第三章 君の心に道化がある限り #7

 会場到着が間に合う確信を持っていたのは、下水道経由で行くつもりだったからだ。ズルい感じもするが、せっかくクラウン氏が用意してくれた道化、利用しない手は無い。

 手ぶらで飛び出してきた僕は、当然オープナーも持っていないので、近くのマンホールを開けることはできなかった。なので、僕は柵の切れ目、今はロープでばってん印が書かれたところへと引き返してきた。

「ほら、ここ、黒野と初めて会ったところ。塞がれちゃった。僕たちが歩いたせいだよ」

「……うん……あるいたね」

 黒野は茫漠と答える。応答が遠くなっている。運ばれるだけでも体力を消耗するのだ。急がないと。僕は裏道に入ると、フタが外れっぱなしのマンホールへと躊躇無く飛び込んだ。

 着地してすぐのところは、いつものように書き物机の部屋にあたって、ランタンがじりじりと光を放っている。これも家に置いてきたかと思っていたので助かる。僕は黒野をうまく支えながら、ランタンを手に取って下水道を走った。

 光差す排水口を、ノンストップで覗いて回る。商店街、駅、コンビニ、ファストフード店、パン屋、公民館、病院、分譲マンション、田んぼ、運動場、ショッピングモール、民家、川辺──なんだか、野良猫になった気分だ。黒野は半年間、ここでどんな景色を見てきたんだろうか。黒野が死に場所を求めているのでなければ、じっくり聞いてみたかったのにな。

「っと、あった!」

 やがて、僕は目的の排水口を発見した。コンクールの会場となる市民文化会館、その中の大ホールを一望できる排水口だった。いい案配の位置にあって、僕の吹くトランペットの音が一番よく届くはずだ。

「黒野、ついたよ」

「……うぅ」

 僕の声かけに、黒野は短い嗚咽だけを漏らした。死に近い辛苦に、その表情は翳っている。

 そんな彼女の身体を、僕は優しく壁にもたれかけさせてあげた。

「黒野……僕の顔、見える?」

「……わかん、ない」

 もう光を捉えなくなった虚ろな瞳でも、黒野はしっかりと僕を見てくれる。僕はその顔の輪郭を、優しく撫でた。

「そっか……ねえ、黒野」

「……ん」

 黒野の頭がずり、とかすかに動く。

 僕は息を大きく吸い込むと、楽器を吹くのと同じ息づかいで、一息に言った。

「僕は君に恋をしてる。黒野クロという女の子に本気で恋い焦がれてる」

「恋……」

 黒野が小さな口で呟く。その言葉の響きに、目頭がカッと燃えるように熱くなった。一度止まると、もう二度と喋れなくなりそうだった。僕は一気呵成に言った。

「僕は今まで異性を好きになるが怖いと思ってた……でも、君に出会って、それが変わってしまった。君は僕の好みにどストライクな人だった。無表情でミステリアスで、くだらないことですぐ笑って、その笑顔がすごく可愛くて、たまーにマヌケで、かまってもらいたがりで、僕の気持ちに寄り添ってくれる。僕が迷っている時、悩んでいる時に、いつでも正しいところを指さしてくれる。気がついたら、僕は君のことばかり考えてた……人なのか、猫なのか、とかどうでもいいことばかり考えてさ……」

「いづき……」

 黒野は茫洋と、遙か遠くを見通すように呟く。涙が止まらない。僕までも黒野がぼやけて見えなくなる。嫌だ。僕は乱暴に涙を拭って、黒野を見つめた。無表情で綺麗で可愛い顔が、僕を見上げていた。

「だから、せめて、僕の、この気持ちだけは受け取って欲しい」

 僕は、今まで秘めていた黒野への気持ちを成就させるために、告白をした。

「黒野、僕は、君のこと、大好きだよ」

 なんのひねりも無い、まっすぐな気持ちを伝えた。

「ふふ……」

 すると、黒野は笑った。目を細めて、少女のように朗らかに、おばあちゃんのように優しく、ころころと鈴が鳴るような声で、笑った。

 その笑顔は、びっくりするくらい可愛くて、魅力的で、美しかった。

 ああ……僕はこの笑顔に惚れたのだった。何度でも、何度でも──。

「なんで笑うの……」

 僕は再び零れ始めた涙を子供みたいに拭いながら抗議した。黒野は笑いながら、言う。

「へんだから……」

「変? どこが」

「あたしが、おもってるのと、おなじことをいうから……」

「あ……」

 黒野は小さな女の子が照れ隠しするような笑みを浮かべて、言った。

「あたしも、いづきのこと、だいすき……」

 とても簡単な言葉だった。

 だからこそ、その「大好き」は、僕の胸に深く深く食い込んだ。

「黒野……」

「あたしと、いづき……おなじことおもってるの、へんだね……」

「ああ、おかしいな」

「ギャグだね……」

「そうだよ、ギャグだよ」

「あたしたち……ギャグだ……」

「そうさ。僕たちはギャグで……だから、こうして一緒にいられる」

「ふふ……」

「あははは……」

 全然笑えない、だからこそ、僕たちは笑った。

 心の荒野を須臾しゅゆの間でも潤すために。明日からの世界を少しでも変えるために。限られた命をギリギリまで生き抜くために。

 僕たちは笑う。

「あっ……」

 黒野はふと、目を丸く戻して、それから満足げに言った。

「いづき……やっと、笑った……」

「えっ──」

「いっぱい、ギャグしたのに……きかなかった……」

「もしかして……今まで変なこと言ったり、タンポポ食べたり、トランペットに顔を突っ込んだのって……」

「いづきに、わらってほしかった……から……」

 僕は言葉を失った。黒野は僕を笑わせるために、あんなに頑張ってギャグをやってくれていたんだ。僕自身が黒野にとって、物語の最後のエモい場面で笑う奴だったってことか。

「でも……見たかった……いづきのわらうかお……」

 そして、もう手遅れだった。僕は、僕の笑顔を、もう視力の弱った黒野には見せてやれない。

 激しい後悔が僕を襲った。ああ、どうして、僕は……大好きな女の子の前で、笑ってあげられなかったんだろう。結局、僕はどこまでも自分のことしか考えていなかった。そう思うと、涙が突き上げてきて止まらなかった。

 本当になんて道化なんだ、僕は──。

「いいんだ、君が笑ってくれれば……」

 もう、僕はそう言うしかなかった。僕たちの時間は黄昏を迎えていた。

 排水口の奥の大ホールには、人の気配が集まり出していた。ここから外に出るのは現実的じゃない。別の人気のない排水口を探さないといけない。

 僕はスマホで時間を見る。もう音出しとチューニングの時間に差し掛かっていた。僕の楽器はあるだろうか。安藤を信じるしかない。

「それじゃあ……トランペット、吹きに行くからね」

 僕が告げると、黒野は安楽な表情で微笑んだ。

「うん……」

「……エロいメロディが聞こえたら、それが僕の音だから」

「えろい……って、なあに……」

 僕はちょっと意表を突かれる。でも、もう僕と黒野は段階を踏み切ったはずだ。

「それはね……」

 だから、言葉じゃなく、直接伝えてやる。

「こういうことだよ」

 僕は、黒野の唇にキスをした。

 やわらかくて、ひんやりして、すべすべして、ただ、それだけだった。

 でも、それでよかった。

「……あ」

 黒野はぴくりともせず、小さく声を漏らした。その姿は僕の足をひどく重くした。離れたくない。本当はものすごく嫌だった。でも、行かなくちゃ。決めたんだ。

 僕が愛した全てのもののために、トランペットを吹く。

「それじゃあ、またね、黒野」

「うん……バイバイ」

 黒野はひどく気怠そうに言った。そのつらそうな姿に、僕ははっとする。笑ってる時は忘れられたけど、黒野はこれから、命の弱る苦しみを、ひとりぼっちで味わわなければならないのだ。本番になるとホールの照明は落ちる。黒野を下水道の闇の中に残していくなんて、どうしてもできなかった。

「……ランタン、置いていくからね」

 だから、僕は黒野のお腹のところにランタンを置いた。黒野の周りに光がふくらんだ。

 黒野から返事はなかった。ただ、その手が弱々しくランタンを包むばかりだった。

 僕は前を向く。下水道の闇。足下はおろか目と鼻の先すら見えない、黒の空間だ。壁にぶち当たった時の痛みと恐怖を思い出す。でも、僕は躊躇わずに走り出した。

 暗すぎて、何もわからなかった。撫でる空気と足裏の感触だけが頼りだった。といっても、僕は長い間、下水道で過ごしてきたのだ。ランタンの明かりがなくとも、壁にぶつからずに排水口を見つけるくらい──と、思ったら、鼻先から壁にぶつかった。

「いっでえ……」

 僕は泣きながら、走り出す。いや、こんなの痛くない。黒野の痛みに比べれば、恐怖に比べれば、なんてことはない。全然、平気だ。

 と、思っていたら、明かりが見えた。ほっとした次の瞬間、額に激痛が走る。

「がっ!」

 明かりと思ったものは、自分の瞼の裏に散った星だった。本当に顔に衝撃が走ると、星って散るんだと知った。

 その後、僕は幾度となく壁に激突した。壁にぶつかるごとに、闇を歩く恐怖は増大する。フェンス激突を恐れずにフライを追う野球の外野手は本当にすごい、と心の底から思った。挫けそうになった。もう、進みたくない。痛いのは嫌だ。そう思う身体に鞭を打って、僕は進んだ。激突する。痛い。泣く。でも、進む。たまに、曲がる。引きずって、走る。

 そして、僕は排水口を見つけた。オアシスを見つけた気分で中を覗き込むと、なんとトイレだった。今更不潔かどうかとか、考えている余裕は無い。僕はトイレ経由で市民文化会館に辿り着くことに成功した。鏡を見たら喧嘩でもしてきたような顔になっていた。これでステージに乗るのはまずい。急いで顔を洗って、ペーパーで血を拭き取った。

 後はリハーサル室かどこかで、みんなと合流しなければ。僕はエントランスに出ると、吹奏楽連盟の腕章をつけた、お手伝いと思しき女の子に声をかけた。

「あの、すみません、出場順一番の高校は今どこで──」

「きゃっ! え、大丈夫ですか! 『オトナ帝国の逆襲』のラストで階段を駆け上るしんちゃんみたいになってますよ!」

 女の子が悲鳴を上げながら、真っ青な顔でそんなことを言う。これでもマシになった方だ。僕はできるかぎり毅然と答える。

「僕は大丈夫です。あの、一番目の学校の出場者なんです、案内して下さい!」

 お手伝いの子は戸惑いつつ、僕のお願い通りに小ホールへと連れて行ってくれた。

「あ、あの、これ」

 別れ際に、お手伝いの子はおずおずと絆創膏を差し出してきた。

「全然足りないと思いますが……頑張って下さい」

「……あ、ありがとうございます」

 僕もおずおずと受け取る。その思いがけない優しさが、本当にありがたかった。僕は絆創膏で主要な傷の手当をして、フーッと息を吐くと、なんとなく手首足首をほぐし、覚悟を決めて小ホールのドアを押した。

 と、開ききる前に、安藤の声が飛び出してきた。

「伊庭は絶対に来ます!」

「でもな……もう限界だよ。代わりのソロを立てて調整する時間が必要だし……」

「この曲はあいつの亡くなったお父さんとの、大切な曲なんです。届けるために今日のために、一生懸命努力してきたんです。来ないわけがないです。もう少しだけ、もう少しだけ待って下さい……!」

 室内には、当たり前だけどたくさんの部員がいた。そのたくさんの視線の先には、安藤がいて、顧問の弘前先生に直訴していた。安藤がここまで時間を稼いでくれたのか──僕は胸を打たれ、全ての不安を押しのけるように声を出した。

「すいません、遅れました!」

「来た……」

 安藤が真っ先に反応して、僕を見た。連鎖的に、たくさんの目が一斉にこちらに向く。その眼差しの圧力は、痛いだとか死ぬだとか、これまで付き合ってきたのとは全く別種の恐怖を僕に与えた。

 怖かった──でも、僕はソロを吹かないといけない──いや、僕はソロを吹きたいんだ!

 僕は頭を下げて、叫んだ。

「伊庭です! 来ました! 今日は遅刻して、本当にすみませんでした! 大変、ご迷惑、ご心配、おかけしました! 言い訳はしません。後でいくら暴言を言っても構いません。でも、今だけは、僕は、この曲をみんなと一緒に演奏したいんです。ソロを吹きたいんです。お願いです、僕を、ステージに乗らせてください!」

 こんなに人数がいるとは思えないほどの静寂に包まれる。世界で一番キツい静けさだった。僕はじっと息を潜めて、床に揺らめく影を見つめながら、判決が出るのを待った。

「……よく間に合ったね」

 やがて、かけられたのはそんな声だった。顔を上げると、目の前に華礼がいた。銀色のトランペットをその手に持っている。華礼の相棒の楽器だった。それを、なんてこともないように、僕に差し出して言う。

「ほら、これ貸してあげる。さっさと音出ししな」

「えっ……これって、華礼の楽器じゃ……」

「持ってないんでしょ、楽器。安藤さんから聞いたよ。これ、使って良いから」

 僕は震える手でそれを受け取った。BachのVincent──憧れだった銀色のトランペット。

 手にした瞬間、華礼との思い出が蘇る。黒髪清楚の華礼が僕に運指を教えてくれたこと、ト音記号の書き方や楽譜の読み方を教えてくれたこと、その後華礼が高校デビューして幼い恋心が破れたこと──。

 そして、これを全国大会で華礼が吹いていたのを見て、吹奏楽を志したこと。

 熱い血液がどっと、全身を駆け巡った。

「あ……ありがとう……華礼、ありがとう!」

「お礼は音で聞かせて」

 華礼はそう言うと、颯爽と踵を返した。その瞬間「おーっ!」と周りから歓声が上がる。

「うおーっ、今のカッケー!」「すごい……」「ドラマみたい!」「しびれたーっ!」「お姉様ぁ!」「伊庭、待ってたぞ」「伊庭くん……!」「伊庭──」「伊庭、テメエ、ちゃんとやれよ!」「私は最初から来ると思ってたけどね」「伊庭先輩、エロいソロ頼みますよ!」──。

 想像以上の歓迎に、僕は呆気にとられてしまう。かっこつけた華礼も、金髪の間から真っ赤になった耳が覗いていた。

「ごめん、なんか、伊庭は絶対に来るって力説したら、なんか盛り上がっちゃって……」

 思わぬ展開に固まった僕に、安藤がそう声をかけてきた。安藤が僕のために弘前先生を説得してくれたから、部員視点ではドラマチックな演出になったのだ。目立ちたくない性格なのに、僕のために頑張ってくれたのか。

「あ、安藤……その、本当に……」

「今は何も言わなくていい。それ、吹いてみてよ」

 僕は「うん」と頷くと大きく息を吸って、華礼のトランペットを吹く。シ♭の音が鳴った。それは、僕が出したとは思えないくらい、豊かでなめからで、素晴らしい音色だった。

「いいね……すごく良い……」

 安藤は目に涙を溜めていた。その表情だけで、すごく心配してくれていたことがわかった。

「うん……ありがとう、安藤。僕を助けてくれて」

「バカ……当然でしょ……」

 安藤は顔を隠すように背けると、僕の肩をドスッと小突いた。全然痛くないパンチだったけど、どんな壁に激突するよりも心に響いた。

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