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「あんまり食べると頭がぼーっとしちゃって、どの人がいいか判断出来なくなるから、食べすぎないことにしよっと」

「私も、出来れば少食ってことにしときたいな」

合コン前に会社のトイレで、二葉ちゃんとはすみさんからそう言われた。この手の普通はお店のトイレでするのかもしれないが、メンバーが同僚だと、たまたま居合わせた夕方の会社のトイレが必然的にこういう場所になる。私は、とりあえず二人の足を引っ張らなければいいと考えていた。そうすれば実質ホストの二葉ちゃんがうまく回してくれるだろうと。これでヤバくなったら昼間の仕事の時みたいに、フォローすればいい。二葉ちゃんも、はすみさんも慣れているみたいだし、そんなに慣れてない私は足手まといにならない程度に、合わせておけばいいと。

「そっか‥‥‥じゃあ私、食べる担当でいっか」

「えっ本当? ‥‥‥なんかゴメンねー」

「‥‥‥いいの? 芙由ちゃん?」

「全然大丈夫ですよ。私お酒弱いですから、むしろフォローしていただく方かも」

 私は洗面台の鏡で、頰のファンデの浮きを直しながら弾んだ声を出した。鏡ごしのお人好しの笑みが自分の心をも和ませた。口下手なはずなのに、この二人の前では、及第点だと思う返答が常に出来る。思えば、子供の頃から彼女達と似たタイプの前ではそうだった。彼女達の人柄がそうさせるのか、私に備わった限定的な才能なのか、どちらなのかは分からないけど、この能力のせいで毎日それなりに楽しく過ごせている。だから、私は今の自分が好きなのだった。

 二人とも気にするポイントはそれぞれ違えども優しいし、慣れない場所に行く時にはいろいろと気配りもしてくれる。こんな風にプライベートでも付き合える職場の先輩と同僚というのも珍しいと思う。現に今までの会社では、こんな風にトイレで一列に並んで化粧直しをした思い出すらない。

 ただ、化粧を初めてもう五年以上経つのに、水槽の中の魚みたいにパクパク口だけ動かす自分と向き合いながら化粧直しをするのは、未だに慣れない。鏡に映るのが左右反転像で良かったと思う。私にとっての化粧は、やましいごまかしであり、無防備な自己との対話だ。二人の玄人じみた共犯の視線があったとしても、やっぱり気恥ずかしい。

「そんな気ぃ張らなくていいから、ただの内輪の飲み会だよ」

「そうそう」

「‥‥‥そんなこと言われても、やっぱ、緊張しません?」

「あは、芙由ちゃん真面目過ぎ」

 二葉ちゃんとはすみさんは何でもない風で化粧直しを続けていた。合コン慣れしている二葉ちゃんと、最近婚活を始めたはすみさん。後何回このやり取りを繰り返せば、彼女達のような落ち着いた境地に至れるのだろうか。

こんなことを思い返すと、あの合コン、今思えば、本当は行きたくなかったのだろうか、とも思う。今更思い返してもどうにもならないことをあえて考えてみる。本当は分かっているのだった。私は時々空気を読みすぎて、自分の気持ちを見失うことがある。


 合コンにはこれまで二回しか参加したことがない。初めて参加したのは大学生の頃だった。その時に出会った人とは、上手く行ったけど向こうも優しかったから、いい男友達で終わってしまった。結婚するからもう連絡取れない、と言われた時、初めは何を言われたのか分からなかった。連絡先を消す時に嫌だ、と言えばあの人なら聞いてくれたかも、とあの人の良い笑顔を思い出して考えてみることもある。別れた後に無性にさみしくなって、次は顔だけ彼に似た、真逆の性格の人と付き合いたいと思った。

 このことは誰にも話していないし、これからも話すつもりはない。

 自分に悪い所があったとは思わない。もっと駆け引きをするべきだったとも思わない。むしろわがまま一つ言わなかった、優等生の彼女だった自分を褒めてあげたい。私は大人しい性格の自分が好きだ。この性格は安全だし、便利だと思う。救世主に好かれる性格、とでも言おうか。社交的に振舞うのに慣れている子に優しくしておけば、暗に気を遣ってもらえる。助けてもらえる。どちらにも振舞える器用な人に自分の希少価値を示せば、そのギャップがおもしろいのか、オアシス認定されて守ってもらえたりする。そういう人達は往々にしておもしろい交友関係やディープな趣味を持っているから、暇つぶしにも困らない。

 現にあの合コンの席でも、二人の救世主が私を守ってくれた。一人目が二葉ちゃんで、二人目が樹。もし二人それぞれにその事実を伝えたら、一通り笑った後で、自分が本当の救世主だと言い張るだろう。もう一人の方が偽物だと、二葉ちゃんは先手必勝の精神で、樹は正当防衛の名の下に、お互いを糾弾しだすに違いない。


 あの時、樹は宣言通りサワーを飲んだらすぐに五千円を置いて席を立った。じゃ、おれ明日予定ありますんで、と言って、今度は本当に去った。手持ち無沙汰になった私は、確か私も終電が、と取ってつけたような言い訳をした。そして樹を追いかけて、店から出た。

 地上に続く間接照明で照らされた、人ひとり通れる位の狭い階段を早足で上った。頭の中で、さっきまでいた場所の光景が攪拌されていた。二葉ちゃんの笑顔。カラーボールを嬉々として投げて、その染みが付いた人に笑いかけるみたいな、意味深な笑顔。はすみさんの眼。化粧品メーカーのPR動画でモデルさんがアイメイクされる寸前にするみたいな、不自然に見開いた眼。男の子達の方はよく見なかった。だから男の子達の傍を通り抜けた時の、あの驚いたような口元と、呆れたようなため息は、誰のものか分からない。誰かに勝手に失望されたという事実だけで、私にはもう十分だったけど、こっちが油断した隙に、脳内で居場所を得てしまった事実の断片は、まぶたの奥で、毎日帰り道で目にしている夜間工事の誘導灯みたいに、しつこくちらついていた。

 早く忘れてしまいたいのに、なんでこんな風に、よりによってこんなイメージで考えてしまうんだろう。職場最寄りの西新宿駅前の工事はいつまで経っても終わらないことで有名だった。生活のためのせわしない瞬きで噛み砕くようにして摂取しているイメージは、知らないうちに眼の網膜を通して体内に入り込んで、その奥を流れる血管の中に溶かされて全身の肉に染み渡っているのかもしれない。あんな殺風景で美しくないものが血肉になっているなんて、なんてちっぽけな人生だとうんざりするけど、これも私の選んだ日常の結果なんだから仕方ない。

 地上に出て辺りを見回すとちょうど樹がゆっくりと左角を曲がる所だった。自分の庭を悠然と闊歩しているような、一切の迷いのない自由気ままな足取りだった。あの調子だと、今日の発言も全く後悔していないのだろう。この辺りは丸の内の美観地区だからか、あのどきつい誘導灯など、ない。彼の姿はここの古き良き夜景によく馴染んでいた。

 レンガ造りの見慣れない暗闇の中を、心地良い春風が通り過ぎていった。何かにそっと包まれるような有機的な温かさがあった。その風に勇気づけられたような気がして走って近づくと、向こうも私を認識して止まった。見覚えのある子だと思ったんだろう。

 「何でここに来たんすか」あるいは「何でおれを追いかけて来たんすか」と聞かれたら、「終電の時間があるから同じようにして帰ろうと思った。ここに来たのはたまたま。駅までの道順が分からなくなったからで、深い意味はない」と嘘を吐けばいいと思っていた。これさえ言えば何とかなるという、確信めいた自信もあった。

 これは過去の成功経験のせいだった。あの人の時も、こうやったら上手く行った。結果的に別れることになったけど、出会いの時は上手く行った。もしこれでダメだったとしても、ダメだったとしても、もう私は、どっちみち自分の中では勝ってると思っていた。自分の目的をもう達成出来ているから余裕、と考えていた。要するに、あの店を出られた段階で、自分のプライベートの時間を無駄にしなかったから、勝ち。勝手に設定したマイルールの中で、ある意味無敵の自信を抱いていたのだった。

 このまま一人暮らしの部屋に直帰すれば、私も勝ち逃げ出来る。極論、無理に親密にならなくてもいい。だってあの店には樹よりも魅力を感じる人間はいないのだから、あそこから出た時点で勝ちなのだ。逆にあれが私の意図した暇つぶしではないのだとしたら、なおさらあそこにいてはいけないとも思うのだった。だってあそこで帰るのが、協調性がないと言われるのなら、あれはもうプライベートの遊びじゃない。仕事の延長。軽いノリのプライベートの仮面を被ったサービス残業に過ぎないわけで、特に外部の人にそれを糾弾される言われはない。

 自分の素直な好奇心に従って、周りに流されずにここまでやって来れた。もうそれだけで、金曜の夜の「暇つぶし」の目的は達成出来ている。なら、ここからはボーナスステージだった。

 実際に嘘を吐くと、彼は意外そうな目で私を見た。自分と同じ話し方をする二重人格の女が珍しかったらしく、扱いに困っているようだった。自分のせいでもないのになぜあなたが焦るの。じっと見つめると目が泳いだ。言葉の語尾に店にいた時のような歯切れの良さが無くなっていた。何に動揺しているのか、逆に不思議だった。

「‥‥‥駅まで一緒に帰りません?」

「いいんですか?」「‥‥‥別にいいっすよ」

 人通りの少ない歩道を、歩きながら会話した。「だってこの辺暗いし」「ほんとだ」「危ないですよ」「‥‥‥すいません」一向に動じない相手の態度が気になったのか、次第に互いにムキになって、簡潔な言葉を出し合う形になったから早送りで会話が進んでいった。昔、いとこの家で見たファイナル・ファンタジーのNPCみたいな喋り方をお互いにしていると思ったら、逆におかしくなった。無性に笑いがこみ上げてきて、もう限界だと思ったから、あえて口に出した。これもまた賭けだったけど、向こうもちょっと笑ってくれて、ゲームが好きなのか、と聞かれた。

 ――全然詳しくはないけど、Switchは持っていて、たまにやります。スプラトゥーンも、そんな上手くはないけど、時々やります。

 ――あつ森はやらない。新しいゲームも好きだけど、アーカイブで、昔のゲームをダウンロードしてやるのも好き。何気に3DSも持ってます。今はその方が多いかな。

 ――マザーとか、音ゲーのシアトリズムとか。

 ――子供の頃にゲームを禁止されていたから、周りの子達がやっていたのが羨ましかった。その反動が今なのかな。

いつの間にか口調にタメ口が混じっていた。滔々と答えながら、頭の片隅では別のことを考えていた。

 もしあれが本当にサービス残業だったなら、私がやったのは、ある種の職場放棄ではあるけれど、二葉ちゃんのことは仕事でいつもフォローしてるし、はすみさんも実際は結構楽しんでいるようだったから、この位は許してくれるだろう。逆に奥手だと思ってたけどなかなかやるじゃんと、喜んでくれるかもしれない。多少天然扱いされるのは、イレギュラー行動に対する嫉妬が混じったクレームみたいなもんだろうから、別にいい。こういうの、よくあることだし。

 ‥‥‥思えば私達の中ではいつも誰かが天然キャラの役割を引き受けている。こういうのってグループあるあるなんだろうけど、私達の場合は持ち回り。だから揉めないのかもしれない。

――プレステ派なんですね。プレステは持ってないけどゲーム配信でたまにプレステのゲームは見ます。

――アトラスのゲームはストーリーが練られているから、けっこう好きかも。

――FPSはやらないんですか? そっか、私もあれは良さが分かんないや。野蛮? 野蛮っていうか、ああいう設定にハマれないって感じですね。

――――ああ、確かに、モンハンもやらないし、見ないですね。

樹はモンハンは、一時期やっていたけど飽きて辞めたと言った。樹も、あの狩りのシステムにハマれなかったらしい。「おれはあれよりは女神転生メガテンの方が好きですね」少し黙った後で、「あれもまあ、ペルソナよりグロくて暗いですけど」と笑った。

 メガテンの攻撃の時の血のエフェクトの話題でなぜか盛り上がった。「メガテンの東京のマップって距離感めちゃくちゃですけど、なんかいいですよね」と樹は言った。

 あの既にめちゃくちゃに壊れているのに、まだ壊れようとする架空の東京。

樹も私同様に、親の説得に苦労して上京した口だった。田舎のいろいろなしがらみの中で、それでも上京を目指す若者は失敗した時に逃げ場が無くなるから、あれに限らず、各々の箱庭の東京を先に好きになる。現実でゲームオーバーになった時の麻酔を無意識のうちに掛ける。現実の東京に裏切られ、どんな手酷い仕打ちをされても、その痛みが麻痺するように。

 メガテンのマップには丸の内も含まれている。物陰から悪魔が出てきそうな丸の内の暗闇を、気づけば二人で、笑いながら歩いていた。相変わらず二人きり。街灯が途切れる度に、ミニゲームで肝試しをしているような感覚になる。ゲームの話題で話したのは久しぶりだった。こんな話、二葉ちゃんとはすみさんには出来ない。絶対に分からないのだ。あの二人はこういうゲーム、一切しないから。

 「私もメガテンの方が好きですよ、古代の神話とか好きだったから、最初にやったのがIVで。働きながらだからいろいろあって、結局周回プレーは途中で辞めたから、ガチなファンの人達から見たら、にわかだと思います。でも一番最初にやった時は、本当にハマったんです。あそこまでハマるとは思わなかった。冗談抜きで時間を忘れるほど夢中になりました」

 古代の神話の話も出来ない。二人にこんな話をしたら、二葉ちゃんは白けた顔でそっぽを向いて、はすみさんは困ったように笑う。

そこまで思った時に、彼が目を見開いた。あっ、と思った。もし彼が神話にも興味があるのなら、今度は神話の話が出来るか。私は一人で興奮していた。純粋な子供の心で、ゲーム友達をやっと見つけたと有頂天になっていた。

 私はあの時の自分が恥ずかしい。

 彼は沈黙した。神話の話をしたくないのかな、と思ったけど、違った。

彼が私に伝えたかったのは、普通に生きていく上で最低限のことだった。それに気づかなければ毎日普通に生きていくことすら危うい。それだけ基本的なこと。人に指摘されたら負けなこと。自分で絶対に気づけなきゃ、いけないこと。

 尾行つけられてますよ、と彼は言った。


 その時の、彼の顔は見なかった。見たくなかった。見なくても分かったからだ。大人の社会人としての、最低限の施しをした人が、それをした瞬間にどんな顔をしているか見なければ分からないなんて、恥の上塗りにも程がある。

 さっきからずっとそうです。たぶん店から出た時からずっと。

咄嗟に振り向こうとすると、見ない方がいいです、と今度は本当に刺すように言われた。

 恥ずかしかった。自分が無防備に刺されたことが。寄りによって子供の心に戻っていた時に、それも二度刺された。何もしてないのに、子供じみた期待で風船のように膨らんでいた心にずたずた穴を空けられた。羞恥と悲しさで私の心は一瞬で萎んだ。いっそのこと破裂してくれれば、その場を去れて良かったのに。本当はあの時も、恐る恐る浮かれていたんだということが、それで分かった。

 二人います、一人女であなたの知り合いです。

 樹は私の手を引っ張って、道の脇に寄せた。半ば引きずる感じだったから、自然と足がもつれた。街灯の下で見る彼の目は冷たかった。何となく触るのも不快だがそうするのが礼儀だから仕方ないと言わんばかりの態度だった。樹は明らかに怒っていた。その怒りの矛先には、意味不明な状況を連れてきた私の分身がいるだろうと確信した。面倒を回避出来なかった自分自身に対する苛立ちもあるだろうから直接攻撃されることはないだろう。が、そういう構図にされたということが惨めだった。でも仕方のないことだった。無防備で無抵抗な自分を混乱させた、訳の分からない女が目の前にいるのに、責めたいと思わない方がおかしい。

 樹は後ろの人達にも怒っているのか。もうどっちでもいいと思った。そもそも、自分のことでもないのに、なぜそんなに怒る? そんな怒りが存在すること自体がありがた迷惑のように思えた。そんなに感情をむき出しにしたら、逆に向こうを面白がらせることになる。

 でも本当に怒ってくれてるんだとしたら、優しいんだろうから感謝した方がいいのかな?

 しなければ罰が当たるか、と自嘲した。こんな心境ではうかつに喋るとまた失敗しそうだと良心が思い、私は人形みたいに言いなりになった。ちゃんとした心があるのに情けない、という自我なのか超自我なのかよく分からない感情が内側からもたげて、それがまた私の心を内側から縛り付ける新たな糸に変わった。この奇妙な自縄自縛から抜け出すための方法は、もう知っていた。コロンブスの卵の精神を自衛に用いればいい。良心が、そう囁いた。自分が安心するためにこの人もまた混乱してるんだと結論づけた。頭の中で彼を子供にした。口に出さずに頭の中で考えるだけなら、失礼じゃないという考えが、今の社会では主流だ。無駄に消耗しないために争い自体を避ける必要があるから、そう考えることが一番スマートとされる。私は選択を間違わなかった。皆やっていることだし、私もやられても構わない。その覚悟もあった。

 この人もまた大人と子供の狭間で、呆れながら怒っている。半分は自分が助かるために、そう解釈することにした。


 こっちの方歩きましょう、と言って、彼は私の手を離した。

 彼の硬く強引な口調に怯んだ。

 その瞬間の私に知性は無かった。知性を奪われて、ただ動物のように怯まされていた。何の声も聞こえなかった。不意の言葉の鋭さを暴力と捉えたに違いない良心は、怯えて自衛のために沈黙してしまったのか。程なくして、いびつな心音が喉奥辺りから聞こえてきた。えずいてるみたいだと思った途端に、本当に軽い吐き気を覚えた。私の良心はもう使い物にならなかった。良心の指示待ちだった頭もまともに働かない。行動の根拠を失ったがらんどうの身体のみが不安定な闇に取り残され、それは無様に震えていた。

 両手の震えを隠すためにバッグを前に持ち替えた。遅れて動揺が顔に出たのか、唇がわなわなと震えだし、情けなさがこみ上げ、またそれを隠すために唇を強く噛んだ。

 暫しの間の後で、今度ははっきりとした屈辱を感じた。もう敵でも味方でも関係ない。私は人間なのに、ここまでされたのなら――自分が持っている怒りが誰に対する怒りなのか、彼の側から自発的に説明されなければ納得がいかなかった。もしこれが私に向けられていない怒りなら、私が怖い思いをする理由がない。なら感じなくてもいい恐怖を感じたことの代償が、何らかの形で欲しい。そんなことを思ったのだった。彼の発言が何に由来するものか、確信が欲しかった。そうしなければ、沸き上がった不安で内側から破裂してしまいそうだった。

 例えば、今少し寒くなってきた。だから、今何の断りもなく離された彼の手がもう一度欲しい。彼の優しさが本物ならこの位、造作なく出来るはずだ。別に強要している訳ではないから、これは無理難題ではないだろう。だったらこの位のテスト、許されるはずだ。

 不貞腐れた子供の発想。でもある種の極限状態で思いついたものにしては、一理あるとも思った。それにこの発想は、何よりも私らしかった。

あれが恋心だったのかは分からない。でも、私の代わりに怒ってくれているのだとしたら、なぜまた手を離したのか。その点は猛烈に気になったし、そこが彼の弱みだと思った。今まさに攻撃して下さいと言わんばかりに、無防備に彼の心の真ん中で大きく口を開けている弱み。妄想だっただろうか。でも見ているだけで気になるし、その存在を彼は自覚していないようだから、放っておくと悪意ある誰かにおもちゃにされるだろうにと、心配にすらなったのだ。だから彼が私にさっきしてくれたみたいに、私もお返しで教えてあげたい。言わばそれも大人のマナーだと、理性抜きの感情で考えた。

 彼は私から意図的に離れて歩いた。もしこれが彼の大人の自己防衛なのだとしたら、私は彼をさっさと解放するつもりだった。どんな状況でも普通の人間が考えることは大して変わらない。面倒に巻き込まれたくない。変な風に騒がれたくない。それが普通だ。

彼がどんな性格なのかは、彼の自由だ。でもどっちにしても確認は必要だ、一応。


「大丈夫ですよ、慣れてますから」

「え?」

「大丈夫です、慣れてます。もう一人の人は分からないけど、女の子の方は見なくても分かります。あの子ですよね」

 本当は二人とも余裕で分かってた。でもここで分からない振りをした方が怖がられないと思ったからこう答えた。私は彼の後ろの温かな暗闇を見つめながら言った。彼はええ、と言ったまま釈然としない顔をした。私が動揺していないのがおかしいと思っているらしい。もう少しそれらしい顔をした方が良かっただろうか。でも、私はただの大人しい子だ。華やかな世界に憧れているただの大人しい子。終わりかけの今日の救世主が一人消えた位で、器用に嘘が吐ける性格でもない。

 彼の顔は少し歪んだようだった。街灯の下だと、明暗がきつ過ぎて、彼の顔の光が当たっていない所は顔に重油が塗りたくられたみたいに見えた。昔学校の教科書で見た、湾岸戦争の重油を被った鳥のイメージが、ろうそくが灯るようにぱっと浮かんだ。共に囚われて苦しんで、という私の後ろ暗い願望が呼んだ象徴としてのイメージ。劣等感が私の知らない所でまた、我が物顔で暴れ回っていると思った。のっぽの「いつきくん」を今度は小さな鳥に矮小化して、遊んでいる。

 驚きとほんの少しの同情が混ざったみたいな歪み。攻守どちらにも取れるだけに見ているだけで不安になった。「さっきまで楽しく話していたのに、そんな顔しないで下さいよ」と確実に自分に不利な動揺を隠しながら、思った。押してダメなら、引くか。嘘を吐くのが苦手だからこういう駆け引きは好きじゃないのだ。バカみたいだなって、自分でも分かる。むしろ、「ああ、ですよね」と自分から観念して笑いたくなる。でもどっちを選んでも、虚しさは残るだろう。だったらもう全部ありのまま、話してしまおうか。

 大人になると利害関係なしの友達を見つけることは大変なのだ。特に異性だと、なおさら。泡沫の夢だったとしてもそういう関係を見つけること自体が貴重なのだ。

初対面の同世代の大人からの「友達になって」を真っすぐ受け止めてくれる人がこの世界にはどれだけいるのか。こういうエゴ剥き出しの言葉は地雷と揶揄される。子供の頃でもあからさまに口に出したら怯まれたのに、大人になった今は、なおさらだろう。引かれるだろうか。メンヘラだと思われるだろうか。

 ‥‥‥考えても仕方ないことだった。というか考えるのにもう疲れた。友達になって、はそもそも悪い言葉なのか。これがもし本当に地雷なら、どうせもう二度と会わないのだから。

 慣れてますから、ともう一度繰り返した。これは本当なのだった。私の友達の悪い癖。現に今もこの癖に悩まされている。だから、でも私はしませんよ、という言葉を付け加えるのも、忘れなかった。女付き合いにはいろいろあるのだという含みを持たせた。

 彼は俯くと、困惑と苛立ちが混じったような息を吐いた。一呼吸置いたら余計に怒りがこみ上げたというやつなのか。今度は本当に怒りだしたのか。怒りの原因はまだ分からない。 

 外部の人の公平な裁定を待つような高揚感と、それにいたずらにじらされているような、不快感に交互に揉まれた。足が夜の波に絶えずすくわれているようで、実際は歩けているのに、地に足を付いて歩いている感じがしない。相反する感情の波を下から突き上げるようにまた焦りが立ち昇ってきた。

「あの、なんかよく分かんないけど女の付き合いってやつすか」と樹は再び呆れたように言った。どう答えるべきか分からなかったから、そうかもしれません、と言って黙った。しばらく根競べをするようにお互い沈黙した後で、樹がくくっ、と笑った。「なんかめんどくさいっすね、そういうの」と天を仰ぐようにして続ける。この根競べの意味が分からないという態で、でもオブラートに包んでも、オブラートの端をちょっと開けて、皮肉で刺すことは忘れなかった。「言い逃げするつもり?」と咄嗟に思って横目で見たら、樹はユーチューブで見たギフテッドの子供みたいにへらへら笑いながら、街灯に照らされたレンガの影を踏みつつ歩き始めていた。半分影踏み遊びみたいな軽快なステップ。「別に通り魔になるつもりないから、文句あるなら刺しても全然いいよ」と弾む背中が言っていた。何も分かっていないようで、本当は全部分かってるんですよおれは。辻斬りみたいに。棒読みで、でも得意げにそう言っているみたいだった。

 不覚にもまた刺された。でもこんな風に自分の方が圧倒的に有利な状況でも、自分の言動をうやむやにして誤魔化すのではなく、それなりに自分の行動を自覚してけじめをつけた所に、彼の特異な、素朴とも言える人間味を感じた。田舎侍。でも嫌いになれない。なぜなら、それは私のルーツだから。樹は逃げるつもりはさらさら無いようで、挑戦的な眼を私と、私の後ろの暗闇に向け続けていた。社会に紛れたサイコパスのビー玉のような眼でも、失うものがない無敵の人の虚無の眼でもない、シンプルでフラットなただの人の、挑発の眼がそこにあった。彼のことをまだよく知らない、という事実が、その眼差しに現れていたかもしれない後ろ暗さを消した。

 今、東京ではめったに見られないものを見ている、という自覚があった。それは不本意なノスタルジーを伴ったもので、迂闊に他人に悟られてはいけないものだった。悟られたらお里が知れる。それはまだ観光地化されていない、もしくは、マスコミの力をもってしても観光地化出来なかったガチな田舎を持つ上京者達の引け目。個々の主観で補正された感傷以外は何も持ちえない場所からタイプの人間が共通で持っている心の恥部だった。

 けじめをつけたんだから正式な観客として認めろよ、ということか。なら、ほんと物好きなんだな、と思った。この人はSNS絶対やってない。アカウントは持ってるかも知れないけど、自分からはめったに発信しない。何かがあったらその場でその都度発散してるから、あそこで自己主張して発散する必要がそもそもない人に違いない。そう直感した。その瞬間に本当に優しいか、は私の中で意味を持たない疑問になった。もうそれを追うのに飽きた。追っても仕方ないからどうでも良くなったのだった。

 いつの間にか街灯の光の下に一人で戻っていた樹は、大儀そうに暗闇の中で首を回すと、何かを考えるように腕組みをしていた。手持無沙汰なのか、気づまりなのか、うんざりしてるのか。街灯の光の輪を蹴るようにして歩き出した。訳が分からないついでに尾行している二人を意識的に挑発しているのかもしれなかった。

 樹がどんな顔をしているかは見なかった。引いているが、一切の関わりを止めるほどではないと思っていて欲しかった。良い方の望みを繋ぐためにですよね、と相槌を打って、笑った。「でもそこだけ我慢してればそれなりにいい子だから、うちの会社は弱肉強食なんで」と判断を速めるためにまた事実を言った。友達を躊躇なく悪者にした。罪悪感はあったが、私だけならまだしも、自分のミーハーな好奇心をただ満たすために、こんな初対面の悪意のない人まで巻き込んでるんだから、本人の前じゃなし、この位は言ってもいいはずだという思いの方が強かった。都合良すぎだろうか。でも現に本人は、あの席の空気読まない発言でこの人のことを大嫌いになったはずだ。頼まれても、もう二度と会おうとはしないだろう。

「男の人にもいませんか? ‥‥‥いないか」独り言みたいになってしまった。

 腹黒いのに悪人になり切ることが出来ない。こういう時に心の底から悪人になれたら楽なんだろうな、と思うけど、私はそうはなれないだろう。

 じくじくと痛む胸の中で抱いている思いは、恐らく、形無しになった良心と、脳内で煮詰まった打算の混合物。どす黒くやましい思いはタールに似ているだろう。不自然で粘着質な毒の液体は、無機物なのに、それ自体が腐りに腐って液体化した肺のようにも見えるから不気味だ。ドキュメンタリー映像では照明の当て方次第で漆黒に輝く水のように、遠目からは見えることもある。だからこの思いも汚くてもきれいと居直って生きていける人もいるけど私は無理だ。それが出来ているのは、元々タールと親和性があるような、あれと同じ禍々しい空気を頭から被って生まれてきたような人。私の場合は違うと、思いたい。

 心の奥に物心ついた時から溜まっている黒い思い。理不尽と妥協の副産物。時々他人の親切に触れた時に、ふっと洗い流されることはあっても、しばらくしたらすぐに溜まって重くなる。でも、それでも他人にそれをぶつけたくはないから、最初からそんなもの溜まってないように振舞うことにしている。そしてそういう風に振舞える自分が好きだ。誰も何も言わなくても、多かれ少なかれ皆似たような思いに囚われていると思う。私だけじゃないと。でも、それでも、無性に重苦しい時がある。自覚した途端に質量が膨張して、喉元までせり上がってくるようだ。

 ‥‥‥もう本心ではこんなんじゃだめだと思っていた。これでリカバリー出来るとは思ってなかった。心の底ではもうあきらめていた。もういいやと思っていたのだった。実験は終わり、暇つぶしも終わり。「じゃあ、さようなら」でも全然いいと思っていた。

 別にダメだったとしてもいい。いいよ。駅ナカで何か甘いものでも買って、家帰って動画でもちょっと見ながら食べて寝るよ。寝たら忘れるから。

 久々にいい夢を見た。目覚めた後は向こうのターン。元々は無かった夢。ここに来なければ見なかった夢。だから後は、なるようになれ、そんな心境だった。

 彼は私が話している間、気まずさを紛らわすために即興のダンスのようなものを踊っていた。街灯以外の光がなく、周りに四人しか人がいないこと、それと私の心の生殺与奪を握っているという悪魔めいた余裕が彼にこんな大胆不敵な行動を取らせるのか。踊っているうちに本気になって来たようで、周りに人がいないこともあってその動きはより一層ダイナミックになっていった。

 一通り踊った後で疲れたのか、ゆっくりと私に向き直った。息を切らせていた。子供の頃にバレエかダンスをやっていた、訳ではなさそうだ。

 皮肉めいた笑みを浮かべていた。口元は歪んでいたけど、腐ったものを見る時にするような、蔑みの眼はしていなかった。後ろの二人に自分のダンスを見せびらかすような、どこか得意げな表情だった。あいつらの頭の上を飛んでやれ、と言うかのような、自己満足の混じったある意味暴力的な笑顔。その笑顔のままターンすると、しばらく目を細めて後ろを見つめた。「あの人達尾行下手ですねえ」と呟くように言うと、軽い合意を求めるように私の目を見た。あっけに取られた私が答えられずにいると、「金曜の夜にあんなことするって、よっぽど暇なんでしょうね」と続けた。視線は闇の奥に向けたままだった。


 ほんとに、と返した後で思った。二葉ちゃんにはその攻撃、効かないよ、と。十中八九、そうかも、と開き直る。特技が開き直りの子だから。そんな風に攻めるとムキになって、どうせ自分達がくっつけたと澄まし顔で居直るだろう。

 もう一人の人は、案の定、あのデザイナーの人だった。

「どこまで尾行けてくるんでしょうね?」「たぶん東京駅までだと思います。飽きっぽいから」「‥‥‥新宿駅までだったらどうします?」「途中で適当に乗り換えて巻きます。酷かったらタクシー使います。もう一人の人、家下北だって言ってたから、一人になったらさすがにやらないと思うんで」「あいつ下北なんすか」「自己紹介の時にそう言ってましたよ」「そうだっけ‥‥‥俺吉祥寺なんですよね」「私初台です‥‥‥あれだったら新宿まで一緒に帰りませんか」「‥‥‥いいんすか」「はい。‥‥‥なんかごめんなさい」

 彼の方が下手に出だした、と気づいたら、そう誘導した自分の小狡さに初めて気づいた。気づいた途端にまた息苦しくなって、しきりに唾を飲み込んだ。

 結局新宿駅まで電車で帰った。東京駅で中央線快速に乗ろうとしたら、遅延で朝の通勤ラッシュ並みの満員電車になっていたから、乗るのは諦めて各駅に変えた。意外なことに二人も各駅に乗って、ついてきているようだった。樹に、乗り換えて巻きますか、と聞いたら、うーん、と言った後で、しばらく沈黙した。振替輸送をやってるだろうからもっと混んでる電車の中で立つことになるだろうし。また少し間があった後で、「乗り降りも面倒だし、俺はこのままでいいですよ、別に」と首を回しながら言われた。

 こんな金曜の夜に、あんなことに時間を使う人達もいる。それを空しいから辞めると言わせないあの子はやっぱり特別な子なんだな、と他人事のように思った。あの子の常識は世間の常識ではないし、それを心のどこかで得意にしているあの子にそれを伝えても仕方ない。もうそれを十分すぎるほど知って逆に利用しているのだから、無敵。親しき仲にも礼儀あり、と言ってもどうせきょとんとされるだけだ。だったら慌てたら負け。注目されているのは私達の方なんだから、卑屈になる理由なんかない。追っかけを遊び感覚で巻く芸能人よろしく悠然としていればいい。

 樹は何も見ていなかった振りをして、ずっとゲームの話をしてくれた。借りを作っているのに、それに対するやましさを感じなかった。むしろ私の関心事は、この人に今の私がどう映っているか、それが全てだった。ボーナスステージだとうそぶいていたはずなのに、ミイラ取りがミイラになった。樹からすれば「こういう状況だからストレス溜めずにもうただ楽しい話だけしませんか」ということだったのだろう。でも自分からそのアピールをしてくれたことに、私は恩義を感じていた。天然の振りをして抉れば、いくらでもネタで盛り上がれそうな話題なのに、男らしく、それ以上は何も聞かずにすっぱり手を引いてくれた所にも。

 この時に、樹は私の「特別」になったのだと思う。私の姿に見たいものを見てくれているのか、見たくないものを必死で見ないようにしてくれているのか。後者だとしたら完全に終わった、と思いながら私はひたすら彼の好意に甘えていた。内心、どこで引導を渡されるのか、と戦々恐々としていた。覚悟はしていても、まともな感覚の人から、ごめんなさい、と断られるのはやはりつらい。ほどほどに混んだ車内で並んで立った。ゲームの話題に興じる振りをしながら、車内アナウンスで駅の名が呼ばれる度に、小さな別れの覚悟を、ある種の死刑宣告を待つように決めていた。

 話題はメガテンから、よりコアな話題に移った。こういう話を本当に屈託なく話せればどんなに楽しいかと心の底では思いながら、埋もれた神ゲーだと思うゲームのことを話した。   

 私は周回遅れのライトゲーマーだ。ゲームをしだしたのは大学の頃からで、趣味はゲームだけという訳でもないから、プレイしたゲームの数は普通のゲーマーの人よりも圧倒的に少ない。好きなゲームは新旧問わずそれなりにあるけど、そのジャンルが好きなら当然これも、という作品を必ずしもプレイしていない。だからガチのゲーマー、いわゆるゲームオタクの人達と話しても、話が噛み合わなくて失望されると思う。言ってみればただの好奇心旺盛なにわかのゲーム好きだ。ともすれば親のエゴの犠牲者とも言える存在。でも推しのタイトルに対しては、それなりにお金は落としている。いい歳して、と思う時もある。ゲーム業界も私みたいな大人の購買者がいることは、あまり把握してないんじゃないかと思う。

 私同様にライトゲーマーではあるが、小学校の頃から今まで継続的にゲームをしてきた樹と子供の頃にゲームとマンガを禁止されていて、一人暮らしを機にゲームを始めた私とでは、ハマったゲームの時間軸がかなりずれている。でもこういう個人差の大きい答えのない話題だと、自分達の普段のものの見方がもろに反映されるから、ゲーム歴に関わらず対等に話せるのだ。

 私はアトラスのゲーム以外は、ユーチューブの配信動画を観て、プレイした気になっていることを白状した。このまま話したら確実にぼろが出るから、にわかでも本当のゲーム好きであることを示すために自分からばらした方がいいと思った。プレイする時間もないけど世界観やストーリーには興味があるからそれらを効率良く知ろうとするとこの方法が一番コスパがいい。ゲーム配信は、ユーチューブ全盛のこの世界で、ゲームがものすごく上手い人達が発明したお金儲けの手段。世間ではいろいろ言われているけど、元々はゲームでわいわい騒ぎたいという純粋な動機から始まったんだと私は信じている。今の主流はどんなジャンルのゲームでも内容を茶化しながら面白おかしく進める実況配信だけど、私が気になったゲームのほとんどは鬱屈とした世界観のもので、実況あるあるのあの軽いノリでは見たくなかった。たまにいる、無言で超絶技巧のプレイを見せながら、ひたすらストーリーを進める職人気質な配信者を好んで、ダークサスペンスの映画をぼんやり眺める感覚で、お菓子を摘まむように情報を摂取した。すごい人だと、無駄なく美しい戦闘をした上に、マップ上の重要なアイテムやアビリティもコンプリートしてくれる。操作キャラの複雑な動きで隠しアイテムの場合は、それとなく推測出来る。ゲットした瞬間に表示される「説明」を読むための時間までくれる人もいるから、その鑑賞される側としての気配りにも、時々感心させられる。

 アトラスのゲームは、単純にあの会社の方針で著作権保護の規制が厳しいから見られなかった。説明している途中で電車が急停止して、不意に身体が近づいた時に、スーツから柔軟剤を思わせる香りがした。おれもたまにああいうの酒飲みながら見ますよ、という声が上から落ちてきた。喋りが棒読みになってきたから不穏な空気を感じて、「でもやっぱり、好きなゲームは買いますよ。予約して買います」と保険を掛けたら「あ、そ」という感じで、無言で頷かれた。

 『ドラッグオンドラグーン』シリーズのストーリーが好きだった、スマホのゲームだと、『ケイオスリングス』シリーズが手軽な操作性込みで好きだったと話した。どちらも実際に名作と名高いから、嘘は吐いていないけど無難な答えだったと思う。樹は、どっちもやったことがあるから分かる、と言った後で、『クーロンズゲート』というゲームが気になっていると話した。ゲーム好きの間で話題になっていたから配信でプレイ動画を見たのだという。実物あったらやりたいな。話し方は淡々としていたけど、目だけは少し得意げだった。本当にゲームが好きなのだろう。瞬きをした後で、それを初めて見た時の感情を思いだしたのか、夢見るような眼差しになった。「たぶん知らないだろうけど、もし知ってたらなんか教えてくれません?」と切れ長の眼が言っていた。クールを装っているけど、この話題で話せてうれしいのだ。仲間を見つけた、という、本能的な興奮を伴う共感覚の光が、目の奥に現れたように思った。もし本当なら、その光に私も答えたい。ずっとこのままでいいと思った。向こうも同じよう、純粋な情熱から生まれたであろう勢いが、会話の余韻に現れた、ように思えた。ただし彼の共感は私よりもずっと健全な形だった。この人は、ゲームをスポーツと同等に考えているようだった。この人の頭の中では、スポーツ同様にゲームも、全ての人と人とを繋ぐのだろうか。

 「古いゲームだからもう手に入らないんですよ。香港を舞台にしたゲームで、スラム街みたいな所を探検するんです。例えば‥‥‥」

 クーロンズゲート、クーロン‥‥‥ゲーム自体は知らないが、そのウーロン茶に似た響きは耳馴染みがあった。確か実在するスラム街、というかスラムビルがかつてあって、ツイッターのタイムラインに流れてきたバズツイートのリプに、実際に中の様子も見ることが出来る動画が貼られていたから好奇心で見た。バズツイートの内容は完全に忘れたけど、動画の内容だけは覚えている。

 ビルに住んでいる男の子の後ろをカメラがついていく動画。その場で検索したが、結局、あの動画は見つからなかった。スマホ片手に空回りした私を、樹は「別にいいっすよ、そんな真剣に調べてくれなくて」と笑った。個々の言葉には棘があったが、くれなくて、の響きに悪意は感じられなかった。別に何々、というのが、彼の口癖らしい。余裕の笑みを浮かべているようで、内心、そうではなさそうなのが新鮮だった。車内アナウンスで、千駄ヶ谷まで来ていたことを知った。左脇の扉が開くと、人影が私達の周りを取り巻いた。前の席が二人分空いた。とりあえず空いたんで座りましょう、と樹は席を指し示した。

 一人の時と誰かと一緒にいる時では、電車の揺れの感じ方が全然違う。その残酷さにふと気づく。一人だと親の仇みたいに揺れる時があって、そういう時は立ったまま揺れをこらえている自分がひどく惨めに思える。でも誰かと一緒にいる時はそれが遊園地のアトラクションか、もしくは非日常の新幹線や特急の揺れみたいに思えて、もっと揺れていい、むしろもっと揺れろと、思うようになるのだった。この強迫観念に等しい強気は何なのか。そしてそれを一人になった時に思い出して無性に惨めになる。なんであの時あんなことを思ったんだろうって。

 樹は座ると私のスマホをいきなり覗き込んできた。目を逸らしたら張り詰めていた視線の糸がたるんだ。心臓の高鳴りを自覚して、彼の視線を遠ざけるためにスマホを彼の方に押しやった後で、私も覗き込んだ。クーロンのユーチューブの検索結果が表示された画面は斜めになっていた。

 「‥‥‥このクーロンの法則っていうのは、何すかね?数学?」と笑う樹の姿は、寛ぎきったもので、気心が知れている友達と一緒にいる時のような態度に思えた。どうして今、そんな顔が出来るのか。あの合コンの席では終始仏頂面でマイペースだったのに、そんな風になるのは。もう疲れてるからキャラなんかどうでもいいと思っているのか。現にアップになった樹の目元には薄いクマがあった。別に気を遣うほどの相手ではないと思っているのか。それとも、もしかしたら、あなたも私と同じ方向を向いているからなのか。

 無邪気な子供みたいな、合コンに付き合いで連れて来られた女を演じながら、あての無い推論を繰り返していた。自分が、子供でないことは一番よく知っているはずなのに。感情のままに生きる子供は水面下でこんな推論はしない。世間を知ってしまっている大人のさもしさがそこにはあった。それを自分で感じ取れてしまう小賢しさも。


 名作なのにオンラインが過疎ってて一回も対戦できなかったパズルゲームの思い出。樹は正面を向いたまま、窓の外の暗闇に笑いかけながら話す。肝心な所で目を見ない人だと思った。自然な流れでライン交換しませんか? と言えた。言わなければこの人の目を繋ぎ止められないと思ったからだった。このゲームの人の対戦相手は貴重だから、と続けたら、ああ、とすんなり納得してもらえた。俺あんまラインやる方じゃないんすけど、気が向いたら連絡下さい。今まで、男女問わず数えきれないほどライン交換をして来たと思う。樹みたいなタイプはいなかったけれど、皆教える時はすんなり教えてくれた。友達じゃなくても、敵か味方か分からなくてもラインは教えられる。味方だとしても、直電を教えるのは抵抗があるけどラインを教えるのは抵抗がない。皆そういうものだと思う。教えるという行為自体は同じはずなのに、その行為の重みは相手によって確実に違う。他人を安全に裁定するための暗黙知。そこには裁定する側、される側の一時的なバランスの平等しかない。そこに危機感は抱かない。こういう時にこの世界の本質が不平等であることを、他ならぬ自分の感情で実感するというのに。

 新宿に着いた。友達登録した後で尾行していた二人のことを思い出した。常に重石のように頭の上にあるべきものなのに、完全に頭から抜けていたのだった。なぜ。問うまでも無かった。私はその時に、本当に「追っかけを遊び感覚で巻く芸能人」と同じ心境になれていたのだった。この人と一緒なら、本当にそうなれるんだと判ったことが、新たな収穫だった。

 樹に「じゃあ、お疲れさまでした」と言って新宿で電車を降りた。降りる時に残念そうな顔をしてくれることを期待していたけど、「あ、はい、さよなら」とあっけないものだった。でもそれでも良かった。別れ際に、「対戦したい時ラインしますね」とスマホを振ったら、また無言で頷いてくれたから。

 彼と別れた後、私はまっすぐ家には帰らなかった。遅れてやってきた金曜の夜の楽しさを持て余していたのだった。今日という日をもう少し引き延ばしかった。一人じゃなく、この感情を共有出来る外部の人と、二人で。












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