第二話(2)


 ――そして小一時間が経過した。

 片付けは予想していたより何倍も難航した。このマンションに移り住んで十年、不精を放置しすぎていた不明を恥じるしかない。

 本気で集中するここぞの時、俺はヘッドホンから大音量の音楽を流して作業するのだが。その本気をもってしても片付けは遅々として進まなかった。

 まあ多勢に無勢である。圧倒的な荷物の山という物量を前にしては、俺の本気なんて焼け石に水でしかない。

「あー疲れた……だが仕事はまだ残っている……」

 こんな時はスマホの出番。

 心折れそうになる中でも俺を支えてくれたのは、やはり神イラストだった。

 先日アップされたばかりの、推し神絵師による作品――教室で友人ABにさんざんイジられたイラストだ。

 何回見てもいい。

 クールなバニーガールを描いた作品である。

 どことも知れない荒野に立ち、後ろを振り返りながら、彼女はどこかの一点を微笑みながら見つめている。手に持っているのはスマホらしきもので、彼女の周囲には学校の教室で使うものとおぼしき椅子と机が整然と並んでいる。

 正直、なんのモチーフなのかさっぱりわからない。

 でもそこを力業でまとめきってしまうのが神絵師――ユーザーネーム『心ぴょんぴょん』さんが神絵師たるゆえんなのだ。

 いやあ。

 癒やされるね。神イラスト。

 神イラストが明日を生きる活力を与えてくれる、そんな経験をした人は、ちょいオタクっぽい人なら少なからずいると思うんだ。やはり神イラストはすべてを解決する。そのうちガンにも効くようになるだろう。

 ちなみにこのイラストの、クールなバニーガールちゃん。やっぱりどこかで見たことがある気がする。そして前述のとおり、『心ぴょんぴょん』さんは判で押したように同じような顔を描く傾向がある。

 この点に関しては一長一短で、作風の幅が狭くなるとも言えるし、一点突破型でファン層を深掘りしていくタイプとも言えるが……まあ現状はどちらでもいい。俺が『心ぴょんぴょん』さんのイラストにどハマりして、生きる力を得ていること。それがすべてだ。

「……っと。考え込んでる場合じゃないな」

 仕事、仕事。

 一刻も早く部屋を片付けて、せめて一ノ瀬涼風がまともに寝られるスペースぐらいは作っておかないと。

 ……。

 …………。

 ………………。

 と、いうか、だが。

 ようやくここで気づいたのだが。作業が始まって小一時間が経過している。

 あまりにも音沙汰がなさすぎないか?

 まあヘッドホン&大音量だったから、音沙汰もへったくれもないかもしれないが……それにしても何かしらアクションがあっていい頃合いである。そろそろごはんができましたよとか、調味料の場所がわからないから教えてほしいと聞きに来るとか。

 俺はキッチンの様子を見に行った。

「あ。お兄ちゃん」

 ちょっと困った顔の一ノ瀬涼風がこちらを振り返った。

 俺は呆然とした。

 キッチンは地獄のありさまだった。

 砂糖やら、小麦粉やら、しょうゆやら卵やら野菜やら。いっそ清々しいほどの散らかしっぷりで、あたかも廃棄物処理場みたいな様相を呈している。

 フライパンや鍋には、何やら調理を行おうとしていた形跡……あくまでも形跡だけで、一体ここでどんなサバトが催されていたのか、俺の既存知識では知る術もない。

 まあとにかく。

 ひとことで言って大惨事だった。今どきは幼稚園児でももう少しまともにキッチンを使えると思う。

「ごめん。うまくいかなかった」

「うん、まあ。それは。見てのとおりっすね」

「ごめん」

「料理はあとで、俺が適当に作るんで。とりあずここの片付け、お願いできます? 物置部屋の始末は俺がやりたいんで」

「うん。がんばる」

「わからないことがあったらいつでも呼んでくれていいんで」

 首をかしげながら俺は物置部屋に戻る。

 いやーびっくりした。

 あんな風にキッチンを散らかせる人、世の中に存在するんだな。カルチャーショックだ。新しい家族ができるって、よそ様でもこんな感じなんだろうか?

 おっとこうしちゃいられない。

 ヘッドホンでご機嫌な音楽をかけて、作業、作業と。

 ……。

 …………。

 ………………。

 俺にも学習能力はある。

 虫の知らせみたいなものが働いて、俺はふたたび様子を見に行った。

 今度は念のため、かなり早めの十五分ほどで。

 その結果。

 片付けられているはずのキッチンが、さらに散らかされていた。

「ごめん。うまくいかなかった」

「……いやいや。いやいやいやいや」

 眉をハの字にして申し訳なさそうな顔をする一ノ瀬涼風に、さすがの俺もだいぶ強めにツッコんだ。

「なぜ? なんでこんなことに? 片付けをお願いしてた……よね?」

「うん。お願いされた」

「じゃあ、なんでこんなことに? 砂糖と小麦粉としょうゆと卵と野菜と、それに加えて塩とソースとジュースと食器が加わってカオスの度合いが増してるじゃないすか」

「ごめん。片付けようとしてたんだけど、いろんなものがいろんなところから落ちてきちゃって」

 一ノ瀬涼風は心底、申し訳なさそうである。

 なさそうなんだけど、やっぱり自然体というか、自分のペースが変わらないというか、悪びれていないというか。

 申し訳なさそうなのに悪びれないって、一種の才能なのでは? と思う。まあ相手は胸の大きいギャル様という、選ばれし人種だからな……才能に恵まれていても別に不思議じゃないのかもしれない。だいぶ変な才能だとは思うが。

「ええと、とりあえず」

 さすがに方針を切り替えよう。

 少なくとも台所仕事が得意なキャラじゃないことはわかった。これ以上の損害は家計に関わる。

「キッチンの方はいいんで。晩飯は俺が適当に作るんで」

「うん。ありがと」

「いちおう、物置部屋になってる場所のヤバいもんは優先して片付けた――もとい、主だったもんの始末はついたんで。そっちの方を任せてもいいです?」

「うん。わかった」

「どのみち一ノ瀬さん――涼風さんが使う部屋になるんで。そのへんは自分でやっといた方がなにかと具合がいいかな、みたいな感じで」

「んー……そっか。うん、じゃあとりあえず、そうするね」

 そういうことになった。

 いやそれにしてもびっくりした。

 子供とか犬猫のいたずら以外の理由で、キッチンがこんな破滅的に散らかることがあるなんて。カルチャーショックだ。

 手早く片付けをして料理を始めながら、俺は時おりスマホを眺める。

 よく飽きないな、と呆れられたって何度でもくり返すとも。一服の清涼剤として眺めているのは、神絵師『心ぴょんぴょん』さんの最新作、クールなバニーガールのイラストだ。

 いやー。

 何度見ても神だわ。

 ミステリアスな微笑み、派手だけど全体の色バランスをよく引きしめているキューティクルヘアー。

 あと胸もでかいわ。イラスト業界にはありがちというか、とりあえず迷ったら胸でかくしとけ、みたいな風潮があるけど。良いものは良いよね。おっぱいはすべてを解決する。そのうちガンにも以下略。

 そんな頻繁に眺めて悦に入って、まるで付き合いたての恋人みたいだなって?

 馬鹿言っちゃいけない。恋人以上だよ。

『心ぴょんぴょん』さんは、いまいち冴えなかった俺の人生に現れた救世主。撃ち抜かれたからね、俺のハートは。この絵師さんのイラストを見た瞬間に。

 それにしても、やっぱどこかで見たことあるような気がするな?

 どっかのイラストのパクりとかそういうことじゃなくて、んだ……まあいいけどさ、二次元のイラストが三次元の誰かに似ていたところで、だからどうしたという話だし。

 と、そうこうしているうちに。

 夕食が完成した。

 余り物を適当に炒めて餡をからめた、中華丼風の何かである。

 新しい家族に振る舞う最初の料理としては、いささか寂しいものがあるけど。まあ仕方ないよな。次から次へとやることが舞い込んでくるし、予想外のことばかり起きるし。

「すんませーん。メシできましたけどー?」

 ダイニングテーブルに丼を並べ、エプロンを外しながら物置部屋の様子を見に行った。

 そこで俺が見た光景は。

 ある程度まで片付けの目星をつけたはずの荷物たちが、ふたたび散乱している様子と。

 部屋の真ん中でぺたんと女の子座りしながら途方に暮れている、一ノ瀬涼風の姿だった。

「ごめん。うまくいかなかった」

「――あんたホントに何もできねえな⁉」

 さすがに全力でツッコんだ。

「つーかいや何で⁉ 俺、わりといい感じでざっとまとめてたよね⁉ とりあえずレイヤー分けみたいなつもりでざっくり仕分けして、あとは段ボールか何かにとりあえず詰め込んで重ねておけば何とかなるかなー、みたいなところまでは仕事しといたのに! それが何でこんな台無しに⁉」


「もうすこし工夫したら、もっとうまく片付く気がして」

「素人考えの典型ェ! 料理を失敗する人といっしょでレシピどおりにちゃんと作らないやつ! なぜ素人ほど工夫しようとするのか! 普通にやったらいいんすよ普通に!」

「本当にごめんね。ぜんぜんできなくて」

「ああいやまあ。二度も失敗を繰り返したところで任せた俺も悪いけど……」

 しゅん、としている一ノ瀬涼風に、俺は語調を弱める。

 いやしかしだ。

 しゅん、としてはいるけど、不思議と悪びれてないのはどうしてなんだ。「えへへ」という感じでほっぺたを指で掻いて、申し訳なさそうではあるのに。あくまでも低姿勢ではなく、自然体なのである。

 なんだろこれ?

 なんかもう、俺とは違う別の種族を見ている感じ。

 生まれながらの顔面偏差値おばけだから?

 問答無用で手足が長くて胸が大きいから?

 トップギャル様の生態はいまいちよくわからん。

「いやもう。とりあえず料理が冷めるんで。食べちゃいましょ」

「うん。わたしおなかすいた」

 片付けは後回しだな。

 でもってこれ、たぶん俺がやった方が早いな?

 ここまで大失敗するのは、さすがに次こそないとは思うけど。二度あることは三度あったしな。不安すぎて仕事を任せられん。

 まあゲストがお泊まりしに来たのだと考えれば、何の気苦労もない。家事を分担する話はこのままじゃどうなるんだろう、とも思うけど、そもそも父と侑子さんが新婚旅行から帰ってくるまでの問題である。

 一ノ瀬涼風とふたりで暮らすというミッションは、あくまでも期間限定。

 そう考えるなら、オーバーヒート気味の俺の頭も少しは冷めるってもんだ。

「わ。おいしそう」

 ダイニングテーブルで湯気をあげる丼を見て、一ノ瀬涼風が目を輝かせた。

「手抜き料理っすけど。まあ食ってください」

「ぜんぜん手抜きじゃないよ。りっぱなごはんだと思う」

「たいしたもんじゃないんで。とりあえずまあ、冷めないうちに。どぞ」

 俺は自分の席に座りながら言った。

「ありがと。いただきます」

 ちなみに俺は、テーブルを挟んでふたりで向き合う形で丼を配置していた。特に意識したフォーメーションじゃないけど、たぶん普通の感覚だったら俺と同じように配置するだろう。

 それを一ノ瀬涼風は、まず自分の丼を俺の隣に配置しなおし、向かい側の椅子をわざわざ引きずってこれまた俺の隣に配置しなおして着席し、両手を合わせてから中華丼をひとくち食べて「わ」と目を丸くして、

「これおいし。お料理じょうずなんだね、キミ」

「……いやつーか」

 いやいやいや、と。

 俺は首と手を振ってツッコんだ。

「なぜ? わざわざ? 俺の隣に?」

「え? 変かな?」

「変、っていうか……いやでも普通はやらんでしょ、こんな風に、わざわざ。こっちは気をつかって距離取ってるつもりなんすけど」

「でも学校ではいつもとなりだよ」

「そりゃまあ。そうすけど」

「それにキミはわたしのお兄ちゃん。わたしの家族。でしょ?」

「……家族になってからまだ数時間しか経ってないんすけど」

「それでも家族は家族」

 ふふ、と微笑んで、中華丼に向きなおる。

 この話題はもうおしまいね、という無言の意思表示。あまつさえスマホを片手でいじり始めるという。

 ……まあ、トップギャル様ってのはこういうものなのかもしれん。

 陽キャでグイグイいって自分の主張を通すのが、彼女たちの生態だもんな。一ノ瀬涼風が陽キャかというと、ちょっと別タイプな気はするけど。

 とりあえずメシ、食おう。

 となりにフェロモンのすごい女子がいるのは、気にしないことにする。

 ……。

 …………。

 ………………。

 と、思ったけど。

 いや無理だなこれ⁉

 パーソナルスペースがせまい!

 授業中に教科書を見せる時にせまくなるのはわかるけど、他に誰もいない空間でこの密着度は割と普通に無理だわ!

 そう自分の家なのだ。

 でっかい胸が触れるぐらい近くにいてご満悦していられたのは、あくまでも教室の中での話。この状況は訳がちがう。

 本来なら俺しかいないはずのマンションに、新しい家族になったというギャル様。

 脳裏にちらつくのはバスルームでの一幕。

 白くてすべすべできめの細かそうな柔肌。

 下着からはみ出んばかりのバスト。

 力を込めたら折れてしまいそうな腰のくびれ。

 細すぎず太すぎないふともも。

 いかん。

 意識すればするほどこれはいかん。

 冷静にいこう冷静に。さっさと夕飯を食べきって作業の続きに戻る。それがベスト。

 俺は中華丼を急いでかきこんだ。

「ね、ね」

 一ノ瀬涼風が声をかけてくる。

 こっちを向いて自然体の微笑。

「物置になってる部屋が片付かなかったらさ。わたしの寝る部屋がないんだよね?」

「まあ」メシをかきこむ作業を続けながら、俺も彼女を見る。「そうなると思います」

「そか」

 スマホ片手のまま、さらに微笑を深めて。

「じゃ、その時はさ」

「はい?」

「お兄ちゃんと同じ部屋で寝るね」

 その微笑がやけに蠱惑的で。

 俺は思わず「ぶほっ!」と。中華丼を吹き出してしまった。

「わ」

 タイミングが悪い。

 吹き出した中華丼が、一ノ瀬涼風のスカートまわりにぶっかかってしまった。

「! すま、ごめ!」

 あわてて立ち上がったのがもういけなかった。

 ガツンっ!

 思いっきり膝をテーブルに打ち付ける。「はがっ⁉」思わず片足をあげてしまい、あげたことでバランスを崩す。

 倒れる。

 倒れた先にいるのは、目を丸くしている一ノ瀬涼風。

 がっしゃんごろごろ!

 もつれ合いながら床に転げた結果。

 俺は一ノ瀬涼風を押し倒していた。

「…………」

「…………」

 視線が合う。

 やけに透明度の高い瞳が、これまでにないほど近くにあって。

 体温を肌で感じる距離。

 心なしか、頬を染めて、じっとこちらを見ている一ノ瀬涼風は。やっぱり顔面偏差値のおばけで、きれいに通った鼻筋もあごのラインも文句なしの美少女で、ことさらくちびるはあやしくてらてら濡れていて、思わずごくりと喉が鳴るほどの色っぽさで。

 しかもしかも、である。

 このシチュエーションを別にそんなに拒絶してませんよ感が、彼女からありありと伝わってきて。

 なんなら『……続き、する?』みたいな幻聴まで聞こえてくる気がして。

 あかん。

 これはあかん。

 何がどうとは言わんが、とにかくこれはあかん。

 俺は本能的に視線を外そうとして――

「……っ⁉」

 そして目に入ったのだ。

 一ノ瀬涼風の左手。

 転げ落ちながらも、それでも離さなかったスマホの画面が。たまたま俺の視界に入ってきて。

 そこに見覚えのある少女がいた。

 バニーガールだ。

 どことも知れない荒野に立ち、後ろを振り返りながら微笑む、クールなバニーガールのイラスト。

 ほんの刹那の間に、俺はいくつかのことを知った。

 いま見ているイラストは、Twitterにアップされている、JPEG的なデータファイルじゃない。何かしらのお絵かきツールを介して開かれているファイルで、画面にはパレットやらブラシやらのツールがずらりと並んでいる。

 そしてそれが意味するところは、このイラストが今まさに制作中、あるいは修正中のものであるということ。

 つまりこのスマホの持ち主は、このイラストの一次権利保持者であると考えられるのだ。

 もっと噛み砕いた言い方をしよう。

 まだ推測の域を出ないが――

 これも本能的にだ。

 俺は推測を事実にするための問いかけを、思わず口にしていた。


「心ぴょんぴょんさん?」


 一ノ瀬涼風は、元から見開いていた瞳をさらに見開いた。


「あ、はい」


 そして意外そうな、意表を突かれたような様子で。

 こくん、と頷いたのだった。



 繰り返そう。

 これは、宝くじの当たりを引く物語。

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