十三人目 鬼

 ――かつて鬼と呼ばれた人が居たと云う


 冷たい響きをはらむ言葉を思い出しながら、私は山奥で目を閉じていた。

 その山の奥では音が消える。

 周囲の音が完全に聞こえなくなった時、烏と狐の鳴く声が聞こえて、次に弓を張るような音が聞こえるのだ。

 音が聞こえてから私は、そうっと目を開ける。鬱蒼うっそうとした山の中に弓弦ゆづるのように細く、濃い影の色が落ちる。肌の色さえ変えるような影に私は音を立てぬように手を伸ばした。

 弓弦のような影に震える手で触れると、鳴弦めいげんの乾いた音が聞こえた。

 音に呼応するように他の影が鳴り響く。重なり合い鳴り響く鳴弦と妙な声を前に私は思わず、耳を押さえていた。


 ――どうしてこんなことになったのだろう。


 私は耳を抑えながら青ざめるばかりだった。

 山に入る前はこんなことになると思っていなかった。警告を聞かなかった訳ではない。ただ、信じられなかったのだ。


――山の奥には今も、鬼が居る。鬼と会わないように、気をつけなさい。


 地元の爺さんに警告されて、私は半笑いであった。鬼とは何だろう、熊か猪の隠語だろうかと思った程だった。そんな私の心情を察してか、爺さんは哀しそうな視線を向けた。


 ――そうか。君達はもう、分からんのだね。何故、鬼なのか、その理由も。


 私は驚いてその言葉の真意を問うたが、爺さんは首を振って答えなかった。


 ――山道を、絶対に離れてはならないよ。それでも迷ったならば、影の弓弦を鳴らしなさい。音が消えて、弓の音が響いた時、君は帰れるから。


 私はなんのことか分からなかった。分からなかったが、爺さんの言葉に頷いて、山に入った。

 山はただ、静かだった。

 草木の生えぬ固い地面の上を歩きながら、山頂に向かう。途中まで歩いたところで私は立ち止まった。先程から、人の気配がないのだ。

 すれ違う人もなく、鳥や虫の気配もない。

 そして私は、いつの間にか山道からそれていることに気付いた。固い地面を歩いている為に気付かなかったが、私はいつの間にか山道から逸れて、獣道のような細道に迷い込んでしまったのだ。

 それに気付いた時、背中がぞわり、と粟立った。頭の芯から痺れていくような恐怖が満ちて、私は息を呑んだ。

 次に私は影がないのに気付いた。

 頭上に光は満ちている。なのに、足元に落ちる影がない。

 途端、私はがくがくと震え始めた。

 何故、影がなくなっている。

 木の葉の影はあるというのに、私の影だけが存在しない。どういうことなのだろう、と周囲を見回せば、ただ、白昼夢のような感覚が付きまとうだけだった。

 悲鳴のような息を繰り返す。

 落ち着け、と深く息を吸う。

 私は爺さんの言葉を必死に思い出した。


 ――影の鳴弦を鳴らしなさい。


 どういうことなのだろう、と私は無意識の内に目を閉じた。そうして求めすがるように伸ばした手の先に、それはあった。



 そして今、私は耳を押さえている。

 長い長い鳴弦の音が消えた時、私はようやく耳から手を離した。

 私はいつの間にか山道に戻っていた。目だけは開けていたというのにいつ戻ったのか分からない。

 私は山頂に行くのを諦めて、下山した。

 下山するまでの間、私は足元が溶けていくような不安定さを感じていた。固い地面の上に足がついている感覚がないのだ。まるで下に下に溶けていくような、嫌な感覚だった。吐きそうになりながらも私はようやく、山の入り口に辿り着いた。

 途端、全ての膜ががれ落ちた感覚と共に人の声が一斉に飛びかかって来た。

 私は目を丸くして人々の声を聞いていた。そして私は、自分が三日間程、山の中で迷っていたことを知ったのだ。


 後で分かったことだが、私が三日間程、行方不明になっている間、山の中では鬼のような声が響いていたという。

 戻さぬ、帰さぬ。恨みの血よ。

 何度も聞こえる声に地元の人々の間では私は鬼と会ってしまったのだとささやかれていたそうだ。

 私は、あの山の鬼の正体を知らない。知ることが出来ないでいる。山に鬼がんでいるのではない。あの山自体が鬼なのだ。

 今も覚えている。鳴弦の中に聞こえたあの声。木の葉の擦れあう音のように当たり前に聞こえて来た地を這うような声。あれは山そのものの声だった。


 ――ああ、憎しは大和の民よ。


 私は無意識の内に耳を押さえていた。

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