チェルネツアと秘密の書

cooksonia

序章

 利口な諸君には私の志など理解できないだろう。だが共感する者は声を上げよ。さすれば偉大な夢想家になれる。


序章

『第三次テヘソン会戦に敗し、バンジロの英雄アボルスはついぞ全てを失った』

-ヘイロハトス著 “バンジロトワ遠征記 第二十三巻”より 


 学士アタ・セへナイの浮かない一日はチェルネツアという若い女性に起される事から始まる。彼はよだれを拭い、背中にかけられていた毛布が滑り落ちないよう掴み、視界がハッキリするまで待つ。シルカルブトの学堂の地下保管室、机上で乱雑にばら撒かれた魔術書や歴史書の数々、昨夜折った羽ペン。温かいコーヒーと新しい羽ペンを持ってくるチェルネツア。全てが見慣れた面白みに欠ける日々の象徴。

「セへナイさん、今日の予定です」

 チェルネツアは机に座ると、指を折り数えながら山積する仕事や依頼を報告する。彼女は肩までの髪を結い、季節問わず首元が詰まった長袖のトップスと丈の長いパンツを着る。机に突っ伏して報告を聞くセヘナイは小柄で細身な二十四の男で、足の筋肉だけがよくついている。

「チェル、もっと楽しそうな話題はないのか? 何だかこう、心躍るような」

「うーん。今の生活は代わり映えが無くて楽しいかは分からないですけど、私は幸せです。清潔な家があってご飯があって。昔に比べれば天の国のようです。神様に感謝。セへナイさんにも」

 彼女の厳しい生い立ちと呪いを良く知るセヘナイはそれを聞いて黙り込む。その「幸せ」をさらなる感情的な愚痴で塗りつぶすには浴びる程のお酒が必要だと思ったからだ。チェルネツアはセヘナイと長い付き合いだが、所作いちいちに注釈をつけられるほど全てを理解しているわけではない。だが視線の隅に転がる折れた羽ペンが彼女へ印象的に語り掛ける。

「でも物足りないんですよね。折れた羽ペンがそう言ってます」

セヘナイは重たい上半身を持ち上げ、背もたれに寄り掛かりチェルネツアと見つめ合う。

「シルカルブトはいい街だ。私の第二の故郷でもある。でも違う。私は太古の歴史を追跡して、大魔術を探す旅をしたいんだ」

 大魔術、それは悠久の歴史に埋もれ、もはや物語でしか語られない、人類の英知を結集した秘宝であった。


早朝からイリッタ自治領元老院に呼ばれたセヘナイはチェルネツアと共に議会を訪れた。シア・インラーデ帝国の属国であるイリッタ自治領は弱い立場で複雑な国際関係の綱渡りを強いられ、セヘナイの知識は外交顧問と必要とされている。

報酬として2000フィートレを受け取り、昼からはシルカルブト学堂で教壇に立ち古代言語の講義をこなす。多様な年代の学生の面倒を見て、日も傾き始めた頃にようやく職務から解放された。

そこからが自分の研究に専念できる唯一の時間。脇目もふらず一面本棚の地下保管室へ潜り、新しい本を抱えて椅子に腰かける。新鮮で心地の良いタイミング、そこへ彼が第二の親と呼んでいるゲターイ学長が腰を曲げながら現れた。

「セへナイよ。講義も終わったばかりで申し訳ないが、リレッツェネ(北路商隊)が本部へ君を呼んでいる。会議に出席し知恵を貸すように、だそうだ」

ゲターイは机に散らばる本の一冊を手に取ってパラパラとめくった。大魔術や古代文明への記載が詰められた本。セヘナイが冒険に出れる当てもない数年を過ごしても、なお消えない大魔術への執念にため息が出る。

「ほら行かないか」

「嫌です。私の就労時間はとっくに終わってるはず」

ゲターイは本を置き、腕を組んでほっぺを膨らませるセヘナイを見下ろす。

「分かっているだろう。君の知恵を提供する事で大学への融資が約束されている。それが無ければ学堂の学生も蔵書も備品も維持できない」

 現実を一方的に押し付ける事はゲターイの望むところでは無かった。セヘナイがまだ十にも満たない頃に学堂へやって来て以来、学問を教え、北方へ旅に出る彼を応援してきた。だからこそ、なまじ統一戦争の英雄になり政治的な理由でシルカルブトに縛られているセヘナイに引け目と同情があった。しかし学堂の事も考えなくてはならない。セヘナイもそれは重々承知していて、同時にゲターイへ甘える自分の稚拙さも身に染みる程理解していた。セヘナイは一言も発さず立ち上がる。失礼とは分かっていても、ゲターイとは視線を合わせずに地下保管室から出ていった。


 会議に参加し終えたアタ・セヘナイは歯をキリキリ鳴らし、力んだ足でわざとらしくダシダシと音を立てながらリレッツェネ本部の廊下を歩く。今にも板張りの床を踏み抜いて下の階へ落ちてしまいそうで、同行していたチェルネツアが「セへナイさん、穏やかです。穏やか」となだめるがお構いなし。負のオーラですれ違う商人や、リレッツェネの私設軍隊であるネルボウの兵士を退けさせ、奇怪なものを見る目で振り返られる。チェルネツアは知っていた。こうなるとセヘナイという男は大学へ戻るために一階へ降りるのではなく、愚痴を吐く為に上の階へ向かうと。案の定セヘナイは躊躇なく登り階段に足をかけ、四階へ上がり、遠征軍司令官室の前まで突き進む。扉の前に立つ顔見知りの衛兵も無駄とは分かっていながら制止する。だがセへナイは押しのけて司令室に入った。

 中にはネルボウの遠征軍司令官キイガール・ヴェウツが優雅な椅子に深く腰掛けて爪を磨いていた。彼はシルカ系シア人でセヘナイとは同年代の大男。統一戦争中期、セヘナイが名声を得た第一次キーニ川会戦を共に勝利へ導いた戦友でもある。キイガールはセヘナイが押しかけてくるなり内心「またか」とは思いつつ、けれど快く出迎えた。セヘナイは行儀悪く机の上に腰掛け、深く息を吸う。第一声が放たれる前にチェルネツアは廊下の衛兵にお金を渡し、扉をバタンと閉めた。

「キイガール! お前からここの金の亡者どもに言ってくれないか! 自分勝手にイリッタ自治領が不利になりそうな事を進めるなって!」

 貧乏ゆすりで机をキシキシと鳴らすセヘナイを横目に、キイガールは机の下からエールビールの瓶一本とグラスを二つ取り出した。扉の前に直立するチェルネツアにも視線を合わせると、彼女は首を横に振る。

「ビール飲んで落ち着けよ、戦友」

「落ち着けるもんか。いい身分だな、リレッツェネは。俺の気持ちなんざお構いなしだ。元老院は素晴らしい! 素晴らしいよ」

「落ち着けよ。廊下にも聞こえてる」

「聞こえるように言ってんだよ! イリッタ自治領を隠れ蓑にしてる癖に、シア・インラーデ帝国と仲良くしたいだ? 金は稼げるだろうが、イリッタの自治が帝国に骨抜きにされるリスクは考えないのか?」

 わざわざ廊下に向かって叫ぶセヘナイ。彼のグラスにビールが並々注がれると、一気に飲み干した。

「俺の上司たちも馬鹿じゃない。要は商業覇権を維持して金を稼げればいいのさ」

「……納得いかねえ。人の事をシルカルブトに縛っておいて」

 リレッツェネがやる事も、元老院がやる事ですらセヘナイは気に入らない。けれど今の彼にはそれに抗う力はない。グラスを机に叩きつけると、二杯目が注がれる。

「リレッツェネはお前を好きにはさせないさ。ネルボウも、元老院も。役に立ちすぎるんだ」

 キイガールの素直な指摘がビールの味を底なしに渋くする。ほんの少し喉を通しただけでグラスを口から離す。キイガールと同じ予想がセヘナイの胸にもあった。このまま機会がなければ、シルカルブトに永遠に幽閉されると。

 嫌な妄想を振り払い、セヘナイは気持ちを切り替える。

「つまらない話は止めよう。聞いてくれ、教皇府から流れてきた古シルカ語時代の文書を解読してたんだが、そこで大魔術の記録を見つけたんだ」

 そう、彼が夜な夜な地下保管室に籠っているのは、世間では解読不可能と言われる古シルカ語を独学で読み解き、見聞きしたことの無い過去の記録を探れる興奮からだった。古シルカ語の解読がいかに難解かをご機嫌に語り、大魔術の存在を示唆する一文を見つけたと有頂天になって言い聞かせた。セヘナイの気持ちが盛り上がる、その一番いい所でキイガールは一言。

「大魔術もいいけど、セヘナイは魔術が使えないんだから意味ないだろ」

 「魔術が使えない」「意味無いだろ」真っ直ぐな言葉がセヘナイの心の奥底に突き刺さった。夢中になって語っていたあの勢いも一刀のもとに断ち切られる。

「建設的に現実を見て、共にイリッタを守り抜く努力をしよう。だろ戦友」

 司令室の扉が開き、ネルボウの士官が敬礼してから入ってくる。その士官はキイガールが敬礼を返している間にチェルネツアを見つけ、表情を曇らせた。

「第八次山賊掃討作戦がリレッツェネの決議を通りました。予算もつきます」

「やっとか。さあ、雑談はお終いだ。交易路にちょっかいを出す山賊を退治しないと」

 何食わぬ顔で革製の防具を着るキイガールへ、セヘナイは「最近は山賊が増えたな」と適当に相槌を打つ。

「パルミラ人には同情するが、だからといって人の商売の邪魔はしちゃいけない」

 イリッタの隣国だったパルミティア王国。統一戦争初期にシア・インラーデ帝国軍に攻められ王都パルミラスが陥落した後、パルミラスの市民の大半は奴隷として売り払われた。だが逃げのびた市民の一部は数千人規模の山賊と化し交易路を脅かしている。イリッタ元老院はシア・インラーデ帝国への抵抗組織の一つとしてパルミラ人を支援しているのだが、リレッツェネは通商の邪魔になると積極的に掃討しており、シルカルブト中にある摩擦の一つになっている。

「ケガするなよ」

 セヘナイが力なく手を振ると、キイガールは意気揚々と司令官室を出ていった。チェルネツアは他に誰もいなくなった部屋の真ん中で背中を丸めるセヘナイに寄り添う。

「セへナイさん、帰りましょう。その、学堂へ」

「そうだな。解読の続きをしないと。楽しいんだ。これが」

 二人はリレッツェネ本部から学堂へ、雪が降る寂しい夜道を歩いた。その晩セヘナイは無気力で解読が進まず、深夜羽ペンを折って地面に叩きつけてから地下保管室を出た。


 浮かない一日はまだ続く。続きすぎて統一戦争の終結から三年目の冬も過ぎ、四年目の春になろうとしていた。


 セヘナイは一人、学堂の中庭でほのかに温かい陽光を浴びながらエールビールをチビチビと飲んでいた。冬に冷やされた研究への熱意はなかなか再燃せず、彼は夏の太陽が再び温めてくれるまで待つ事にしたのだった。だからといって大魔術の事が頭から離れる瞬間は無い。タイトルすら分からない古シルカ語の書の一文、『太陽と月が有す魔道の倉にて黒き力は眠る。鍵はアクアグロットなり』が頭にこびりついて離れない。太陽と月を最も詳しく研究したフォルティナ文書にも無い特別な一文が。

 正午になって学生の往来が始まるとセヘナイのもとには質問を抱えた学生が集まり、ほろ酔いながら的確な回答を返してゆく。その学生の数は二人三人五人と増えていき、ものの十数分で十数人の昼食会のようになっていた。質問が難解になる程セヘナイは得意気に答え、それを肴に飲酒の量も比例して増える。そんな彼を遠巻きに見ていたゲターイ学長だったが、ついにしびれを切らし、集まっていた学生を散らした。

「セへナイ、学堂の真ん中で酒におぼれるなど感心せん」

「何を学ぶかは自由とおっしゃったのは学長でしょう。今私は人生の儚さを学んでいるのです」

「真昼間から酔っているな」

 ゲターイは空になった二本の瓶を拾う。

「大魔術の探究は諦めたのか?」

「どんなに好きなものでも、距離を置きたくなる時ってあるでしょ」

「だからといってこの体たらくは何だ。チェルネツアに告げ口するぞ」

「チェルに……。水を飲んできます」

 セヘナイがモゾモゾと起き上がり、それを見守るゲターイは微笑む。

 学堂の正門方向から騒動の気配がした。セヘナイもゲターイも喧騒が流れてくる廊下に視線を向けている。その廊下にチェルネツアが現れ、「セへナイさん、どこですか!」と必死に叫びながらキョロキョロする。セヘナイが気の抜けた声で「ここだ」と手を振りながら答えると、彼女はセヘナイまで全力で駆け寄った。

「どうした? ネルボウの練兵場を間借りして鍛錬中のはずだろ」

「大変です。帝国軍の兵士が異教の本を焼くと学堂に押しかけてきました。もう地下保管室に」

 息を切らす彼女から伝えられた言葉にトロッとしていたセヘナイの目尻が釣り上がり、チェルネツアの手を掴んでエントランスへ全力で駆け出す。ゲターイも理解が追い付かぬまま二人を追った。

 数十人の帝国兵は我が物顔で学堂を闊歩し、地下保管室へ向かう。逆に地下から上がって来た兵士は抱えきれる限りの本を抱え、来た道を戻り、学堂前の広場中央にあるエシエーツア像の足元に積み上げる。

手を繋いだままエントランスホールへ飛び出したセヘナイとチェルネツア。セヘナイは兵士の列が目に入るなり「ミッシュ・フールム・セム(変化魔法二位三種)」と唱えれば、チェルネツアが片手で構える短剣の先から衝撃波が放たれて兵士数人をなぎ倒す。抱えられていた本は高く巻き上がり、ドンドンと音を立てて床に落ちた。突然の襲撃に混乱する兵士たちを尻目に、呪文がさらに二度唱えられ、チェルネツアが視線を向ける先へ二度衝撃波が放たれ、うずくまり頭や腹を抱える兵士が量産される。

「私はこの学堂の学士アタ・セヘナイだ。ここは軍隊ごときに踏み荒らされていい場所ではない。お前らの指揮官はどこにいる!」

 声を荒げても答える者はいない。それどころか魔法の直撃を免れた兵士はオドオドしつつも短剣を抜く。セヘナイは周囲を見回した、エントランスホール内、列の伸びる先の廊下、列がやってくる元の広場。シルカルブトの英雄、女将エシエーツア・アンネクローネの像の足元には既に数百冊の本が積み上げられ、その傍らに一人ユスフ正教騎士団の男が立っていた。

「チェル、エシエーツア・アンネクローネ様の像まで強行突破だ。ただし死人は出すなよ」

「はい!」

 彼女は命令へ躊躇が無い。繋がれた手を放し、エシエーツア像との間に立つ兵士へ襲い掛かった。身軽で、まるで風のような剣技に帝国兵は成すすべなく次々と退けられ、道を譲る。道を切り開らく彼女の後をセヘナイは追い、学堂前の広場に出る。

「ユスフ教の騎士よ。この蛮行は何のつもりだ」

「教皇猊下よりの勅命が下った。この大学に存在する異教の教本と異国の書物は全て焼き払う。ユスフ教に悪影響をもたらす物は一つ残らずだ」

 剣を振るい、敵を跳ね除け、像へ迫るチェルネツアを挟み、セヘナイと正教騎士が向かい合う。

「戦争に負けたとはいえ、イリッタは自治領だ。教皇とはいえ勝手な真似は許されないはずだ」

「元老院より勅命執行の許可は出ている」

「馬鹿げてる」

ついにチェルネツアの剣先は正教騎士の喉元に届いた。彼女が退けた帝国兵に囲まれる中、血相を変えたセヘナイが詰め寄る。

「勅命執行の許可、根拠は?」

 正教騎士は喉元とチェルネツアの眼光を気にしつつ、一枚の紙を差し出す。それは元老院、リレッツェネ、両者が学堂の焼き討ちに同意した誓約書であった。

「ユスフの教えを唯一とするシア・インラーデ帝国において、サリクス教の温床となっていた学堂もようやく年貢の納め時が来たと言う事だ」

 一読したセヘナイはゼイゼイ息を切らして追いかけてきたゲターイ学長にその誓約書を押し付けて、口笛で走鳥を呼ぶ。彼の走鳥がやって来るなり飛び乗り、駆け出した。それに慌ててチェルネツアも走鳥を呼び、剣を持ったまま後を追う。残されたゲターイも怒りのあまり誓約書を握りつぶし、身を震わせた。だが帝国兵や正教騎士は興味を示さず、運び出し作業は何もなかったかのように再開すのだった。

セヘナイは元老院へ押し入ると、議長のオズダマール・ボクオーカを探す。老練なオズダマール議長とは統一戦争からの知り合いであり、当時ぽっと出であったセヘナイの数少ない理解者でもあった。それだけに信頼していたし、だからこそ嫌々ながら顧問として働いたのだ。しかしセヘナイは知っている。議会が承認を下す過程において議長を通さないはずがないと。

談話室の扉を蹴り開けた時、オズダマール議長は正教騎士団の上級騎士と面会していた。ささやかな祝い事のような雰囲気で、「これで自治領と教皇府の関係は安泰ですな」「まったく」などの言葉が彼の耳に届く。

「オズダマール議長。学堂に帝国の野蛮人どもが押しかけている。何故なのか教えて頂きたい」

 突然の来訪にオズダマールは目を丸くし、一瞬の動揺を隠して向き合う。

「セへナイ君、申し訳ない。正教教会とシア・インラーデ帝国からの圧力を退けるには、あれを受け入れる他なかったのだ。これもイリッタの自主独立性を保つには致し方ない犠牲、分かってくれ」

 その言葉はセヘナイの心をグシャグシャに掻きむしり、内側から体を貫く痛みになった。セヘナイは手の届く場所にあったワインボトルの口を握り、振り被るとオズダマールの側頭部を殴る。瓶の割れる音の後には、半分だけ残ったボトルを握るセヘナイ、額から血を流して立ち尽くすオズダマール、顔色一つ変えない騎士、そして静寂。

「議長、目は覚めましたか?」

「セヘナイ君、本当に申し訳なかった。学問への熱意は散々に聞いている。それを反故にしてまでイリッタの為に五年間働いてくれた恩も知っている」

「議長、私はね、目は覚めましたかと聞いているんです。聞えませんか? もう一発食らいますか?」

「だがイリッタの為にこの条件を受け入れた事を後悔していない」

 セヘナイはギューと眉間にしわを寄せ、半分になったワインボトルを振りかざす。だがその手は振り下ろされる事はなかった。振り上げた腕を、背後からチェルネツアの白い手が握って止めたから。

「もうダメです。これ以上はダメなんですよ。セへナイさん」

 だがセヘナイは手を振り払って殴ろうともがく。チェルネツアは一瞬躊躇したが、左手をお腹に回して自分に密着させ、右手でワインボトルを奪い取った。

「チェル、オズダマールは議長失格だ。あからさまな内政干渉の一歩だ。前例を作って、じわじわと時間をかけて骨抜きにされるんだ。イリッタも時機に帝国へ飲み込まれる」

 チェルネツアの左腕の肌へ、小さな雫が降ってくる。

「難しい言葉を使わないで、セへナイさんが思ってる事をぶつけたらどうですか」

「ック。いいかオズダマール、あの学堂に詰められた知を得る為にいったい何人の生涯が使われたか知ってるか? 貴様は彼らの生きた証を無に帰したんだ。チリ紙を捨てるように。分からないだろうな。分からないから、あんな残酷な事ができるんだ……」

 セヘナイは遂に泣き崩れた。膝をついて、背中を丸め、握り拳で床を何度も殴る。

「すまない」

 オズダマールはその言葉を最後に、談話室を逃げるように出ていった。鳴りを潜めていた騎士はセヘナイへ目もくれず、交渉と契約を完結させるために議長を追った。チェルネツアはしゃがんでセヘナイの背中を撫でる。

「私と触れあっていれば魔法も発動させられたのに、怒る気持ちをよく我慢しました。偉いですよ」

 それでもセヘナイは首を横に振り、握り拳で床を殴った。

学堂の前に立つ女将エシエーツア・アンネクローネの像。三千年前に国内の動乱を治め、南からの侵攻を防ぎ、歴史上最大の国難からシルカルブトの街を守った真の英雄の像。シルカルブト学堂を設立した人物でもある。引きずり出された本はその足元に集められ、人の背丈の倍ほどの山になる。夜の帳が降りる頃には正教騎士によって火がつけられ、高らかと燃え上がった。三千年に及ぶ知の集積を燃料に、炎は冬の寒さが微かに残るシルカルブトの夜を温めた。

巨大な塊となり像を焦がしていく炎を学生達が囲み、噂を聞きつけたイリッタの市民、奴隷も輪に加わる。皆が皆、呆然、慟哭、激怒、それぞれの感情を表現した。

 全てが燃え尽き、帝国軍も学生も市民も消え、もう温もりすら無くした燃えカスが浮遊する真夜中。チェルネツアは力の抜けた無言のセヘナイに肩を貸し、学堂まで連れて帰って来た。正面階段に座らせて、床を殴り続けてグシャグシャになった右手を手に取った。肉が剥げて骨が見え、滲み出る血はタラタラと流れる。痛々しいその右腕に彼女の心も痛み、やるせない思いを抱えて包帯を巻いた。血がにじまなくなるまで何度も巻いた。

「もう、この街にいる理由はないな」

 あれから一言も発しなかったセヘナイが口を開いた。

「統一戦争で名をあげ、イリッタの英雄と呼ばれて、戦後も政に付き合わされた。けど名誉も地位も捨てでも、失われた十一の大魔術を探し出す旅がしたかった。でも人々がこの国に私を縛り付けようとしていて、その願いも叶わない気もしてた。だからって夢は忘れられないから、いつか旅に出れた時の準備の為に研究を続ける。それが唯一の楽しみだったんだ。もうその楽しみすら残らない街で生きるくらいなら、私は死を選ぶ」

 チェルネツアの剣に伸ばすセヘナイの左手、それを彼女は両手で握りしめた。

「ダメです。私を永遠の暗闇から救い出しておいて、それは無責任です」

「じゃあどうしろと」

「旅に出ましょう。セへナイさんが望むように。シルカルブトを出て」

「旅へ出るのはいいが、シルカルブトの為政者が許さない。連れ戻そうとするだろう」

「大丈夫です」

「どうして大丈夫だと言えるんだ?」

「私が彼方に降りかかる全ての障壁を払い除けるからです! だから、大丈夫なんです」

 チェルネツアはより強く握りしめ、セヘナイの瞳を真っ直ぐ見つめた。胸の高鳴りがこの一瞬を永遠のように引き延ばして……、セヘナイが苦悶の表情を浮かべる。

「痛い痛い! 左手が潰れる!」

 本気の絶叫にチェルネツアは咄嗟に両手を離した。恥ずかしかった。モヤモヤもした。必死の訴えを言葉にしたのに、自分のやらかしのせいで全てが台無しになった気がしたから。そう落ち込む彼女の前で、セヘナイは腹を抱え大声で笑いだした。傍から見れば不安になるような長い笑いの後、彼は立ち上がりエシエーツア・アンネクローネ像に歩み寄り、熱で変形したブロンズの悲痛な顔を見上げる。

「こんな、もう何も残らない街なんか捨て去って。北の最果てでも、西の大海でも、東の深い森でも、南の大帝国にだって、好きな場所へ好きなように」

 独り言のように、だがチェルネツアにギリギリ聞こえる声量。そして振り返り、見つめ合う。

「私は知識で全ての障害を見破る。だがチェルが一緒にいてくれないと何もできない。ついてきてくれるだろうか」

「私だって、神様がくれた力で全ての障害を破壊できます。でもセへナイさんがいないと何もできないのは同じです。連れていってくれますか?」

 セヘナイはぐっと頷く。二人の間で交わされた契約。それはテーナサラ暦1595年、まだ寒さが残る春の夜だった。


 後日、セヘナイは議長へ謝罪に赴き、暴行の罪は議長本人の希望により不問とされた。


全ての本を燃やされた次の日から、ゲターイ学長は千人の学生の将来の為必死に働いた。学びたい者にはリレッツェネを介して南のオスロクレツ帝国の大学へ亡命できるよう交渉し、残りたい者には職を斡旋して割り振った。リレッツェネや元老院に思う所が無い訳ではなかったが、使命だと言い聞かせて事に当たっていたのだ。

そんな忙しい最中でもセヘナイの事は気掛かりで、時折手伝を頼まれてくれたチェルネツアから近況を聞いていた。だが酒場に入り浸っている、以外の言葉を聞くことはできなかった。

 ゲターイがそうこう忙しくしている間に、いつしか夏の誕生祭の日となっていた。

 夏の誕生祭は秋の豊作を神に祈り領民の誕生日を祝うお祭り。イリッタでは上半期に産まれた者の誕生日が七月一日、下半期に産まれた者の誕生日が一月一日と法律で定められていて、夏の誕生祭は上半期に産まれた人々を祝う日に当たる。シルカルブト全体が朝からお祭り騒ぎで、賑わいは夜になっても衰えを知らない。

セヘナイは学堂の塔の最上階で夜風が運ぶ賑わいの声を聴いていた。北には月に照らされるカルセン山脈と、祭りの灯りで浮かび上がるシルカルブトの市街。東には一面の常夜の森。南には海と見間違うほど川幅が広いトゥルーヌ河。対岸が見えるのは空気の澄んだ冬の間だけ。

トゥルーヌとはシルカルブトより南の土地の言葉で、北端を意味する。この河より北は神の住む國と古代の人々は考えていた。過去の伝説の数々に焦がれたセヘナイ少年が家を出て、この河を渡りシルカルブトへ着いた事からすべてが始まったのだ。彼は目をつぶり、右手の中指と人差し指を絡ませ口の前に置く。そして優しく息を吹きかけ、何かを投げ飛ばすそぶりをした。そして目を開けても変わらないトゥルーヌ河の景色がそこにある。

「我が郷土を流れる大河の神よ。貴方様の恵みを一身に受けたこの私を御守りください」

返事はない。悠久の時を穏やかに流れ続ける彼にとって、きっと人の心など取るに足らない。

 下層から響く足音が段々と塔を登り、ゲターイ学長が最上階に姿を現す。セヘナイの隣に腰掛け、呼吸を整える。

「あまり無理しないでくださいね。長生きしてもらわないと」

「ふん、気遣いの言葉をかけられるとは。老いぼれたものだ」

 ゲターイ学長は手に持っていた高級感のある細長い木箱をセヘナイに手渡した。

「君は今日で二十五か」

「随分と年を取ってしまいました」

 木箱の中は竜牙のペン。書き心地は硬く快適とは言えないが頑丈で、商人、船乗り、兵士など遠くへ旅立つ人には好んで使われる。セヘナイはポケットから赤い手帳とインクが入った小瓶を取り出すと、早速試し書きをした。

「いいペンですね。ありがとうございます」

「チェルネツアも今日で十八、独り身同士くっついて腰を落ち着かせてはどうだ」

「……もしかして私を留めようと試みてます?」

「死ぬまでこの学堂を見守っていくのに、寂しさと退屈程老体に響くものは無い」

「彼女は妹みたいなものですよ。私が愛してる人は他にいます」

 セヘナイはクスクスと笑い、ゲターイは少々心外そうに口を尖らせる。

「すいません。私はまだ夢を見果てられていないんです。ここにチェルが来る予定だったのですが、ご存じありませんか?」

「その役目を変わってもらったのだ。君が出ていくのなら祭りの喧騒に紛れるだろうと予想してな。彼女ならエシエーツア像の前で待っている」

「お見通しですね。ゲターイさんは私の二番目の親ですけど、生涯で一番大切な父親です」

 セヘナイは試し書きに使ったパピルス紙を千切り取り、ゲターイの手に握らせる。そして下に伸びる階段の前に立ち、頭を深く下げた。

「ゲターイさん、今まで大変お世話になりました」

「神のご加護があらんことを」

 最後のやり取りは短く、頭を上げたセヘナイは短い夜に追われて階段を駆け下りる。残されたゲターイはパピルス紙を広げた。『何よりも愛しています。だから私達は永遠なのです』の一文、それがシルカラーデ戦役物語からの引用だと理解して深いため息をついた。エシエーツアが姉のサネーツアと永遠の別れをする際、姉の気持ちを落ち着かせるために言った励ましの言葉だったからだ。

「エシエーツア・アンネクローネ様を誰よりも尊敬していたからな」

 パピルス紙を大切そうに折り畳み、トゥルーヌ河へ祈る。血の繋がりの無い息子の無事を祈って。

 セヘナイは旅立つ前にやる事があると言い、元老院に向かう。松明の灯りでぼんやりと橙色に照らされる三千年通り、壮麗な元老院議会。近くにはリレッツェネの本部もある。四匹の走鳥を連れるセヘナイとチェルネツア。一匹に少量の荷物と人一人が跨り、そこから縄で繋がれたもう一匹がテント、武器、大小の袋、木箱を背負う。

 元老院の正面で走鳥を降りたセヘナイはチェルネチアの手を握る。深々と深呼吸して、議会の入り口からオズダマールが出てくる時を待つ。彼は数人の議員や衛兵を連れ、現れた。

「オズダマール議長。個人的なお話があります」

 先の事件こともあり、良く思っていない他の議員が「非礼だぞ」とやじる。だがオズダマールは彼らを静かにさせ、セヘナイと向き合った。

「話はもう少し落ち着いた場所でしよう」

「是非、とお答えしたいですが時間がありません。単刀直入に。私はシルカルブトを去ると決心しました。ですから顧問としての役目を継続する事はできません」

 オズダマールが「理由は?」と聞き返す声に重ねて、取り巻き達が「ふざけるな!」「衛兵、取り押さえろ!」と怒鳴る。迷いなくマスケットを構える衛兵を、チェルネツアの手元から発せられる魔法が吹き飛ばした。三千年通りにいた人々は凍り付き、背後でネルボウが非常事態を知らせる笛を鳴らす。

「理由は自分の胸に手を当てて考えれば分かりますよ。チェル、いこう。時間が勿体ない」

 セヘナイは走鳥を走らせ、三千年通りの彼方へ消えた。

街そのものを囲う15mの城壁には三つの巨大な門があり、北門は最も大きく、教皇府へ続く街道の出発点でもある。リレー形式で鳴らされる笛の音を聞きつけたキイガールが緊急配置の為北門に馬に乗って駆け付けた時、セヘナイ達もまたタイミングよく北門に到達したのだった。二人とも顔を合わせるや否や、明日の夜明けを気軽に迎えられないと悟る。

「戦友、そんな気合の入った装備、どうしちゃったんだよ?」

 キイガールが馬から降りる。イリッタのしきたりで、立場が上の者が動物から降りたら他の者も下りなければならない。セヘナイは舌打ちし、走鳥から降りる。チェルネツアも続く。

「ちょっとそこの川まで釣りだよ。大物を狙ってね」

「釣りならトゥルーヌ河でやればいい。大物が狙える。ちょっとそこの川より大きいのがな」

「シャタメク・シャーリーを作るならそんな大きい魚はいらないな」

「俺もそれは好物だよ。だけど味に魚のサイズは関係ない」

 絶妙な距離感で交わされる掴み処の無い会話に、北門の衛兵は困惑する。だが不穏な空気だけは場に満ちて、向かう先の無い警戒心は増していった。

 そこへ馬に乗った伝令兵が「キイガール遠征軍軍団長、先程アタ・セへナイが元老院を襲撃し逃亡しました」と報告し、キイガールの表情が軽蔑に代わってゆく。場の緊張感も一気に高まる。

 キイガールは高圧的な態度で北門の正面に立ち塞がると、腕を組む。

「回りくどい会話は嫌いなんだ」

「決意は伝わっただろ。門を通してくれ」

「俺は自分の使命に忠実な戦友が好きなんだ。今のお前は違う」

「ダメなら、強行突破するまでだ」

 セヘナイが片手剣を抜くと、キイガールはすかさず右手を上げ周囲の兵隊十数名にマスケットや短剣を構えさせる。早くも誕生祭の余興とでも言わんばかりに野次馬たちが集まった。

「反逆の罪は重いんだ。第一、大魔術なんて子供でも信じないおとぎ話だろう」

「しゃーねーだろ! 俺は馬鹿だし子供だし我がままなんだよ! 怖いのか、ビビってないでかかって来いよ!」

 啖呵を切るセヘナイの方が激しく震えていた。

「戦友、失望したよ」

 キイガールの腕が振り下ろされると包囲の環が徐々に縮まり、銃口が四方八方から迫った。この状況を切り抜けるには魔法しかないと考えたチェルネツアは、右往左往するセヘナイの手を握ろうとし、振り払われ、「強情者ですね」と思いつつ再び左手を握りしめる。セヘナイに振りほどけないほど強い力で。

「おい、チェル、離せって。これは俺の我がままなんだ」

「その我がままを突き通すには私の力がいるでしょ。使ってください」

 暴れるセヘナイの前でチェルネツアはナイフで腕を切り、流れ出る血の赤色を見せつけた。その行為は周囲の人間に皮膚のヒリヒリとした感覚を与え、松明の火を一回り大きくさせる。キイガールは焦った。チェルネツアの出自を知る少ない者の一人として、この感覚が何を意味するか知っていたからだ。彼女が持つ、無差別に人を襲う呪い、人を腐らせる呪い。

「チェル、やりやがったな」

「やりました。ですから諦めましょう」

 チェルネツアの強引さに押されてセヘナイは片手剣を鞘にしまい、青い手帳を手に取り魔法を唱えた。

「グルンサ・ヘッセル・ラル(領域魔法六位二種)」

 チェルネツアの頭上にシルカルブト全体を照らす程の光が現れ、白く輝く光の環となり、レースのカーテンのような幕がそこから垂れた。二人と四匹の走鳥、それ以外が隔たれる。神が降臨したかのような眩く輝かしい光の環。天の使いが着る衣のような透明な幕。神々しさに兵士は腰を抜かし、野次馬たちは慌てふためいて距離を取る。キイガールには戦士の端くれとして、この魔法に心当たりがある。

「アイル・ワル・カネルの環、か」

 絶対防護の魔法。銃弾も槍も、強力な攻撃魔法すら通さない。神の降臨とも間違えられた古い魔術師の傑作。という噂でしか耳にする事が無い幻の魔法。

 チェルネツアが一歩踏み出すと、アイル・ワル・カネルの環も前進し、人や木箱の山、石積みの家々も退けていく。恐慌状態の衛兵がマスケットを撃ち、剣で突き、魔法を放つ。だが何一つとして透明な幕を貫けない。北門の下で待ち構えるキイガールが幕に両手を付けて唸る程押すが、二人が手を繋いだまま歩くだけでズルズルと逆に押し込まれた。アイル・ワル・カネルの環が掠めるだけでも城壁の石材はゴリゴリと音を立てて削れていく。

「戦友よ、このまま行くのか! お前の才が必要とする人間が沢山いるんだ」

「セへナイさんはシルカルブトを必要としてません。ここにはもう何もないのです」

 チェルネツアの方が熱っぽくなり大股でズンズンと進んで行けば、キイガールもついに耐え切れず足を挫いて退けられた。北門を抜け、城壁の上からマスケットを撃っても届かない場所まで離れてから走鳥に乗る。二人が手を放すとアイル・ワル・カネルの環は解かれた。セヘナイは最後一目にとシルカルブトの城壁を振り返る。高い壁の向こうにある、思い出の多い街はもう見えない。郷愁もありつつ、ただ後悔も無かった。キイガールが「待て!」と叫ぶが一瞥するだけ、街道を北西へ走り出す。

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