽になったでしょう?」
ややあって、女がはじめて口をきいた。なにかを誘うような、不思議な声色だった。
「あ……」
女に言われて、私は自分が発音できる状態であることに気づいた。呼吸も、ずいぶんと楽になっている。
「まずは、貴方の脳がまだ正常かどうか確かめましょうか。お名前は?」
「セ、セバスチャン。私の名は、セバスチャン・フェルゼルだ」
「お歳は?」
「三十五」
「家族はいるの?」
「妻がいる。クリスティーヌ、最愛の妻だ」
私はなぜか、女の質問に素直に答えていた。なんとなく、女の言葉に逆らえないなにかを感じていたのである。
「ご身分は? 貴族なのかしら?」
「そうだ。この地方を治めるフェルゼル家の当主、フェルゼル子爵だ」
「では、今日なにがあったのかしら?」
「朝から、使用人を一人供に連れて狩猟をしていたのだ。午後になって帰ろうとしたときに、森を出たところで誰かに撃たれた」
女は満足そうに頷いた。香水だろうか、女が体を動かすたびに、蠱惑的な甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「どうやら、脳は大丈夫のようね。では、本題に入りましょう」
「待て。おまえは誰だ? 名前は? 神か、悪魔か?」
完全に主導権を握られた会話のペースを取り戻そうと、なんとか発した私の質問を、女は軽く受け流した。
「ふふふ。わたしの名前、わたしの正体。そんなことはどうでもいいことだわ。貴方は、わたしに頼るしか生き延びる術はないのだから。さっき望んだでしょう、誰でもいいから助けてくれと」
女は続けた。
「このままなら、貴方の命はあと五分か十分で尽きる。けれど、わたしなら生き延びるチャンスを与えることができるわ」
「……どういうことだ?」
「因果律、という言葉を知っているかしら? 大雑把に言うなら、今日こうして貴方が死ぬのは、過去の積み重ねの結果だということよ。逆に言えば、過去を変えれば、今日の結果を変えられる可能性がある。わたしならそれができるのよ」
「本気で言っているのか?」
この女は頭がおかしいか、人知を超えた『なにか』だ。そして私には、後者であることに賭けるしか助かる道はない。
「今日の貴方を構成する要素、地位や家族や財産、そういったことがらの中から、どれかを消してあげる。そのうえで、今日のスタートライン、教会の朝の鐘が鳴る時刻へと送り返してあげましょう。どの要素が絡んでいるかわからないから、試すしかないのよ。成功すれば、死の運命を回避できるわ。失敗したら、貴方はふたたび死の淵に立たされる。その時は、また会いましょう。ただし、成功失敗にかかわらず、一度消した要素は元には戻せない。どう?」
ばかばかしい世迷言だ。だがどうせもうすぐ死ぬ身、最期にお遊びに付き合ってもいい。そう思った私は、少し考えてから言った。
「わがフェルゼル家には、代々の当主が少しずつ蓄えてきた隠し財産がある。今では、貴族が一生遊んで暮らせる程度にはなっているはずだ。そういうたぐいの財産だから、非合法な手段で得たものもある。それだけ業が深いだろう。それを消してくれ」
金はまた貯めればいい。それで命が助かるなら安いものだ。女の言葉など信じていないはずなのに、なぜかそんな計算をしている自分に驚く。女は私の考えを見透かしたかのように、意味深な笑みを浮かべた。
「わかったわ。じゃあ、始めましょう」
女は私に覆いかぶさるように、ゆっくりと顔を近づけてきた。顔と顔の距離が近づくにつれ、女の甘い、むせるような香りが強くなる。
唇と唇が軽く触れあった。
そしてその瞬間、私の意識は暗い闇の底へと吸い込まれていった。
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