22

 梨々花はあの時の発言を録音されているとは思っていないだろう。私のiPhoneにそれとなく目をやっていたし、普段からテープレコーダーを持ち歩いている人間なんて普通はいない。それに、仮に録音していたとしても、悪意のある切り取りの末に公開されたとしても、梨々花は下々の好奇の目を見据えて、毅然とした態度でどこまでも釈明するだろう。お姫様の自衛の名目で、仕掛けた側のライフを削って窮地に追い込んでいくはずだ。

 そう思ったから、梨々花とはもう会わずに、ラインで話すことにした。

 総務の仕事の繁忙期なので、すいません。梨々花はさほど興味もなさそうに分かった、と答えた。「それとなく引継ぎも進めたいので、会うのは難しいかもしれません」と言った時に、「秘書課の繁忙期は一年中だから覚悟してね」と嫌味なのか激励なのかよく分からないことを言われたが。

 晒されて困ることなんて何も無いわよ、と言うかのように、梨々花はラインでも饒舌だった。

 梨々花は問題社員のあの人のことも把握していた。私のような至近距離の野次馬ではなく、そういう事象を引き起こした人間がいる、という形で、知っていた。あの人は梨々花には挨拶をするらしい。ただし、梨々花から先にした時だけ挨拶を返すらしい。これには心底驚いたが、梨々花は全く意に介していなかった。もうこの行動だけで分かるから、聞く必要ないもの。この状態で余計なことを聞く方が、逆に失礼よ。

 失礼? 育ちが悪くてかわいそう、の間違いじゃないかと思った。そんなにまでコケにされて、なぜまだ気を遣う? そこまで悪者になりたくないのなら、もはやその意志自体も多様性を建前に掲げた潔癖だと思ったが、梨々花にそれをぶつけても、逆に「あなたの多様性の定義は何?」と嬉々として質問されそうな気配があった。

梨々花曰く、人には適材適所があるらしい。梨々花の人材に対する考えは、こうだった。

 うちの会社の選考をパスして入社した人間は、その時点で会社が求めている最低限の適性は持っている。だから上層部と人事部は連携して、入社した人々に長く働いてもらうための対策を常に講じていかなければならない。私達秘書はその連携が上手く行くように動く存在。だから私達秘書は社員全員の顔と名前を覚えなければならないし、その人が何を思いながら働いているかを理解しなければならない。せっかくご縁があって入社して頂いたんだから、そうするのが誠意だと信じている。

 だが、梨々花曰く、その誠意を見せて、相手を理解しようとしても、「こちらの誠意を拒否したり無視したりする方」がまれにいるらしい。そういう人間は往々にして周りにも同じ態度を取っているから、とても目立つのだけど、当事者側も意地になっているから、その態度に改善はいつまで経っても見られない。

会社の「対峙する」側の人間は精神科医でもカウンセラーでもないから、その人の性格の良し悪しを本質的に判断する権利はない。どんな人間にもそんな権利はない。当事者が「生きやすい」、「生きづらい」の差はあれど。でもここにいる時点で、どんな人でも最低限の適性はある。上層部と人事部の仕事は、不向きな仕事に従事したせいで歪んでしまったベクトルを、元通りに修正して、力関係の均衡を調整した上で、人材を活かすことだ。そのために上層部付の秘書である私達は中立の視点で観察を続けなければならない。

 梨々花は大学卒業後、父親付きの社長秘書として入社して以来ずっと、その観察を続けてきたのだという。そして改善すべき状態のものと改善しなくてもいい状態のものの切り分けを行えるようになったのだと言う。改善しなくてもいい状態のものとは、一見均衡が取れてないようで、実際は取れている状態のものだ。

 それが「あれ」を正当化する理由か。私は内心鼻で笑った。そんなの人事のバカが自ら公言していることだ。私はあの人のことはただの非常識な大人子供だと思っているけれど、あの人事の上から目線も大したものだと思っている。それが分からないのなら、梨々花の観察眼も大したことない。きれいなだけの張りぼてだ。


―私の目には、あの人がジャンヌ・ダルクに見えるのよ

―そうなんですね

―たぶんそう見えてるの、私だけよね。でもそう見えるのよ。それって、あの人がそ

 う振舞ってるからそう見えるんだと思うのね

―なるほど

―あなたにもそう見える?

―ちょっと見えないですね

―なぜ?

―だって話しかけると普通の人ですから。友達が話しかけたら普通にびくびくしてま

 したし

―その友達って衣川さん?

―はい

―そう。じゃあ私には何であんな態度なんだろう

―それはちょっと分からないです


 私には分からないです、という意味だった。心の中で、分かる訳ないじゃん、と毒づいた。梨々花がどう思おうと梨々花の勝手なのに、無性にイライラしていた。

 その友達が二葉ちゃんだったから何? てかそもそもジャンヌ・ダルクって、ありえなくない? 最期火あぶりになる所だけはまあ同じだろうと思うけど、他にどこに共通する要素があるの?

 金持ちで何でも持っていて暇だったら、変わり者を個性的だと曲解して崇めだすのか。確かにアートやモデルの世界だとそういう流行はやりが来る時期もあるけど、ここ一般企業なんだからおかしくない?

 ‥‥‥あれか、「あの人のこと好きなんですか?」とまた聞くか? この問いの効果は絶大だ。確実に怯ませられるだろう。相手にやましさがあったとしたら、なおさらだ。

 だが梨々花は語り始めた。あなたなんかに付け入る隙など与えないという無意識の傲慢さで。梨々花の語りは誰にも止められなかった。


―何かを真っすぐ信じている所があるわ。それが何なのかは私にも分からないけど

―狂信者めいてるってことですか

―まあそうとも言えるわね。でも、どんな人でも、私達は社員である以上、きちんと

 付き合っていくべきよ

―それはそうですね。後学のために伺いたいんですが、どんな風に付き合うべきです

 か


 梨々花の語った言葉のオブラートを剥がして、要約してみる。キーワードは、ノブレス・オブリージュだ。でもそのノブレス・オブリージュは、酷く歪んでいた。歪んでいて欲しいと私の心が思わせたのか、でも聞く側にそう思わせたんだからそれは私の責任ではないだろう。

 梨々花は雇った側の責任を果たさなければならない、と言った。その人間が望む役割を読み取って与えることで果たす。ジャンヌ・ダルクになりたいと思う人間にはその夢を否定せずにそうさせておく。社内環境は本人の希望を聞いた上で、相対評価で作られるべきものだ。ただし空気を読んで、本人が行動で示している場合でかつそれがデリケートな論点である場合は、臨機応変な行動を取らなければならない。

梨々花は言った。これは偉いとか偉くないとか関係なくて、どの立場の人にも同じなんだと。希望を汲み取った上で、叶えられることと叶えられないことを明確にすることが大事だと。そして、叶えられなかった場合でも、けして失望させないことが重要なんだと。


―前にうちの会社で360度評価が導入されていたの、覚えてる? 

―はい。確か二、三回やってやめになった


 同部署や近接部署の人間同士を互いに評価させてその結果を査定に反映させるという、ある意味潰し合いのような評価システム。最初のメール告知の時から、絶対に上手く行かないと思っていたら、案の定、匿名の悪口合戦になったようだった。

 私の所に回ってきたのは、他と比べるとさほど酷くはないらしかったけれど、気になる部分の「性格が暗い」「業務外の付き合いが乏しいので、心の内が分からず不安になることがあります」「本当は他人に興味がない人なのではないかと思う」「よく知らない」等の匿名コメントは、優れていると感じる部分の賞賛のコメントが無意味の烙印を押された後に粉砕されるほどの破壊力だった。

 でも私はその批判を受け入れた。悔しいという思いを悟られないように、少しずつ巧妙に自分の言動を変えた。そう感じられていたことに対する一抹の罪悪感もあった。だからあんなものは適当に利用すればいいし、一々落ち込む価値もないのだと結論付けた。個人的には復活しても別にいい。仕組みは分かったから。別角度からの無責任な批判が繰り返されるだけだと、もう分かるから。


―あれって無意味だったわよね

―はい。率直に言うと、お互いに監視し合ってるみたいでしたね


 もう廃止されたシステムのことならいくらでも悪く言える。どうせこの話し振りからすると、止めさせたのは梨々花なのだ。ここで本音を話しても、不利にはならない。むしろ、今後のために梨々花の感受性の高さを持ち上げておこうと思った。

 あの人の評価人の一人をずっと務めていたのだと、梨々花は告白した。


―ああいうのって、システムで自動で決めていると思われてるけど、そうじゃない

 の。だって元々は公正な評価をするためのものだから、そう出来ないと分かった時

 の補正はある程度必要でしょう? 少なくともうちが導入してたのはその点がカバ

 ー可能だった。システムを過信してもいけないわ。


 梨々花はそれ以上は何も言わなかった。自分の品格、あるいはイメージを守るためにこれ以上は何も言わないのだった。水面下で微笑みながら私は悪くないと主張し、交換条件を突き付けている梨々花。でももし今のラインのスクショが流出したとしても、社内で梨々花をやましさを感じずに責められる人間が果たしてどれだけいるだろうか。仮にそういう恥知らずの人間がいたとしても、梨々花には、あの人、というグロテスクな武器があるのだ。

 問い詰めたら梨々花はこれも自衛だから仕方ないというだろうか。梨々花の言葉の後ろに、支配者のマイノリティという属性が見える。これは都合のいい時だけ現れる身代わりの分身のようなものなのか。

 あの人が仕事が出来ないお荷物だと周りにバレてからも、鈍感なジャンヌ・ダルクの振りをして会社に居座り続けていること。それを梨々花がノブレス・オブリージュの態を取った、合理主義に基づく下駄を履かせた査定で許していること。あの人は本当に気づいてないのか。気づいているけど認めたら発狂するから必死で気づかない振りをしているのか。

 ‥‥‥どちらにせよもし二重の「振り」をしているのだったら大変だろうな、というのが私の感想だった。エセセレブが本当のセレブに施しで助けられながら生活のために働いている。

 私だったら死にたくなる。でも梨々花はきっと、それを知りながら会社の福利厚生と、自衛のためにあの人を助け続けるのだ。今度はどんな方法で助けるのだろうか。360度評価が廃止され、あの人の態度も過剰防衛のように反抗的になっている今、梨々花は、もっとあからさまな形で施しを続けることだろう。ここまで聞いた私は、その手伝いをさせられる。

 

―それが正しい姿なんですよね


 私はそう聞いた。梨々花にはっきりとした言葉を言わせたかった。そうしたら少なくとも私は、自分で自分を納得させられる。


―そうするのが正しいと信じているわ


 梨々花は逃げた。信じるという言葉で、また逃げた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る