第三章 君の心に道化がある限り #9

 出番が終わって自由時間になった。結果発表と表彰は一七時過ぎくらいまでなので、かなり暇がある。他校の演奏を聞くなり、家に帰るなり、その辺のファミレスに入るなり、部員の思い思いに過ごしていいことになっていた。

「うちは全団体鑑賞が義務だったのに……ゆるいなあ……」

 華礼が僕から受け取ったトランペットをケースに戻しながら、遠い目をして言った。

「それで、何があったのか、説明してよ。そんなに傷作って、遅刻して……心配したんだからね」

「ごめん、華礼、後できちんと説明するから! トランペット、本当にありがとう!」

「え、ちょっと、ツヅ!」

 僕は一刻も早く、黒野の元へ行きたかった。華礼には申し訳ないと思いつつ、トイレの方へと早足で向かう。

 と、その入り口で、僕は足を止めてしまった。母がトイレから出てくるところだった。ハンカチで口を押さえ、その目は赤く染まっている。

「あ、都月……」

「お母さん、来てくれたんだ」

 思わぬ邂逅に戸惑いつつ、僕は言う。母はハンカチを下ろしながらうなずく。

「うん……都月、とても良かったよ。私の知らないところで頑張ってたのね」

「ありがとう……泣いてるの?」

「あ、わかっちゃうか……恥ずかしいな。なんだか、都月のソロを聞いてたら……パパとのことを思い出しちゃって」

 その一言に、僕は緊張する。

「思い、出した……?」

「うん。あの人と出会って、付き合って、結婚して、あなたたちが生まれて……それから……あれ……?」

 母の目からはまた、大粒の涙が次々と零れだしていた。母は慌ててハンカチで抑える。

「ごめんね、なんだか涙が止まらなくなっちゃって……どうしてかな。あの曲を聴いてから……あの人の思い出が、昔のことのように思えてしまうの……」

 その痛切な声に、僕の胸も締め付けられる。

「僕もわかるよ。遠ざかっていくようで……とても辛いんだ」

「そう、もう、あの人は……」

 母はそこで言葉を止めると、諦めるように首を振った。

「ううん、ごめんね、こんなこと言って。それじゃあ、私はもう、帰るからね……」

「わかった……今日は急だったのに来てくれてありがとう」

 僕は去って行く後ろ姿を見送った。まるでお墓参りの後のような背中をしていた。僕たちはこれで一歩、進むことができたのかな、と僕の胸の中にいる父に問いかけた。


 その後、僕は男子トイレから下水道に戻った。

 今はもう、時間を気にする必要はない。暗闇の下水道を、壁伝いにゆっくり歩く。

 やがて、遠くにランタンの灯りが見えた。僕は足を速めて、その光へと近寄った。

「黒野……!」

 倒れたランタンの傍らには、老いた黒猫が一匹、息もなく、横たわっていた。

 僕は膝を地面につくと、涙が静かに流れるのをそのままに、お腹の毛皮を撫でてあげた。

「黒野……頑張って生きたな……今は、ゆっくりと、おやすみ……」

 ランタンの灯りは、黒猫の顔を温かく照らしている。その表情は笑っているように見えるほど、安らかだった。

 その時、こつ、こつ、と金属の棒を叩くような音が聞こえた。

「──どうもこの度は、黒野クロのために、ご苦労様でした」

 振り向くと、マンホールオープナー、あるいは啓蒙の杖を持ったクラウン氏がこちらに歩いてくるのが目に入った。

「クラウンさん……」

「この下水道はじきに閉めます。役目を果たしましたからね」

 そうか。黒野の死に場所を探すために、クラウン氏はこの下水道を作ったのだ。結局、黒野の選んだ死に場所は僕のトランペットの音の上であって、探すための場所で息を引き取るという結果になったのは、不思議な因果を感じた。

「……もう、クラウンさんに会うこともないんですね」

 ぽつりと口にする。黒野の亡骸を前にして、僕はどんな人との別れもこたえるようになっていた。

 しかし、そんな僕を励ますように、クラウン氏は両手をおおげさに広げてみせる。

「いいえ。わたしはいつでも君のそばにいますよ。道化は死なず──君の心に道化がある限りは、ね」

 そう言ってすっと手を差し伸べてきた。握手かと思ったら、その掌には可愛らしいタンポポの花が載っていた。

「タンポポ……ああ、黒野と、次の春に咲いたのを見ようって約束したっけ……」

「こんなどこにでもある野草を選ぶのは、いかにも君たちらしくて良いですね。ちなみに、花言葉はご存じですか?」

「いえ……」

 僕はその黄色の花を受け取りながら答える。そういうのにはてんで疎かった。

「真心の愛、愛の神託です」

 クラウン氏は言った。僕はもっと可愛らしいものを想像していたのに、意外だった。

「こんな小さな花なのに、そんなに大きな意味が」

「ええ。黒野に供えてあげたらいかがでしょう。猫には九つの命があると言いますからね。こうして君の気持ちを伝えれば、また命をひとつ使って、あなたに会いに来てくれるのではないでしょうか」

「……そうですね」

 クラウン氏の気遣いは、僕の心の喪失をとてもよく慰めてくれた。

 僕は、彼女が見ることのできなかったタンポポの花を、眠るように横たわる黒野の傍らにそっと供える。黒い毛皮と黄色い花の取り合わせは、まるで絵本の最後のページのようだった。

 それから、僕は手を合わせて深く目を瞑る。

 あっちについたら、お父さんによろしくな、黒野──。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 目を開いた時、強い光が僕の目を焼いた。思わず手で瞼を押さえる。ヒリヒリとした痛みを押しのけるように、少しずつ目を開けていき、見えた風景に僕は唖然とした。

 僕は線路沿い、柵の切れ目の前に突っ立っていた。

「あれ──」

 僕は呆然とした。え? まさか、これまでの全部夢だったっていうオチがつくのか?

 ものすごい恐怖感に襲われてから、ふと手元を見て、僕は心底ほっとした。僕は何故か、マンホールオープナーを持っていた。

「……あの人らしいや」

 こんなものを渡されても困る。僕はそれから手持ち無沙汰な小学生みたいに、ぶんぶんとオープナーを振り回しながら歩いた。これからいろんな人に謝ったり、説明しなくちゃいけなくなる。大変になりそうだ。だから、今くらいはせめて、何も考えないでいたかった。

「ま、とりあえず、荷物と楽器、家に取りに行くか……」

 うんざりするくらい青い空の下、線路沿いの道。昨日と変わらないようで、その実びっくりするくらい変わった世界を、僕は踏みしめて進んだ。


 その夏、僕たちは吹奏楽コンクール県大会A部門にて、金賞を受賞した。金は金でも、ダメ金というやつで、惜しくもブロック大会出場にならない金賞だ。それでも、金賞は金賞だ。みんな喜んだ。審査員の講評を見ると、僕のソロを評価してくれたようだ。当たり前だ、と思った。あそこまで多くの人に支えられて、ショボいソロが吹けるわけがない。

 僕はこの夏で、多くのものを得た。けれど、まだやり残したことがある。それが済めばきっと、僕は黒野と過ごした高二の夏を今後一生誇れるようになるはずだ。


 コンクールの日からほどなくして、部活に謝礼を取りにきた華礼はついでと言って、僕もタクシーに乗せてくれた。

「それで、ツヅの家はもう、大丈夫なんだよね?」

 渡欧を目前に控えた華礼は心配そうに言う。華礼には、コンクールの日に起こったことは黒野のこと以外は全て話した。吹奏楽を避けていた母が、きちんと聴きに来てくれたことも。

「まぁ、兄貴とはまだ連絡つかないけど……僕とお母さんは大丈夫」

 兄貴はクズだと思っていたけど、兄貴も兄貴で、僕や母と同じ苦しみを背負っているのかも知れない。そういう意味では、僕は兄貴を理解できると思う。本当にクズだったらどうしようとは思うものの、今はそうやって折り合いをつけている。

「そっか。わかった。でも……またこじれそうになったら、絶対に誰かに相談すること。せっかく世界は繋がってるんだから、私でも、お父さんでもね。音信不通は本当に勘弁してよ」

「うん……ごめん。ありがとう」

 重大な話はそれで終わり、華礼の留学の話に移った。かなり楽しみにしているようで語学の勉強も捗っているようだ。

「ドイツ語練習してるんだけどさ、『あ、そう』ってドイツ語でも同じ意味なんだよ!」

「あ、そう」

「Ach, so!」

 クラウン氏から聞いた時は「は?」と思ったことだけど、今はただその場の勢いだけで僕は笑えた。それくらい僕の心は軽くなった。ただ、黒野と一緒にこういう風に笑い合うことができなかったことが今でも心残りだった。

 やがて、タクシーは僕の家の前で止まる。降りた僕に、華礼が窓越しに手を振った。

「それじゃあ、またね、ツヅ! 次会うときはバイリンガルになってるくるから!」

「いや、一流トランペッターになって帰ってきてよ」

「あははは、それも、もちろんね!」

 去って行くタクシーの中、華礼は最後まで明るい表情をしていた。僕も見えなくなるまで手を振っていた。

 さて──。

 僕は自分の家と向き直る。鞄から、叔父さんが授けてくれた封筒を取り出した。中には、父の死亡に関する法的な書類の写しが入っている。

「……お母さん、僕たち、もう、向き合えるよね」

 僕はそう呟いて、玄関の扉を開いた。

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