第3話 ■

 翌日。

 ふかふかの寝台で秒速就寝した私は、朝から茗将軍と女官と一緒に太后陛下の住まう蓮華宮へと向かっていた。普通なら輿に乗るらしいけれど後宮内が広すぎるのと人員不足で、乗ってるのは牛車だ。


「こう言う時、普通皇帝陛下に先にご挨拶じゃないんですかね」

「そういう場所だ、今のここは」

「なるほど」

 

 太后陛下の強さは凄まじい、と言うわけだ。


「あの……太后陛下の実子じゃないんですよね、陛下も弟殿下も」


 私の問いかけに茗将軍は頷いた。


「太后陛下は子を授かることができず、二人は四夫人の子だ。……太后陛下は実子をついに授からなかったことを気に病み続け、そこに隼家の占い師が付け入った。本来、主上の実母は宮廷内に殿を残して住めるんだが、太后陛下は隼家の言いなりに皇帝の実母の妃嬪たちを追い出し、それだけでなく新たな皇帝の妃嬪たちが入ることを拒んでいる」


 そして後宮は見事、ごきげんな動物園と化している、という訳だ。


「茗将軍……私、そういうお方と対面して大丈夫なんですか? そもそも隼家の占術師がいるのに私、お邪魔じゃないですか?」

「そりゃ邪魔に決まってんだろ。邪魔してもらうために入るんだから」

「ぎええ」


 茗将軍は遠い目をして言う。


「……昔は先帝に重用された占術師もいたんだがな、隼家の策謀によって追い出された。通常は複数人の占術師の鑑定をふまえて主上が最終判断を下すんだが、今は隼家の占術師しかいないんだ」

「……そして、私が対抗馬として選出されたってわけですね……」

「普通の貴族や占い師なら、隼家に逆らおうなんて思わねえからな」

「待ってください私都合の良い駒」

「大丈夫大丈夫」

「大丈夫じゃなさそ〜〜」

「人間誰だって都合の良い駒さ。そこでどう生きるか、だ」

「まー、その考えには賛成ですけど……って待ってください。なんか牛止まってませんか」

「止まってるな」


 牛車が止まっているのは気のせいではなかったらしい。

 私は牛車の簾を少し上げて顔を出す。動物がたくさんいる場所特有の臭——もとい、馥郁とした風が通り抜け、牛が石畳から生えたたんぽぽを食んでいる様子が見えた。


「文字通り道草食べてる」

「草むしり行き届いてないからな、妃嬪の世話で忙しくて」


 なんだか気が抜けて、私はじっと牛を眺めた。


「かわいいですね、牛」

「懐かしいよ。ガキの頃は俺も、郊外で田畑耕してたからな。牛を鞭打って土を耕させるのがなんか可哀想でさ、俺が結局草むしって耕したりしてた。おかげさまで足腰は鍛えられたさ」

「『四維の守護神』茗将軍とは思えないほど庶民的な話ですね」

「まあな」


 私はここに来るまでの間に、他の従者の人や世話をしてくれる女官を通じて、茗将軍についての知識を深めていた。

 彼は西夷の猛攻を受けた西方育ちで、迫り来る戦果に勇敢に蜂起し民間軍をまとめ上げ、西夷の猛攻を撃退。その後武官として重用され次々と武功を挙げ、功績と人望で成り上がった人だった——確かにそういうすごい将軍がいるってことは、佐州の宿場町育ちの私でも噂話で知っていた。けれどこんな美男子とは意外だった。噂では身長一条3.3メートル以上、全身が真っ赤な体毛に覆われ目が飛び出し口の大きな『むくつけき赤き雪男』と言われていたからだ。

 確かに見上げるくらい大きいし、何かといろんなところに頭をぶつけそうになっているし、目も大きくて歯列がきれいな口元もおおきいけれど、毛むくじゃらでもないし普通の人間らしい美男子だ。『運命』が人間でよかった。

 彼は現皇帝陛下を猛烈に支持し、また皇帝陛下からの寵愛も篤く、勅命にて禁軍大将軍に命じられたらしい。隼家の占いを介さない勅命は珍しく、当時はいろいろ言われたらしいが、実際に武力と人望で全てを薙ぎ倒してきた男を前にすると、皇城のボンボン貴族文官たちは何も言えなくなったらしい。

 今生き残って権力中枢にいる人は、戦に出ていない人たちばっかりだろうし怖いのだろう。

 うーん、まさに石門天将に、龍高に天堂の男。強い。


 牛はある程度草を喰んだところで、ゆっくりとまた歩み始める。

 蓮が葉っぱをみずみずしく開く広大な池が見えてきた。牛舎を降り、そなが浮き橋を通り、大きな宮殿へと向かう。

 ここが太后陛下の住む蓮華宮だ。

 自然と茗将軍の纏う雰囲気が変わる。温和で気のいいお兄さんの顔から、戦に赴く丈夫の顔になる。私も気を引き締めた。

 門戸を通り抜け、長い回廊を渡り、見事な房間へと案内される。紅木に豪奢な彫刻が施された家具に囲まれた空間の最奥、花模様の派手な緞通が敷かれた椅子の上で太后陛下はゆったりと座していた。

 房間には幾層にも渡る馥郁な芳香が薫り、彼女の両脇には正対照に全く同じ髪型と襦裙姿の女官が侍っている。顔を見る前からびしびしと感じる、若い頃から弛みなく己を磨き上げ続けた女性にしか持てない迫力と美貌を兼ね備えた太后陛下の威圧感。

 ——これが、国の頂点に君臨した女性の力。

 拱手をして深く頭を下げる私に、独り言のように太后陛下は話しかける。


「鵲の音色が聞こえてくるわ。陛下が間違えて鳥籠を開いてしまったのかしら」


 一瞬「何を言ってるんだ、この人」と困惑し——一寸遅れて気づく。あ、これいわゆる後宮言葉いやみあてこすりだ。


「この宮廷にはすでに孔雀が羽を広げているから、かしましいばかりの勝鳥かささぎは要らないのだけれど……ああ、武人はお好きでしょうね、縁起物だから」


 ふわ、と扇子を揺らして彼女は語る。

 ここで茗将軍がずい、と半歩前に出て、礼をした上で反論を返す。


「鵲は我が国の吉兆鳥。東方諸国の進貢の帰路において、我が国の鵲が積荷と共に海を越え広く分布しており、鵲の翼はまさに我が国の威光の象徴とも言えましょう。陛下が嶌喜鵲を求めるのは、我が国の繁栄の吉兆として誠、喜ばしい事と存じますが、如何か」


 軍礼をしたまま堂々と語る茗将軍。ふむ、と太后陛下が鼻を鳴らす。


「けれどその野鳥娘は、妃嬪でもなければ官吏でもない、面妖なあやかしのようなもの。皇城に入れるのは感心しないわ。政治の場における婦女の濫りな介入は風紀の乱れを招くのだから」


 皇帝陛下の権威を牛耳る婦女——太后陛下はいけしゃあしゃあと言いながら、「しかし」と言葉を続ける。


「男でも女でもない末路わぬ性を保つ天命宦官が働く場でもあるのだから、秩序を乱さないとここに示すのであれば、存在も認めましょう。他でもない皇帝陛下が望まれたのだもの」


 パチン、と扇子が音を立てる。

 太后陛下の目配せひとつで、女官が私の前に盆を捧げ持って来た。


「これは……鋏、でしょうか」


 植木の細枝を剪定するときに使う、ずしりとした重い大きな鋏があった。


「鵲娘が娘である限り、殿方を的わし、女官ら不安たらしめるかもしれません。もちろんいずれここを去る仮の立場なのだから、宦官のものたちとほどの痛みはなくても良いのではなくて?」


「……」


 ——なるほど。

 彼女は断髪して女としての価値を削ぎ、尼になれと言っているのだ。

 髪を切る、それは二つの意味を持つ。

 親から貰い受けた体の一部に濫りに鋏を入れる親不孝を行えという意味。そして髪が伸びるまでは結婚ができないという意味。元の長さほどに伸びるまでに四、五年はかかる。行き遅れは確定となるわけだ。まさに女向けのやんわりとした去勢。

 普通の婦女なら死ねと言われるより苦しい選択だ。


——喜鵲、これはお前の『運命』だ……


 私は深呼吸をした上で、拱手して恭しく鋏を受け取る。


「……承知いたしました」


 私は空いた手で髪を結んでいた紐をほどく。父が撫でてくれた、そして兄さんが綺麗だと花を指してくれた髪。親の死に目は看取った。女だてらに占術師になった時点で普通の婦女のような結婚は諦めている。——まあ、いいか。

 私は髪を掴み、躊躇いなく鋏を動かした。

 ——ざくり。

 感触が違う。頭が軽くなった感覚がしない。

 振り返ってみれば鋏の刃と刃の間に、茗将軍の腕が挟まっていた。捲り上げた逞しい腕に、一筋の血が溢れる。


「茗将軍!?」


 場を弁えず、私は驚きの声を上げた。あらまあ、と太后陛下は目を丸くする。

 茗将軍は血を流しながらも、片眉をあげた余裕の微笑みで太后陛下を見た。


「恐れながら言上奉ります。彼女はあくまで今は、仮住まいとして後宮に住まう者。髪を下ろして仕舞えば最後、後宮を住まいとし生涯の住まいとする許可ともなります。……さらば一度、後宮の主人である皇帝陛下の許可が必要なのでは?」


 太后陛下は感情の読めない表情で、じっと私たち二人を見下ろす。

 永遠とも感じる時間が過ぎたのち、気分を切り替えたようにころりと笑みを作った。


「そうね。あなたも髪なんて下すものではないわ。たとえ脅されても、ね」


 ははは脅したそっちが言うんかいっ。心の中で乾いた笑いを返す。


「下がりなさい。娘盛りなんてあっという間なのだから、あなたもせいぜい占い師ごっこはほどほどにしておくといいわ、野鳥娘」

「ありがとうございます」

「将軍、せいぜい皇帝陛下が飽きるまで、その勝鳥を守っておやりなさい」

「……承知いたしました」


 それから太后陛下の目配せ一つで、女官たちが茗将軍の腕を手当てする。

 宮を出て、ふらつく足で牛車に乗る。

 私はようやく、心臓がばくばくと跳ねて手が震えていることに気づいた。

 馬車が動き出すまで茗将軍は無言だった。

 私は黙り込んだ横顔に、深々と頭を下げた。


「庇ってくださってありがとうございます」

「お前思い切り良すぎるんだよ。嫁に行きたくねえのか」


 それは怒っているような口調だった。私は言われて、懐にいつも大切に収めている父の形見をそっと触れる。


「まあ……ここでこうしているのも『運命』ですし?」


 笑って見せる私に、茗将軍は呆れた顔をした。


「……占いばかだな、あんた」

「えへへ、まあ」

「あの「師兄さん」が過保護なのもよくわかるよ」


 私の頭をぽんぽんと叩いたのち「だが、助かったよ」と茗将軍は微笑んだ。


「あんたがあそこで従順にしてくれたから、俺も庇いやすかった。結果的に良い判断をしてくれて上手くいった」

「とんでもないです。まあ、今事を荒立てるわけには行きませんしね」

「……ついて来たこと、後悔したか?」

「いえ。包丁と松明持ったお客さんにいちゃもんつけられた時よりは、全然怖くなかったです」

「ははは、頼もしいな」


 その後、牛車で私たちは終始無言だった。

 けれど同志のような、一つの壁を二人で乗り越えた達成感のようなものが満ちた車内は、居心地の良い風が流れていた。

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